わたしの知られたくない闇
如月幽吏
笠原真礼
1.わたしの世界
わたしは十五年の人生のほとんどを、白いベッドの上で過ごしている。
正確には、この場所――白い病室の中が、わたしの世界のすべてだ。無菌室ではないけれど、感染症を恐れる病院の先生の指示で、わたしはほとんど病室から出ることが許されない。窓はついているけれど、わたしのベッドからその窓までは少し距離があって、起き上がって身を乗り出すことがままならないわたしには、外の景色はいつも、ぼんやりと遠い空の切れ端と、向かい側の建物の茶色い壁しか映さない。
生まれつき心臓が弱くて、正式な病名はあまりに難しい漢字の並びだから、わたしはいつからか、ただ「わたしの心臓は弱いの」とだけ理解するようにした。先生はいつも「二十歳まで生きられたら奇跡だ」と両親に話しているから、わたしは長生きしてもあと五年間しか、この世界を見つめていられないのかもしれない。
もう、未来に期待を抱けない。それでも昔は、将来の夢を考えていられたけれど、十五歳の今ではもう、現実を見てしまっていた。
残り五年。わたしは、どう生きていけばいいのだろう。どう生きていけば、最期に幸せだったと思えるのだろう。
わたしには、わからない。
◇
わたしの世界は、ずっと灰色だ。
白い天井、白い壁、白いシーツ。そして、壁際に鎮座する、白いモニター。ピー、ピー、という一定のリズムで鳴る心電図の音が、わたしの世界の唯一の環境音だ。その音が途切れること――それが、わたしの人生が終わる音だと言うことは、いやでも知っている。
だから、わたしにとってこの単調な音は、恐怖の合図であり、同時に、わたしがまだ生きているという唯一の証明でもあった。
時々、看護師さんがカーテンを少しだけ開けてくれる。そうすると、午後の日差しが、消毒薬の匂いがこびりついた空気の中を、僅かにきらめいて通り過ぎる。それが、わたしの世界に入る唯一の色だ。それでも、それもほんの一瞬で、すぐにカーテンは閉じられ、世界はまた、無彩色に戻る。
十年くらい前、わたしが五歳の頃までは、両親がよくお見舞いに来ていた。
特に母は、わたしの病室を少しでも明るくしようと、毎週新しい絵本を持ってきてくれた。父は小さなポケットサイズのぬいぐるみや、指人形を、そっとわたしの枕元に置いていってくれた。その頃のわたしの世界は、まだ少しだけ色を持っていた気がする。枕元にはいつも、小さな友達が並んでいたし、母の読んでくれる絵本の中の主人公たちは、元気いっぱいに走り回っていたから。
けれど、今は違う。
わたしの未来に絶望した両親は、あまりわたしの病院に来なくなった。正確に言えば、二人の絶望がわたしの病室の空気になって、わたしの白い世界をさらに重く、暗くしているのだと、わたしにも理解できた。
最初、父は仕事が忙しいと説明した。母は、体調が悪いからと嘘をついた。
けれど本当は、現実は、わたしの命のタイマーが、刻一刻と二十歳の期限に向かって進んでいることを、ふたりが耐えられなくなったのだ。
週に一度、面会時間の終わり際に、父が五分だけ顔を見せる。白い病室の入り口に立って、「体調はどう?真礼」と、努めて明るい声で尋ねる。その声は、震えている。父は、わたしの少し青白い顔を見るのが怖いのだ。そして、母はもう、この二年ほど顔を見せていない。彼女の代わりに届くのは、季節ごとに変わる綺麗な花瓶の花だけ。
その花も、わたしにとってはただの飾り物でしかない。香りの強いものは心臓に負担がかかるからと、花瓶はいつも、わたしの手の届かない窓際に置かれている。
今日、面会に来た父に、わたしは尋ねた。
「ねぇパパ。わたしの心臓が、もし、普通の心臓だったら……」
父は、それ以上何も言わせないように、わたしの手を強く握りしめた。その手が、わたしの小さな手を包み込むようにして震えていた。父の目には、深い、深い悲しみが沈んでいた。
「真礼、そんなことを考えるんじゃないよ。お前は、お前のままでいいんだよ。俺たちは、真礼を愛してるから」
その言葉は、まるで白い天井に響く心電図の音のように、単調で、重かった。
父が病室から出ていく時、扉が閉まる直前に聞こえる、父の吐息のような声。
「……本当に、すまない」
その一言が、わたしをこの白いベッドに繋ぎ止める、見えない鎖のように感じられた。わたしは、わたしが「普通の心臓」を持てなかったせいで、両親を苦しめている。わたしの灰色の世界は、両親の人生まで、重苦しく染め上げてしまっているのだ。それをどんなに嫌だと思っても、反省しても、両親に申し訳なくても、どうすることも出来ない。苦しい。わたしが普通だったら、いつもそう思う。
十五歳。同い年の子たちは、どんな空を見ているのだろう。友達と笑い合い、走っているのだろうか。
わたしからしたら、遠い世界の出来事だ。わたしには、その世界の景色も、音も、匂いも想像できない。
わたしは、ただ、ピー、ピーという音を聞きながら、次の五年、その五年の間、両親がどれだけこの病室に来てくれるのだろうか、ということを、ぼんやりと考えるだけだ。
白いシーツの上で、わたしはそっと、自分の細い指先を見た。そこには、小さな青い静脈が透けて見えている。この静脈が運ぶ血流が、いつか途切れる日まで、わたしの世界は、この白い病室から動くことはないのだろう。
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