第7話「夜風に混じる名前」

 午後4時の古本屋。


 透は詩集の棚を整理していた。


 谷川俊太郎、茨木のり子、中原中也。


 名前を詩にした詩人たちの言葉が、静かに並んでいる。


「名前は、存在の証だ」


 透は小さくつぶやく。


 呼ばれることで、人は存在する。


 ◆


 五路交差点発、哲学者のほろにがログ。第7話。


 店主の老人が、カウンターで本を読んでいる。


「透くん、名前って不思議だよね」


「どうしてですか?」


「呼ばれるたびに、その人が蘇る気がするんだ」


 透は少し驚く。


 老人の言葉が、胸に刺さる。


「そうですね。名前は、記憶の鍵かもしれません」


 夕方、透は川沿いを歩いていた。


 風が吹く。


 夜風に混じって、誰かの名前が聞こえる気がする。


 透は立ち止まる。


 川面が、夕日を映している。


「名前を呼ぶこと」


 それは、相手を認識することだ。


 でも、それだけじゃない。


 名前を呼ぶことは、相手に「あなたは特別だ」と伝えることだ。


 風が、名前を運んでいく。


 ◆


 午後11時の相談所。


 透は机に向かい、新しい手紙を開いた。


 便箋には、丸い文字でこう書かれていた。


『友達の紹介で、ある人と会いました。


 大学のサークルの先輩です。


 優しくて、面白くて、素敵な人です。


 でも、どうアプローチすればいいか分かりません。


 友達の紹介だから、失敗したら気まずいです。


 彼の名前を呼ぶたびに、ドキドキします。


 これは、恋ですか?


 21歳・女性』


 透はペンを取り、ノートに書き込む。


「好意の確率をP、名前を呼ぶ頻度をN、ドキドキの強度をDとする。


 P=f(N, D, その他の変数)


 だが、この式には本質が欠けている。


 恋は、名前を呼ぶ瞬間に始まる」


 透の手が止まる。


 窓の外、風が吹いている。


 夜風に混じって、誰かの名前が聞こえる気がする。


「名前、か」


 透は便箋に、丁寧な文字で書き始めた。


『あなたの悩みは、アプローチの方法ではありません。


 あなたの悩みは、恋を確信できないことです。


 でも、答えはすでに出ています。


 彼の名前を呼ぶたびに、ドキドキする。


 それが、恋です。


 名前は、特別な言葉です。


 好きな人の名前を呼ぶとき、心が震えます。


 それは、あなたがその人を特別だと思っているからです。


 友達の紹介だから、失敗したら気まずい。


 その不安は、正常です。


 でも、問いを変えてみましょう。


「失敗したら気まずい」ではなく、


「挑戦しなかったら、後悔しないか?」


 アプローチの方法は、シンプルです。


 彼の名前を、もっと呼んでください。


「○○さん、これ見て」


「○○さん、教えて」


「○○さん、ありがとう」


 名前を呼ぶたびに、距離が縮まります。


 名前は、魔法の言葉です。


 呼ばれることで、人は特別になります。


 彼の名前を呼ぶとき、あなたの声は少し震えるかもしれません。


 でも、その震えが、恋の始まりです。


 夜風に混じって、彼の名前を呼んでください。


 そして、あなたの想いを、少しずつ伝えてください。


 名前を呼ぶことが、一番のアプローチです。


 藤原透』


 透は手紙を封筒に入れ、棚に置いた。


 棚には、少しずつ手紙が増えている。


 名前に込められた想いが、静かに並んでいる。


 そして、また、あの封筒がある。


 星のイラストが描かれた、まだ開けていない封筒。


 透は一瞬、手を伸ばしかける。


 でも、やめた。


 透は窓の外を見る。


 風が吹いている。


 夜風に混じって、誰かの名前が聞こえる気がする。


 呼ばれることで、人は存在する。


 名前は、記憶の鍵だ。


 透は相談所を出て、交差点に立つ。


 五つの道。


 風が、名前を運んでいく。


「名前は、存在の証だ」


 透は小さくつぶやく。


 呼ばれることで、人は存在する。


 夜風に混じって、誰かが誰かの名前を呼んでいる。


 その声は、優しく、切なく、温かい。


 透は空を見上げる。


 星が、名前のように輝いている。


(第7話完 次話へ続く)


 次回、透は「それでも君は笑った」という言葉の意味を考える。

 そして、誰かの笑顔が——君の想像する「本音」が、動き始める——。

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