第9話「心拍のバグ」

 午後3時の古本屋。


 透は医学書の棚を整理していた。


 心臓の仕組み、脳の働き、感情の科学。


 人の身体を解き明かそうとした学者たちの言葉が、静かに並んでいる。


「心拍は、嘘をつかない」


 透は小さくつぶやく。


 でも、心拍が乱れる理由は、一つではない。


 ◆


 五路交差点発、哲学者のほろにがログ。第9話。


 店主の老人が、カウンターで居眠りをしている。


 穏やかな午後。


 透は窓の外を眺める。


 若い女性が、スマホを見ながら歩いている。


 時々、立ち止まり、胸に手を当てる。


「心拍が乱れてるのか」


 透は小さく笑う。


 恋は、心拍を乱す。


 夕方、透はカフェに立ち寄った。


 コーヒーを注文し、窓際の席に座る。


 隣のテーブルに、若い女性が一人で座っている。


 本を読んでいるが、集中できていない様子。


 時々、ため息をつく。


「自信がないのか」


 透は小さくつぶやく。


 恋愛経験が少ない人は、いつも不安そうだ。


 ◆


 午後11時の相談所。


 透は机に向かい、新しい手紙を開いた。


 便箋には、丁寧な文字でこう書かれていた。


『恋愛経験が少なくて、自分に自信が持てません。


 好きな人ができても、アプローチできません。


 心拍が乱れて、言葉が出なくなります。


 これは、心拍のバグでしょうか?


 それとも、私が弱いだけでしょうか?


 26歳・女性』


 透はペンを取り、ノートに書き込む。


「自信の度合いをC、恋愛経験をE、心拍の乱れをHとする。


 C=f(E, H, その他の変数)


 だが、この式には本質が欠けている。


 心拍の乱れは、バグではない。正常だ」


 透の手が止まる。


 窓の外、星空が見える。


 星は、静かに輝いている。


 でも、透の心拍は、時々乱れる。


 美月のことを考えると。


「心拍のバグ、か」


 透は便箋に、丁寧な文字で書き始めた。


『あなたの悩みは、恋愛経験が少ないことではありません。


 あなたの悩みは、心拍の乱れを「バグ」だと思っていることです。


 でも、それは違います。


 心拍の乱れは、バグではありません。


 心拍の乱れは、正常です。


 好きな人の前で、心拍が乱れる。


 それは、あなたが本気で好きだからです。


 心拍が乱れないなら、それは恋ではありません。


 恋愛経験が少ない。


 それは、悪いことではありません。


 それは、あなたが慎重だからです。


 慎重な人は、本気で好きになった時、心拍が激しく乱れます。


 それが、初恋の美しさです。


 自信がない。


 それも、悪いことではありません。


 自信がないからこそ、相手を大切にします。


 自信がないからこそ、相手の気持ちを考えます。


 心拍のバグは、ありません。


 あるのは、心拍の正常な反応だけです。


 好きな人の前で、心拍が乱れる。


 言葉が出なくなる。


 それは、あなたが本気だからです。


 その心拍の乱れを、大切にしてください。


 そして、勇気を出して、一言だけ言ってください。


「好きです」


 その一言が、すべてを変えます。


 心拍は、乱れたままでいいです。


 言葉は、震えたままでいいです。


 それが、本気の証拠です。


 あなたは、弱くありません。


 あなたは、本気です。


 その心拍の乱れを、誇りに思ってください。


 藤原透』


 透は手紙を封筒に入れ、棚に置いた。


 棚には、少しずつ手紙が増えている。


 心拍の乱れに悩む人たちの、切ない想いが並んでいる。


 透は窓の外を見る。


 星空が、静かに輝いている。


「心拍のバグ、か」


 透は小さくつぶやく。


 心拍の乱れは、バグではない。


 本気の証拠だ。


 透は相談所を出て、交差点に立つ。


 五つの道。


 風が、優しく吹き抜ける。


「心拍は、嘘をつかない」


 透は小さくつぶやく。


 心拍が乱れたまま。


(第9話完 次話へ続く)


 次回、透は「僕らの不確定性」について考える。

 そして、誰かの未来が——君の想像する「可能性」が、動き始める——。

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