一夏の自分探し。

月空 翼途

第1話 発端

 八尋やひろ市、八千代やちよ中学校。

「またなー」

「なぁ、夏休みどっか行こうぜ。プールとか」

「8月は推しのライブあるんだよね。楽しみ〜!」

 7月18日。ようやく始まる夏休みに、どの生徒たちの顔も明るかった。——1人を、除いて。

「藍川君、またね」

「おう。また休み明けにな」

 仲のいいクラスメイト、谷口たにぐち 晴太せいたに手を振って、藍川あいかわ けいはその背中を見送る。彼が別のクラスの友人と合流したのを見ると、慧は顔に貼り付けるようにしていた笑みを消す。

 小さくため息を吐き、玄関へ向かうべく階段へと足を向けた。

 周りはどこも、夏休みに浮かれた中学生でいっぱいだ。慧と同じく1人で帰る者はいても、どこか不服そうな顔をした者は、見渡す限り慧の他にはいない。

(あーあ。どいつもこいつも浮かれちゃってさぁ)

 廊下を塞いで話している生徒たちの横を通りながら、慧は少し彼らを睨みつける。

(陽キャ共がうるせぇんだよ、道塞ぐなっつーの。俺みたいな陰キャにも、もうちょっと配慮してもらえませんかね)

 心の中でそう毒づきながら、慧は人混みを抜けていく。


 靴を履き替えて外へ出ると、太陽が眩しかった。まるで空まで夏休みに浮かれているようだ。

 何の気なしに周りを見ると、去年同じクラスで仲の良かった小橋おばし たく岩崎いわさき つかさがいた。

 声をかけようとして、思わず踏みとどまる。そう言えば、あの2人は同じクラスだったっけ、と。

 仲良くつるんでいた3人の中で、今年慧だけが違うクラスになってしまった。2人の間には、慧の知らない3ヶ月がある。短いようで長い、3ヶ月が。

 慧がいなくても、2人は楽しそうだった。慧の存在に気がつくことなく、笑いながら会話をしている。そこに、2人の部活の友人も加わった。慧はあまり話したことのない子たちだ。

 彼らから目を逸らし、慧は何も見なかったことにして、1人足早に校門を出る。


 歩くこと、数分。

「ただいま」

「おかえりー」

 どこか気の抜けたような返事が返ってくる。

「明日から夏休みかぁ。いいなぁ」

「仕事辞めてから、母さんは毎日夏休みみたいなモンだろ」

「あはは、確かに。…誰かと遊ぶ約束とか、したの? 最近卓君とか司君の名前聞かないけど、2人とも元気? あと、あー、誰だっけ、あの子。去年から同じクラスで、よく話すって言ってた子」

「…谷口? のことかな」

「そうそう谷口君! とか、休み中遊ばないの? あれ、慧ってあの子たちのLINE持ってるんだっけ?」

 親というのは、どうしてこうも子供の対人関係やら予定やらに口を出してくるのだろうか。

 予定ならまだわかる。家族間での予定だってあるからだ。予定を聞かれるくらいなら、慧だってまだ納得できる。

 だが予定にしろ対人関係にしろ、言うべきことがあったら慧はいつも自分から言っている。わざわざ聞かれる前に、だ。

「あー…うん…」

 こっちにだって、根掘り葉掘り聞かれたくないことはあるというのに。いちいちこちらの生活に過干渉してこないでほしい。

「まぁ、お互いの予定合ったら遊びに行くかーみたいな感じ? ほら、あいつらは俺と違って、休みも部活とかあるし」

「そっかぁ、中学生だもんね。みんな忙しいかぁ」

 当たり障りのないことを言って、慧は適当に会話を切る。本当は誰とも、そんな話はしていない——できていないけれど。

 その後は自室で漫画を読んだりスマホをいじったりして、ダラダラと過ごす。

 5時過ぎ頃になると、慧は自転車に乗って家を出た。

 「こんな暑いのに、どっか行くの?」と言う母親には、「図書館でちょっと読みたい本あって」と、また当たり障りのないような返事をしておく。

 内心面倒臭いのを、ウザいと思っていることを顔に、声に、態度に出さないよう気をつけながら、慧は「行ってきます」と言う。


 一度手を合わせてから、慧は木の根元に腰を下ろす。

 周りを木で囲まれたその場所は、神社と言うより祠というほうが近かった。

 祠を囲うように植えられた木々と、その木々の切れ目にある色褪せた鳥居。鳥居にはなんとか読めるくらいの小さな掠れた字で“八千代神社”と書かれている。

 敷地の真ん中にある祠には褪せた花柄の前掛けをつけたお地蔵さんが鎮座していて、それを守るかのように、祠の横には他の木よりも一回りほど大きな木が立っている。

 祠にはいつも、いつ誰が置いたのかもわからないお供え物が置かれている。

 いつ来ても人の気配のない静かなこの場所は、慧にとってお気に入りの場所だった。

 1人になりたい時、なんとなく家にいたくない時、落ち着いて考え事をしたい時…此処ここはいつでも、慧を迎え入れてくれる。この場所にいる時が、1番素の自分でいられる気がした。

(みんないいよなぁ、遊びに誘えるような友達がいてさ。俺だって、卓と司あいつらと同じクラスだった頃は、もっと気軽に話して、遊びに誘えてたのに…)

 小さくため息を吐く。

(去年1年、卓のほうは小6の時からずっと、仲良くやってきたってのに。今じゃ俺抜きの仲良し2人組だもんな、あいつら。LINEだって交換したのに、全っ然仕事してねぇんだぜ? んなるよな、ほんとに)

 誰にともなく語りかけるかのように、慧は思う。

(谷口だってこの3ヶ月で、去年に比べて結構仲良くなれたと思ってたのにさ。…まぁ、もし卓たちが同クラだったら、今みたく一緒に行動してたかはわかんねぇけど。…それにしたって1日くらい、遊ぶ約束とか、してくれたって…。…あいつ、チャイム鳴った途端別のクラスの友達んとこ走ってくんだもんな。そんなに、俺のことはどーでもいいのかよ)

 脳内でそう不貞腐ふてくされてから、慧は空を見上げた。

(…それに一昨年までは、あいつともまだ、親友で…よく、お互いの家、行き来して…)

 鼻の奥が一瞬つんとした気がして、慧は軽く頭を振った。

 そして思考を切り替えようと、友達ってなんだろう、と思う。慧と、卓、司、谷口は、友達と呼べる——呼んでもいい、関係性なのだろうか。

 本当は自分が一方的に仲がいいと思っている——思っていただけで、本当は最初から独りだったのではないか。

 そんな自分のネガティブすぎる思考に、慧は思わず、またため息を吐く。

(今年は母さんが仕事辞めて…いや、辞めさせられて? からずーっと家にいるしさ。1人の時間なんて、あってないようなモンだよな…息が詰まる…。せめて部活でもあったら、でもって部活に友達がいたら、多少は楽しいんだろうけど)

 悲しいかな、慧の所属するパソコン部は休日、すなわち夏休みにも活動は一切ない。だからこそ慧はこの部を選んだのだが…。

 そして休日に遊ぶ約束ができるほど親しい部員も、慧にはいなかった。

 そもそも基本、慧は部活では話す相手がおらず、1人無言で作業しているからだ。周りにいるグループになど、今更入る気も、入れる気もしない。

 親に対しては先程通り、当たり障りのないことを言って、本音は話さない。本音を話したとしてわかってもらえるとは思わないし、わかってほしいとも思わない。

 必要以上に心配されるか、根本的な解決には至らない浅いアドバイスを言われるだけ。そう知っているからだ。それならば、抱え込む方がよっぽど面倒臭くない。

 思春期反抗期真っ只中ではあるが、下手に反抗して親と面倒事になるのも避けたいのだ。

 だが面倒事を避けられたとて、慧の心は軽くなるわけではない。むしろ、いつか心の中に芽生えたあの思いが、徐々に大きくなっていく。

此処ここはきっと、俺の居場所じゃない)

 はっきり友達と言える相手がいない。本音を話せる相手もいない。面倒事を避ける為に演技うそを重ね、意味も理由もなく、ひたすらに酸素を消費していくだけ。

 居場所がない、というのとは少し違う。

 居場所では、ない。

 自分が生きるべきは、此処ではない。

(此処じゃない、別の何処どこかへ行きてぇな)

 別の何処か。それは国内にあるのか、海を越えた先なのか。それとも本当に、別の世界——俗に言う、異世界のことなのか。

 その“何処か”へ行ったとて、そこを自分の居場所と思えるかも分からない。

 でも、それでも。

「此処じゃない、何処かに行きたいよ…」

 静かに空気を震わせたそのつぶやきは、誰に届くでもなく、夏の気怠げな空気の中へ溶けていった。



  ✦⋯▽⋯✧



  ピピピピピッ ピピピピピッ

「…ん……」

 4日後、午前6時。夏休みも始まり、ラジオ体操初日の朝である。

 目覚ましを止めて二度寝しかけた慧は、慌てて自分を奮い立たせて身を起こした。

「ふぁ…」

 大きな欠伸あくびと伸びをして、ベッドからおりる。

 ラジオ体操に行く為、慧は普段よりも早く起きていた。

 特に行きたいわけでもないラジオ体操。けれど学校でカードをもらった以上、行かなくてはならない気がする。こういうところで慧は律儀というか、真面目なのだ。

 慧の地区では、ラジオ体操は公園でやっている。特に大きいわけでも、かと言って小さいわけでもない、これと言った特徴が本当に何もない公園である。

 ちなみに遊具はブランコ、鉄棒、滑り台の3つだけで、ラジオ体操の朝に早く来た子供たちがブランコの取り合いをしていたりする。

 慧は同じ地区にも、友達はいないに等しい。小学生の頃は登校班というものがあり、一緒に登下校するのもあってつるんでいた同級生が何人かいた。だが中学に入って別々に登下校することが当たり前になり、中学生になったそばから疎遠になってしまった。

 唯一 一緒に登下校していた友達も、1年ほど前のある日を境に、話さなくなってしまった。

 だから、他学年などもってのほかだ。

 …もってのほか、だったはずなのだが。

「あー! けいくんだー!」

「けいにーちゃん、おはよっ」

「けい兄あそぼー!」

「………………はい?」

 どうしたことだろう。何故か今朝は、公園に入った途端小学生たちに囲まれた。

 慧を取り囲むのは小3、小4ほどの子供たち。一昨年やその前、登校班やその集合場所が同じだった子たちだ。

(おぉ…ちょっと見ねぇうちにでかくなったな、こいつら…。…じゃ、なくて!)

 しみじみと思ってしまってから、慧は我に返る。

 見覚えはもちろんある。だが逆に言えば見覚えがあるだけの3、4人の子供たちに話しかけられて、慧は困惑する。

(え? 何? いや、こいつら別にそんな…話したことない、よな? いやなくはないけど、せいぜい子供会とかそういうのでかるーく関わった程度で、仲良くなった覚えもこんな懐かれる理由も…ない。ない、はずだよな?)

 そして自分の足元にまとわりつくうちの1人の顔を見て、慧の頭には更に「?」が浮かぶ。

(このチビ、俺の事さんっざん「クソジジイ」とか「けいくん嫌い」とか言って喧嘩売ってきてた奴だよな? ほんとに何? なんなの? 罰ゲーム??)

 脳内をぐるぐると巡る思考回路。最適解は出ない。と言うか状況を理解できていないのに出るはずがない。

 ちなみにこの間、慧の身体は完全にフリーズ状態である。

「ねぇけいくんー。どーしたのー?」

「…おーおー、朝っぱらから相変わらずの人気者だねぇ、けーくんは」

 返事をしない慧を不思議そうに見上げる小学生たちの間に、急に中学生の声が割って入った。

「あー、あきらくんずるいー!」

「おれらが先にけい兄ちゃんと話してたんですけどー!」

「はいはいそーだねー。ガキんちょは大人しく小学生ガキ同士で遊んでなさい」

 その中学生——浦道うらみち あきらは、そう言いながら小学生たちをしっしっと追い払う仕草をする。ぶーぶー言いながらも離れていく子供たち。

「よっ、おはよけーくん。朝から災難だったねぇ。にしてもほんっと羨ましいわー。オレ子供らに全然懐いてもらえんからなー。まっ、そもそもオレは懐かれようとしてないけどなっ」

「…あっきー…。…な、なんで…?」

「んー? なんでって、ラジオ体操じゃん? つか約束したろー? 毎日来るって。けーくんが言ったからオレも来たんだよー?」

「…そうじゃなくて。…そんな話、した…っけ?」

 いや、それ以前に。

「…なんで、俺と…」

 なんで俺と、話してるんだ?

 頭に浮かんだその疑問が喉に詰まるようで、声を出すことができない。

「えーっ、オレら友達じゃん? けーくんこそなんでよ? どした、なんか変なモンでも食った?」

 冗談めかすように笑う目の前の晶に、慧は何も返せない。

 けーくん、はどこか懐かしい響きだった。その笑顔が自分に向けられたものであることを信じたくて、けれどどうしても信じられなかった。

 何故なら——慧と晶は、1年前のある日を境に、1度も話すことなく関係が切れてしまっていたからだ。切れてしまっていた、はずだからだ。

 現に、慧がこうして晶と話すのは1年ぶりだ。

「けーくん?」

 黙り込んでしまった慧の顔を、晶は怪訝そうに覗き込む。

「…ぁ、っきー」

 さっき思わず呼んでしまったけれど、改めて呼ぼうとすると声が喉に引っかかってしまった。

 あっきー。それは晶のあだ名だ。慧と違って沢山の友達がいる晶の、けれど慧だけが呼んでいたあだ名。

「俺たち…友達、なのか…?」

 思わず、そんな呟きが口をつく。

 そう言って、いいのか? そう言える権利が、俺にはあるのか?

「あったり前じゃん? オレら親友っしょ? なに、けーくん今日おかしくね? やっぱ変なモン食った? だいじょぶ?」

「…いや…大丈夫」

 幸い、場を取り繕うのは得意だ。

「そ? ならいーけど。…お、始まる。ほら、けーくんも歌おーよ! あーたーらしーいあーさがきた〜♪」

 慧に懐いていた小学生たち。慧のことを親友と言う晶。

 —— 一体、どうなってるんだ?



  ✦⋯▽⋯✧



  ガチャ

「あ、慧。お帰り〜おはよ〜」

「…ただいま。はよ」

 ラジオ体操が終わり、慧は家に帰ってきた。

 今は7時。仕事に出る準備をしている父と、朝食の支度をしている母。

 少なくとも家はいつも通りのようで、慧は少し安堵する。

 手洗いうがいと水分補給をすると、朝食ができるまでの間にと、慧は漫画を開いた。

「慧〜ご飯できたよ〜」

「ん、はーい」

 慧は漫画を閉じて、席に着く。

 トーストに目玉焼き、ミニトマト、ヨーグルト。何の変哲もない藍川家のいつもの朝食である。味も特に問題なかった。

 ごちそうさまでした、と手を合わせてから、慧はラジオ体操の時のことを思い出す。

 家がこうもいつも通りだと、公園であったことは何かの間違い——夢だったんじゃないかと思えてくる。

 けれど、あれは確かに夢なんかじゃなかった。子供たちにまとわりつかれた感触も、けーくんという晶の声の響きも、表情も。鮮明に思い出すことができるのだから。

 なんとなくぼーっとしたまま食器を片付けると、慧はリビングで漫画を読むことを再開する。

 身近に起きている謎現象よりも、漫画の続きの方が慧にとっては重要なのだ。少なくとも、本を読んでいる間は現実のことは忘れられる。

 そして、漫画に没頭すること数十分。

「じゃ、慧。お母さん行ってくるね」

「…ん?」

 時計を見ると、8時過ぎ。化粧をして鞄を持った母が、慧に声をかけた。

「いく、って…。…何処に?」

「何言ってんの、仕事に決まってんでしょ?」

「は? だって母さん仕事やめさせ——辞めて…」

「それで就活して、6月から働き始めてたじゃない」

 母は、何を今更、という顔で慧を見ている。

「…え…。…ぁー、そっか。そうだわ、ごめん、俺の勘違いだ。夢とごっちゃになってたかな?」

 慧はそう取り繕って、誤魔化すように笑う。

「行ってらっしゃい」

「そう? じゃ、行ってきます」

 母が扉を閉める。慧は、家に1人になる。

「…なんだ…?」

 やっぱり、今日は普通じゃない。おかしい。

 慧の記憶の中の母は、再就職どころか就活なんてしていなかったはずだ。

《LINE♪》

「わ」

 途端、スマホの通知音が鳴る。見ると、晶からのようだ。

「…あっきー…? なんで…?」

 慧がスマホを買ってもらったのは今年の春。だから1年前に関係が切れた晶とは、LINEを交換しているはずが——できているはずがない。

 訝しみながらLINEを開いて、愕然とする。

「嘘だろ…? 俺、こんなにLINEの友達、いたっけ…?」

 親を含めて10人もいなかったはずの、ほとんどが公式LINEでうまっていたはずの、LINEの友達。それが今は、20人は優に超えている。クラスメイト、パソコン部の部員、小学生時代の友人たちまで…。

 そして慧は、ふと金曜日のことを思い出す。

『此処じゃない、別の何処かに行きたい』

「もしかして…此処は、俺の望んだ“別の何処か”なのか…?」

 その呟きに、応える者はいない。

 けれど本当に、此処が自分の思い描いた“何処か”なら。

「俺は、もう…」

 ——独りじゃ、ない?

 そういうことなのだろうか。自分がいなくても楽しそうな友人たちから目を背けることも、友達なんかいなかったんじゃないかと疑心暗鬼になることも、悩みを誰にも言わず、本音を見て見ぬふりし続けることも。もう、しなくてもいいのだろうか。

[けーくん、今日ヒマ? オレんちで遊ばねー?]

 LINEに届いていたのは、そんなメッセージだった。

 1年以上前までは、毎日とまではいかないまでも、毎週のように遊びに行っていた晶の家。去年の9月、晶との関係の終わりを理解した日を境に、もう行けることも、一緒遊ぶこともできないだろうと諦めていた。

 それがまさか、向こうからまた誘ってもらえるなんて。

[ヒマ。行く。]

 それだけ返すと、晶からは何かのアニメキャラが親指を立てているスタンプと共に、[待ってる!]という言葉が送られてきた。

 慧はこれ以上、この世界について考えることをやめた。此処がなんだって、いいじゃないか。だってこんなにも、“幸せ”な世界なのだから。

 夢ならばどうか、醒めないで——。



  ✦⋯▽⋯✧



 この世界に来てから少しずつ、慧は“この世界で生きてきた藍川 慧”の記憶を思い出していた。元の世界を忘れていくわけではなく、忘れていた昔の記憶が、不意に頭に浮かぶように。

 現在慧の中には、この世界のものと元の世界のもの、2つの人生を送ってきた記憶が同居していた。

 友達がいる、独りぼっちじゃない生活。悩みなんかない。もう寂しい思いをしなくてもいい。独りで抱え込んでしんどい思いもしなくて済む。

 慧の毎日は、充実していた。一見、充実しているようだった。

 けれどふとした瞬間、ある言葉が頭をよぎる。『此処は本当の世界じゃない』と。

『本当の世界は元いた場所だろ?』

『此処は偽物の世界だ』

『だからこの幸せだって偽物じゃないか』

紛い物まがいものの幸せで、本当にいいのかよ?』

『お前が生きるべきは、此処じゃないだろう』

 誰に言われたわけでもないのに、心の中で響く声。まるで誰かが叫んでいるようだ。

 その、叫んでいる声は——。

(…俺、なのか?)

 慧は思う。別にいい、と。幸せならば、此処が何処だっていい、と。

 けれどその裏で、もう1人の自分が訴えかけている。ずっと偽物の世界で、都合のいい偽物の幸せにだけ目を向けて、生きていくのかと。偽物の世界で、本当に幸せになれるのか、と。

 そんなこと、わからなかった。慧にわかるわけがなかった。

 けれど、元いた世界で生きることがしんどかったのもまた、紛れもない事実なのだ。


 ——そして、心の奥の声に耳をすませるあまり、慧は気づいていなかった。元の世界の記憶が、少しずつ、少しずつ。

 新しい記憶に、侵食されはじめていることに。

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