11.恐怖
今日の午後の授業は、水の底にいるようだった。先生の声も、チョークの音も、近くで鳴っているように、くぐもって聞こえる。
わたしの心臓だけが、ドクドクと、うるさいくらいの激しい音を立てていた。
◇
原因は、昼休みが始まる直前に、結花がわたしに言った一言だった。
「ねえ、愛ちゃん。お昼休み、ちょっと屋上に来てくれないかな」
結花は普段通りの、明るい笑顔だった。だが、その笑顔の下に、冷たい刃物が隠されているような気がして、わたしは全身の血の気が引くのを感じた。
屋上は、普段生徒が立ち入らないように鍵がかかっている場所だ。教師に許可をもらわなければ、開かない。結花は、その鍵をどこからか手に入れたようだ。
昨日の放課後、人通りの少ない裏の廊下を歩いていたとき、結花と、仲の良いグループの二人の話し声が、職員室の前の曲がり角から聞こえてきた。
「ねえ、結花。最近、愛ちゃんと一緒じゃないの?」
「あー、愛ちゃんね。別に、また明日から普通にするよ。ほら、あの子、いっつも暗い話ばっかりで重いんだもん。それに、放課後も全然遊べないし。気、遣うんだよね」
「あはは、結花も大変だねー、お疲れ様」
「まぁね。でも、あの子、他に友達いないから、こっちがちょっと優しくしてあげれば、すぐ信用するし。別に、しばらくは繋がっておいてあげてもいいかなって。可哀想じゃない?」
彼女たちのクスクスという笑い声が、わたしの耳を突き刺した。わたしは、息をするのも忘れて、壁にへばりついていた。
重い。気遣う。他に友達いないから、信用する。
わたしが、薄々気づいていた、というより、確信していたのに目を背け続けていた本当のことを、結花の口から、悪意なく、ただの事実として語られるのを、わたしは聞いてしまった。
それが、昨日。たった一日前のことなのに、わたしの心は、まるで何年もかけてじわじわと凍りついてゆくような、底冷えのする痛みに支配されていた。
そして今日、結花は「屋上に来て」と言った。
聞いてしまった後だからか、わたしは不安で不安でたまらない。
昨日、ただ耳で聞いただけでも、わたしの世界の土台が崩れるように辛かったのに、今度は、面と向かって、結花がわたしにあの言葉を突きつけてくる気がして、怖い。
「もう、友達やめよう」
その四文字が、わたしの脳裏をエンドレスに回る。もし、結花がその言葉を口にしたら、わたしの普通は、完全に粉砕されてしまう。わたしは、またあの施設の中で、誰とも繋がれない存在に戻ってしまう。
チャイムが鳴り、午前の授業の終わりを告げた。昼休みだ。
周囲の生徒たちが、騒がしく立ち上がり、お弁当を取り出したり、誰かを誘ったりしている。その楽しそうな喧騒が、今のわたしには地獄の音のように響いた。
結花が、こちらに向かって歩いてくる。普段と変わらない優しげな顔のはずなのに──。
「じゃあ、行こっか、愛ちゃん」
その声に促されて、わたしは椅子から立ち上がろうとした。けれど、足がすくんで、動かない。
鉛のように重い。いや、鉛などではない。わたしの足は、地面に縫い付けられている。
結花が、不思議そうな顔で、わたしの前で立ち止まる。
「どうしたの?早く行かないと、時間なくなっちゃうよ」
「……あ、あの……ゆか、わたし……」
言葉が、喉の奥にへばりついて出てこない。動けない。
怖い。
この一歩を踏み出して、屋上の扉を開けてしまったら、わたしはもう戻れない気がする。「結花はわたしの友達だ」という、嘘と偽りに満ちた、それなのに唯一の温かい世界が、本当に終わってしまう。
わたしの命綱が、結花の手によって、あっさりと切断される瞬間を迎えるのが、心底恐ろしかった。
わたしがもじもじしている間に、結花の笑顔が、スッと消えるのが見えた。
「ねえ、愛ちゃん」
結花の声のトーンが、二段階くらい低くなった。それは、昨日、わたしが陰で聞いた、あの冷たい声に似ている。
「ねえ、愛ちゃん。屋上じゃなくてもいいんだけどさ……こないからもう、言っちゃうね」
結花は、ためらいもなく、真実のナイフを振り下ろした。
結花の目は、何も見ていないように見える。わたしの存在そのものではなく、目の前の面倒な事態を処理しているだけ、という冷たい温度だった。
「愛ちゃん、重いんだよね。正直言って」
その言葉が、耳に、ガラスの破片のように飛び散った。痛い。痛くて、思わず泣きそうになる。
「わたしね、別に愛ちゃんのことは嫌いじゃないけど、なんていうか……気、遣うんだ。毎日毎日、わたしの顔色窺って、遠慮ばっかりで。一緒にいても、全然楽しくないの」
結花は、肩をすくめた。その仕草が、一切の悪意がない分だけ、余計にわたしを傷つけた。結花にとっては、ただの率直な意見なのだ。
「わたし、もっと楽しく遊べる友達がいいんだ。笑って、放課後も一緒にカラオケとか行けて。愛ちゃんは、それができないでしょ?」
「……っ……」
わたしは、喉から「あ」が潰れたような音を出すのが精一杯だった。
涙は出そうで出なかった。それだけではなく、一瞬多分心臓が止まった、きがする。全身が冷たい水に浸されたように感覚を失った。
絶望。
わたしは、全身を、どろどろとした黒い感情に塗りつぶされた。
辛いことには、前触れがあると思っていたのだ。
昨日、結花の会話を聞いてしまったことが、前触れだったのかもしれない。そうであれば、わたしは今日までに、気持ちの準備ができたはずだった。
「あ、やっぱりこうなるんだな」と納得して、少しは痛みを和らげることができたとおもう。
昨日聞いたことと、今、面と向かって結花に言われたことの衝撃は、まるで違った。
昨日の痛みは、予報通りに降った、ただの冷たい雨だ。
しかし今の絶望は、予報になかった巨大な隕石が、突然わたしの世界を直撃したような衝撃に感じた。
絶望は、天気より不安定だった。予報を無視して、最も穏やかな空の下で、突如としてわたしを破壊しに来た。
わたしは、立っていられなくなり、その場にへたり込む。
結花は、わたしのその様子を見ても、特に動揺した様子もなく、ただ困った顔をした。
「……ま、そういうことなの……申し訳ないけど……わたし、友達とご飯食べるから」
結花は、そう気まずそうに一言残すと、すぐにくるりと背を向け、他の楽しそうな友達の輪に向かって、迷いなく歩き去った。
わたしは、その場に崩れ落ちたまま、動けない。
わたしの周りには、結花のいない、賑やかな昼休みの風景だけが広がっていた。
わたしの「普通」に近かった世界は、跡形もなく、終わった。
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