第6話「無意識の距離」

 午後3時の古本屋。


 透は心理学の棚を整理していた。


 フロイト、ユング、河合隼雄。


 無意識を探求した学者たちの言葉が、静かに並んでいる。


「人は無意識に距離を測る」


 透は小さくつぶやく。


 近づきたいのに離れてしまう。


 それは、無意識の防衛本能だ。


 でも、その距離は本当に必要なのだろうか?


 それとも、ただの恐れなのだろうか?


 ◆


 五路交差点発、哲学者のほろにがログ。第6話。


 店主の老人が、カウンターで昼寝をしている。


 穏やかな午後。


 透は窓の外を眺める。


 誰かと誰かの距離が、見えるような気がする。


 夕方、透はカフェに立ち寄った。


 コーヒーを注文し窓際の席に座る。


 隣のテーブルに、男女が座っている。


 30代くらい。


 会話は弾んでいるが、微妙な距離がある。


 懐かしそうで、でもぎこちない。


「元恋人、か」


 透は小さく笑う。


 過去との距離は測りにくい。


 ◆


 午後11時の相談所。


 透は机に向かい、新しい手紙を開いた。


 便箋には、几帳面な文字でこう書かれていた。


『元カノと再会しました。


 偶然、街で。5年ぶりです。彼女は変わっていませんでした。


 でも、僕は変わっていました。


 今は、別の人と付き合っています。


 でも、元カノと話していると、昔の気持ちが蘇ってきます。


 無意識に距離を詰めてしまいます。


 これは、まだ好きだということですか?


 それとも、ただの懐かしさですか?


 30歳・男性』


 透はペンを取り、ノートに書き込む。


「過去の感情をP、現在の感情をC、懐かしさをNとする。


 感情の混合E=P×(記憶の重み)+C×(現実の重み)+N×(時間の歪み)


 だが、この式には本質が欠けている。


 人は、無意識に過去を美化する」


 透の手が止まる。


 窓の外、星空が見える。


 星は過去の光だ。


 今見ている星は何年も前の姿。


 でも、美しい。


「過去との距離、か」


 透は便箋に、丁寧な文字で書き始めた。


『あなたの悩みは、元カノがまだ好きかどうかではありません。


 あなたの悩みは、過去と現在の距離が測れないことです。


 でも、それは正常です。人は、無意識に過去を美化します。


 元カノとの思い出は、時間というフィルターを通して、美しく見えます。


 でも、問いを変えてみましょう。


「元カノがまだ好きか?」ではなく、


「今の恋人と、元カノ、どちらと未来を作りたいか?」


 過去は、美しいです。


 でも、過去は変えられません。


 未来は不確かです。


 でも、未来は作れます。


 元カノとの再会は懐かしさです。


 でも、懐かしさは恋ではありません。


 懐かしさは記憶です。


 記憶は美しいです。


 でも、記憶だけでは生きられません。


 無意識に距離を詰めてしまう。


 それは、あなたが過去に未練があるからではありません。


 それは、あなたが過去を大切にしているからです。


 過去を大切にすることは、悪いことではありません。


 でも、過去に囚われることは危険です。


 今の恋人を見てください。


 彼女は、あなたの未来です。


 元カノは、あなたの過去です。


 どちらを選ぶかは、あなた次第です。


 でも、選ぶなら、未来を選んでください。


 過去は、美しい記憶として、心に残しておいてください。


 無意識の距離を意識してください。


 そして、未来に向かって一歩を踏み出してください。


 藤原透』


 透は手紙を封筒に入れ、棚に置いた。


 棚には、少しずつ手紙が増えている。


 過去と現在の距離に悩む人たちの、切ない想いが並んでいる。


 透は窓の外を見る。


 交差点が静かに佇んでいる。


「無意識の距離、か」


 透は小さくつぶやく。


 人は、無意識に距離を置く。


 大切なものほど。


 透は相談所を出て交差点に立つ。


 五つの道。


 風が、静かに流れる。


「無意識の距離を、意識する」


 透は小さくつぶやく。


 いつか、真実に触れる日まで。


(第6話完 次話へ続く)


 次回、透は「夜風に混じる名前」を聞く。

 そして、誰かの名前が——君の想像する「存在」が、動き始める——。

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