第3話「嘘をつく瞳」


 午後3時の古本屋。


 透は心理学の棚を整理していた。


 フロイト、ユング、アドラー。


 人の心を解き明かそうとした巨人たちの言葉が、静かに並んでいる。


「嘘をつく時、人は必ず目をそらす」


 透は小さくつぶやく。


 だが、それは本当だろうか?


 ◆


 五路交差点発、哲学者のほろにがログ。第3話。


 店主の老人が、カウンターで居眠りをしている。


 穏やかな午後。


 透は窓の外を眺める。


 大学生らしき若者たちが、笑いながら歩いている。


 青春の真っ只中。


 透も、あんな時代があった。


 彼らは何を話しているのだろう。


 恋の話か、将来の話か、それとも他愛もない冗談か。


 会話が弾んでいる様子が、窓越しにも伝わってくる。


「会話が続かない、か」


 透は昨夜読んだ手紙を思い出す。


 ◆


 昨夜、午後11時の相談所。


 透は机に向かい、新しい手紙を開いた。


 便箋には、少し乱れた文字でこう書かれていた。


『サークルの先輩に近づきたいです。


 でも、会話が続きません。


 何を話せばいいのか分からなくて、いつも沈黙になります。


 先輩は優しいから、気まずそうに笑ってくれます。


 でも、その笑顔が嘘に見えて、辛いです。


 僕は、どうすればいいですか?


 20歳・男性』


 透はペンを取り、ノートに書き込む。


「会話の継続率をC、沈黙の発生率をS、相手の好感度をFとする。


 だが、この式には本質が欠けている。


 彼が求めているのは、会話のテクニックではなく——」


 透の手が止まる。


 窓の外、交差点が見える。


 人々が行き交い、すれ違い、時に立ち止まる。


 会話も、同じだ。


「嘘をつく瞳、か」


 透は便箋に、丁寧な文字で書き始めた。


『あなたの悩みは、会話が続かないことではありません。


 あなたの悩みは、「嘘の笑顔」を見てしまうことです。


 でも、問いを変えてみましょう。


 その笑顔は、本当に嘘ですか?


 人は、沈黙を埋めるために笑います。


 それは、嘘ではなく、優しさです。


 先輩は、あなたを気遣って笑っているのです。


 では、なぜ会話が続かないのか?


 それは、あなたが「何を話すべきか」を考えすぎているからです。


 会話は、計画ではありません。


 会話は、呼吸です。


 相手の言葉を聞き、自分の言葉を返す。


 それだけです。


 完璧な会話など、存在しません。


 沈黙も、会話の一部です。


 沈黙の中で、相手の表情を見る。


 沈黙の中で、次の言葉を探す。


 それが、会話の呼吸です。


 先輩の瞳を見てください。


 嘘をついているように見えますか?


 それとも、あなたと一緒にいることを楽しんでいますか?


 瞳は、嘘をつきません。


 嘘をつくのは、あなたの不安です。


 会話のコツを、一つだけ教えます。


 相手の話を、最後まで聞くこと。


 そして、相手の言葉の中から、一つだけ質問を見つけること。


「それ、どういうこと?」


「それ、面白そうだね」


「それ、教えてくれる?」


 質問は、会話の種です。


 種を蒔けば、会話は育ちます。


 嘘をつく瞳など、ありません。


 あるのは、不安に揺れるあなたの心だけです。


 先輩の瞳を、もう一度見てください。


 今度は、笑顔の奥を見るのではなく、笑顔そのものを見てください。


 そこに、答えがあります。


 藤原透』


 透は手紙を封筒に入れ、棚に置いた。


 棚には、少しずつ手紙が増えている。


 人の悩みは、尽きない。


 でも、答えは意外とシンプルだ。


 透は窓を開け、夜風を入れる。


 静かな夜だ。


 透は相談所を出て、交差点に立つ。


 五つの道。


 どれを選んでも、誰かと出会う。


 誰かとすれ違う。


 その時、瞳を見れば、答えは見える。


 風が、優しく吹き抜ける。


 交差点の向こうに、小さな光が見える。


 誰かの瞳の輝きのような、温かい光。


「瞳は、嘘をつかない」


 透は小さくつぶやく。


 嘘をつくのは、不安に揺れる心だけだ。


 透は一歩を踏み出す。


 瞳の奥に、真実を探しながら。


(第3話完 次話へ続く)


 次回、透は「君の矛盾が好きだ」という言葉の意味を考える。

 そして、誰かの矛盾が——君の想像する「真実」が、動き始める——。

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