第5話「僕はまだ、触れていない」


 午後4時の古本屋。


 透は青春小説の棚を整理していた。


 住野よる、本田健、有川浩。


 初恋の甘酸っぱさを描いた作家たちの言葉が、静かに並んでいる。


「触れたいのに、触れられない」


 透は小さくつぶやく。


 距離感は、難しい。


 ◆


 五路交差点発、哲学者のほろにがログ。第5話。


 店主の老人が、カウンターで本を読んでいる。


「透くん、若い頃は恋してたかい?」


「まあ、少しは」


 透は曖昧に答える。


 恋の記憶は、遠い。


 でも、触れたいのに触れられない感覚は、今でも覚えている。


 夕方、透は川沿いを歩いていた。


 桜並木の下、高校生のカップルが並んで歩いている。


 少し距離がある。


 手を繋ぎたそうだが、繋げない。


 そんな空気が、見ているだけで伝わってくる。


「初恋の距離感、か」


 透は小さく笑う。


 触れたいのに、触れられない。


 その距離が、一番甘い。


 ◆


 午後11時の相談所。


 透は机に向かい、新しい手紙を開いた。


 便箋には、丸い文字でこう書かれていた。


『好きな人がいます。クラスメイトです。


 でも、彼が私に気があるのか分かりません。


 時々、目が合います。時々、話しかけてくれます。


 でも、それだけです。


 私はまだ、触れていません。手も、心も。


 どうすれば、彼の気持ちが分かりますか?


 16歳・女性』


 透はペンを取り、ノートに書き込む。


「好意の確率をP、目が合う回数をE、会話の頻度をCとする。


 P=f(E, C, その他の変数)


 だが、この式には本質が欠けている。


 恋は、確率ではない。恋は、勇気だ」


 透の手が止まる。


 窓の外、星空が見える。


 星は、遠い。


 でも、手を伸ばしたくなる。


 触れたいのに、触れられない。


「距離感、か」


 透は便箋に、丁寧な文字で書き始めた。


『あなたの悩みは、彼の気持ちが分からないことではありません。


 あなたの悩みは、触れる勇気がないことです。


 でも、それは正常です。


 初恋は、いつも距離感に悩みます。


 近づきたいのに、近づけない。


 触れたいのに、触れられない。


 その距離が、一番甘いのです。


 でも、問いを変えてみましょう。


「彼の気持ちが分かれば、私は行動できるか?」


 答えがNoなら、まだ知る必要はありません。


 答えがYesなら、あなたはすでに答えを知っています。


 彼の気持ちを知る方法は、一つだけです。


 聞くことです。


「私のこと、どう思ってる?」


 その一言が、すべてを変えます。


 怖いですか?


 怖いのは、正常です。でも、怖いからこそ、価値があります。


 触れる前の距離が、一番ドキドキします。


 でも、触れた後の温もりが、一番幸せです。


 どちらを選ぶかは、あなた次第です。


 僕はまだ、触れていない。その言葉が切ないです。


 でも、その切なさこそが初恋の美しさです。


 星空を見上げてください。


 星は遠いです。


 でも、手を伸ばしたくなります。


 触れられないけど輝いています。


 恋も同じです。


 触れられなくても輝いています。


 でも、いつか触れたいなら一歩を踏み出してください。


 彼に話しかける。彼の隣に座る。彼の目を見る。


 小さな一歩が大きな距離を縮めます。


 僕はまだ触れていない。


 でも、いつか触れたい。


 その想いを大切にしてください。


 そして、勇気を出して一歩を踏み出してください。


 距離は縮められます。


 あなたの手で。


 藤原透』


「触れていない、か」


 透は小さくつぶやく。


 触れたいのに触れられない。


 透は手紙を封筒に入れ、棚に置いた。


 棚には、少しずつ手紙が増えている。


 距離感に悩む人たちの切ない想いが並んでいる。


 そして、星のイラストが描かれた封筒。


 透は窓の外を見る。


 星空が静かに輝いている。


 星は遠い。


 でも、手を伸ばしたくなる。


 触れたいのに触れられない。


 その距離が一番切ない。


 透は相談所を出て交差点に立つ。


 五つの道。


 夜風が、優しく吹き抜ける。


 ふと、空を見上げた。


 無数の星が繋がっている。


 見えない糸で。


 僕たちも、そうなのかもしれない。


「僕はまだ触れていない」


 透は小さくつぶやく。


 でも、誰かは触れた。


 夢に。


 そして、誰かに。


(第5話完 次話へ続く)


 次回、透は「無意識の距離」について考える。

 そして、誰かの一歩が——君の想像する「距離」が、動き始める——。

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