花の声を聴く朝に

yuyu

第1話 朝の光のなかで

朝の光が、街の隙間に柔らかく差し込んでいた。

高層ビルの谷間を縫うように、淡く光る朝の帯が舗道を撫で、まだ湿ったアスファルトに淡い色を落としていく。

いつもの朝――でも、その“いつも”の中に、ほんの微かな予感が漂っていた。


花屋「音ノ葉」の扉を開けると、ガラスに触れた光が揺れ、店内の花々はまだ眠たげに首を垂れている。

花音は深く息を吸った。ひんやりとした空気に、花の香りが混ざり、胸の奥まで柔らかく染みていく。

ここにいるだけで、今日一日の重さをそっと軽くしてくれるような気がした。


昨日閉店前に手を入れた花桶の水を替え、葉をそっと整える。

花びらをなぞる指先に、まるで命の温度を確かめるかのような感覚が残った。

淡い朝の光が花を撫でるたびに、床に淡い影を落とす。影は揺らぎ、また元に戻る。その一瞬の揺らぎに、花音は思わず見入ってしまった。


奥に置かれた小さな鈴が、かすかに揺れた。

音は鳴らない。ただ、光に反射してきらめいた。

この鈴は、この店を引き継いだときからそこにあった。

誰が置いたのかはわからない。

ただ、その存在は、花音にとって不可思議な安心感を与えていた。


「……気のせい、だよね」

自分へ小さく呟き、花音は手を止めずに作業を続けた。


水の音、花の香り、朝の光――

すべてが、今日という一日の始まりを告げていた。


店先のシャッターを半分まで上げると、小さな風が通りを抜けた。

遠くでスクールバスのエンジン音、歩道を急ぎ足で通り過ぎる人々の靴音。

朝は、いつだって世界のリズムを凝縮して運んでくる。


花音は白木の看板を店先に置いた。

小さく“本日開店しました”の文字。

その横に、一輪だけラナンキュラスを挿すのは、毎日の小さな習慣。

開店を知らせる合図というより、今日の気持ちをそっと表すようなものだった。


歩道の向こうに、黒いコートの青年が立っていた。

ポケットに手を突っ込み、少し迷うように足を止める。視線だけが花屋の方を向いている。


――あ、入ってくる。

花音の直感が告げた。


青年は小さなためらいを抱えながら、横断歩道を渡り、ガラス扉の前で深呼吸をした。

そして、そっと店内へ入ってきた。


「……おはようございます」

低く、少し震える声。迷いと焦り、わずかな決意が混ざっていた。


「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」

花音が問いかけると、青年は一瞬目を伏せたが、やがてまっすぐ花音を見て言った。


「花を……贈りたい人がいるんです。

 でも、どんな花を選べばいいのか、わからなくて」


花音は軽く頷いた。

その瞳の奥には、“抱える何か”が揺れている。


「では、一緒に探しましょう。

 その方は……どんな方なんですか?」


青年は少し考え、そしてぽつりと言った。


「……昨日、初めて会ったんです。

 でも……その人のことが、どうしても忘れられなくて」


花音はそっと息を呑む。

朝の光に包まれた店内で、青年の言葉は静かに響き、まるで空気の一部になった。


――“昨日”の出会い、

――“忘れられない”という想い。


この小さな瞬間が、街の誰かの心を、そして花音自身の今日を動かし始める。

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