坂崎愛
9.誰か
わたしは誰かに、いてほしい。
それだけでもいいから、誰でもない、誰かが居たらいいと、いつも思う。
名前も顔も分からなくても、知らなくても、何も言わなくてもいいから、誰かにわたしに向かってただ手を伸ばして欲しかった。
「大丈夫だよ」、「君は悪くないよ」という嘘のような慰めの言葉はいらない。ただ、この冷たい暗闇の中で、わたしではない誰かが、わたしと同じように、ただ、そこに「いる」という事実が欲しかった。それは、たった一本のろうそくの火のように、消えそうでも、確かに世界を照らす確かな証拠になる気がしたからだ。
けれど、そんな人は、いない。
わたしのいる世界には、わたしだけしかいない。
◇
ここは、どこにでもありそうな、ごく普通の建物だ。古いわけでも、特別綺麗でもない。
ひだまりの家。それが、この養護施設の名前だった。
名前だけ聞けば、誰もが優しそうな日差しと、笑い声に溢れた温かい場所を想像するだろう。しかし、それは嘘だ。ここでは、日差しは冷たく、笑い声は、わたしに向けられたものではない。
物心ついた時から、わたしはずっとここにいる。
わたしには両親がいない。正確に言えば、いたのかもしれないけれど、わたしが覚えている頃から、この施設がわたしの全てだった。
この施設を経営しているのは、普通の夫婦。どこにでもいるような、ごく平凡な顔立ちをした、五十代くらいの男性と女性。彼らはいつも愛想笑いを浮かべ、市の職員や見学者が来ると、わたし達子どもたちを「大切に育てています」と言って、優しい言葉をかける。
けれどわたし達だけになった途端、その顔は、冷たい石のように変わってしまう。
わたしは、彼らに愛されたことが一度もない。たぶん、他の子たちもそうだとおもう。それでも、その中でも、わたしは特に「ハズレ」だったのだ。
要領が悪い。気が利かない。いつもおどおどしている。
それは、わたしがそうなりたくてなっているわけではないのに。何かを頼まれたり、みんなと遊んでいるとき、わたしはいつも体がガチガチに固まってしまう。失敗するのが怖い。怒鳴られるのが怖い。夫婦の嫌悪の視線を浴びるのが怖い。
それが裏目に出て、わたしはいつも、失敗する。
わたしは、同い年の子供よりも、年下の子よりも、失敗してしまう。
そして、その度に、わたしは個室に呼び出される。
個室は、この夫婦が暮らしている建物の奥にある、狭い六畳の部屋だ。そこには、夫婦以外の手伝う人が来ることも、他の子どもが入ることもない。文字通りの密室である。
「愛ちゃん、ちょっと来なさい」
そう言って、女性の冷たい指先がわたしの腕を掴むとき、わたしの心臓は喉まで飛び出しそうになる。
個室に座ると、女性か男性、あるいは両方が、低い声でわたしへの愚痴を言い始める。わたしの存在そのものを否定する言葉のシャワーのように、とめどなく、容赦なく、なかなか止まらない。
「あんたみたいにのろまな子は、初めてだよ」
「なんで、もっとシャキシャキできないの?見ているこっちがイライラする」
「本当は、あんたなんか、すぐにでも追い出したいんだよ。手間ばかりかかって」
彼らは、わたしをサンドバッグのように使った。普段、市や周りの人間に見せている「優しい夫婦」の顔の裏で溜まったストレスや不満を、全てわたしにぶつけているようだった。怒鳴り声は上げない。手を上げることも、めったにない。ただ、その冷え切った、蔑むような目と、消えない言葉が、暴力よりもずっと深く、わたしの心をえぐった。
こんなに辛い言葉を浴びせられるなら、たたかれた方が傷つかない気がした、
わたしだって、一人ぼっちは嫌だ。
この施設には、わたしと同じように親に捨てられたり、なんらかの事情で預けられている子どもたちが、たくさんいる。特に、わたしと年齢の近い女の子と友達になれそうになった時、わたしの心は、一瞬だけ明るい色を取り戻す。
新しく入ってきた美紅という女の子と、わたしは絵を描くのが好きだという共通点を見つけた。二人で、誰もいない施設の隅っこで、コソコソと未来の絵を描いた。その時間だけは輝いていた気がした。
けれど、それは長く続かない。
「愛ちゃん、最近美紅ちゃんと仲が良いみたいだけど」
夜、女性がわたしの布団の横に立って、氷のように冷たい声でそう言った。
「あんたには、お友達を作るのは向いていないの。要領が悪くて、ドジで、周りの子に迷惑をかけるだけなんだから」
そして次の日、美紅は、夫婦に頼まれた施設の仕事で、一日中、わたしから遠ざけられた。それからも、わたしが誰かと仲良くなろうとする気配を見せるたびに、夫婦は音もなく、それを邪魔した。
わたしは、孤独を強いられている。
誰にも愛されない。誰からも必要とされない。そして、誰かと心を通わせることすら、許されない。
もう、生きているのが、本当に辛い。
わたしは、今、小学五年生の四月になったばかりだ。施設の大人たちがよく話している。養護施設は、原則として十八歳になったら出なければならない。
あと八年。
八年経てば、この場所から解放される。そう考えるだけで、胸の奥が少しだけ、暖かくなる気がする。
けれど、その希望は、すぐに冷たい不安に塗りつぶされた。
八年という時間が、わたしには途方もなく長いものに思える。あと八年間、わたしはここで、この夫婦の冷たい視線と、くろい言葉に耐え続けなければならないのだろうか。あと八年間、誰とも心を通わせられずに、たった一人で、夜の暗闇に震え続けなければならないのだろうか。
八年後どころか、一年後が、二年後が、ずっと来ない気がして怖い。
今のわたしにとって、今日より一週間後、一週間後より一ヶ月後、そして、この辛い場所を出られる八年後。その時間が、まるで遠い宇宙の果てにあるように、永遠に来ないように感じてしまう。
この、底の見えない闇の中で、わたしは、ただ、震えながら、誰かを求めている。
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