7.葛藤
集中治療室(ICU)での激しい苦しみを乗り越え、わたしは元の一般病棟の白い病室に戻された。
窓の外は、もう五月の終わり。風に揺れる向かい側の建物の茶色い壁は、少しだけ、夏を予感させるような強い日差しを浴びていた。けれど、わたしの心は、ちっとも晴れない。むしろ、元の病室に戻れたことが、わたしには全然嬉しくなかった。
ICUにいた間は、常に命の危機に晒されているという緊張感と、それによって母が駆けつけてくれたという、歪んだ充足感があった。けれど、病状が安定し、元の白い世界に戻ってしまえば、もう、母は来なくなる。
わたしがICUに運び込まれたあの日、母は泣き崩れ、わたしの手を握りしめてくれた。あれは、わたしが母に求められた、最初で最後の瞬間だったのかもしれない。もしかしたら、あの時に母と会ったのが、わたしの人生で最後かもしれない。そう思うと、胸の奥がきりきりとした痛みに襲われた。
死ぬことへの恐怖ももちろんあるけれど、それ以上に、母の愛を感じられないまま、誰の記憶にも残らずに世界から消えてしまうことが、底知れない孤独としてわたしを蝕んでいた。わたしは、生きている意味を感じられなくなった。
心電図の「ピー、ピー」という音は、また規則正しく鳴り続けている。この音が途切れるまで、わたしは、また一人でこの白いシーツの上で、両親の不在に苦しむのだろうか。そう考えていた矢先、思ったよりも早く、わたしは両親と再会できたのだ。
午後三時、病室の扉がノックされた。いつもの看護師さんの顔が、少しだけ深刻そうにカーテンの隙間から覗いた。
「真礼ちゃん、ご両親が来てますよ。今日は、ドクターと四人で話があるんです。少し、大切な話になるかもしれないから、心の準備をしておいてね」
「大切な話」という言葉に、わたしの心臓がまた、不規則にドクンと鳴った。
いい話なわけがない。わたしはもう、希望が壊れるのが辛くて、期待できなくなっていた。
看護師さんが去った後、すぐに両親が病室に入ってきた。父は、いつもよりずっと固い表情で、母は、紺色のワンピースを着て、伏し目がちだった。両親は、わたしの枕元に置かれた二つの椅子に、揃って浅く腰かけた。
それから数分後、担当の先生が、カルテファイルと、小さな心臓の模型を抱えて入室してきた。先生は、白衣をまとい、神妙な面持ちだ。わたしに向かって、「真礼ちゃん久しぶり」と努めて穏やかな声で挨拶をしたけれど、その声は、いつもより少し低く、響いた。
両親も、その先生の雰囲気を受けて、緊張していて、その重い沈黙が、空気感染するようにわたしにも緊張がうつる。この部屋の空気が、まるで鉛のように重かった。
先生は、わたしのベッドの足元に立ち、わたしの心臓の精密検査の結果について、淡々と話し始めた。難しい医学用語は、わたしに理解できるように、一つ一つ丁寧に言い換えてくれる。
「真礼ちゃん。ICUでの急変は、真礼ちゃんの心臓にとって、大きな負担になりました。心臓のポンプ機能を示す数値が、前回よりもさらに低下しています」
先生は、心臓の模型を手に取り、わたしの心臓が、まるで古くて傷んだポンプのように、もう十分に血液を全身に送り出せていないことを説明した。
そして、その模型をゆっくりとベッドサイドテーブルに置くと、先生は、わたしの顔を、父と母の顔を、順番にまっすぐに見つめた。
「ご両親、真礼ちゃん。非常に心苦しいのですが、現在の真礼ちゃんの心臓の状態から考えると、昔話した二十歳までという期限ではなく、残された時間は、半年が、現実的な目安となります」
「半年」という言葉が、白い病室の壁に木霊した。心電図の「ピー、ピー」という単調な音が、急に遠ざかったように聞こえる。
わたしの「残り」の人生は、あと五年ではなかった。あと六ヶ月。
母が、小さな嗚咽を漏らし、口元をハンカチで覆った。父は、目を閉じて、顔をくしゃくしゃに歪ませている。
先生の言葉は、わたしの未来を宣告する、最終的な判決だった。わたしは、ただ、白い天井を見つめていた。頭の中が、真っ白になって、何も考えられない。
けれど、しばらくして、一つの感情が、鉛のようだった沈黙を破って、心に浮かび上がってきた。
焦りだ。
あと六ヶ月。五年間あれば、漠然と「何かできるかもしれない」という希望を抱くことができた。しかし、半年という具体的な期限を突きつけられると、もう、猶予がない。
もう、高校で教科書を開くこともないだろう。葵のように、外を走ることも、友達と笑い合うことも、一生できないまま、わたしは消えてしまうのだ。
その焦りと同時に、胸を満たしたのは、絶望だった。
これから半年間、母も父も、沢山来ると思う。わたしの死が迫っているという現実は、彼らがわたしから逃げることを許さないからだ。
彼らの愛は、期限付きだ。わたしの命が、彼らの罪悪感を刺激し続ける間だけ、わたしに向けられる一過性の光。
わたしの最期の半年間は、愛されているという幻想と、期限が来ればその愛が消えるという事実の間で、永遠に引き裂かれ続ける。わたしは、残り半年という残酷なタイマーを、彼らの愛を繋ぎ止めるための鎖として使わなければならない。
わたしが本当に欲しかったのは、「いつ死ぬか」という恐怖からではなく、ただわたしの存在から生まれる、無条件の愛だったのに。
わたしの命が短くなるほど、両親がそばに来てくれるという不条理な喜びと、それが「残り半年」という、あまりにも短い期間の報酬でしかないという絶望。その二つの感情の波が、心臓を激しく揺さぶり、心電図の「ピー、ピー」という音は、急に遠く、寂しい自分の命の音として聞こえ始めた。
わたしは、ただ、ベッドの上で、白いシーツをきつく握りしめることしかできなかった。この半年間、わたしは、どう生きて、どう死ねば良いのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます