隣に住む90歳のおばあちゃんとの友情

森の ゆう

第1話 隣に住む90歳のおばあちゃんとの友情

隣に住むおばあちゃん、斎藤タエさんは今年で九十歳。

僕がアパートに越してきた日のことを、今でもよく覚えている。「あんた、荷物多すぎ。若いのに部屋は片付いとるんかね?」と、初対面とは思えぬ強打をお見舞いされた。


だが、それがこの奇妙な友情の始まりだった。


タエさんは、朝の六時には必ず庭に出て、植木に話しかけている。

「おはよう。今日も咲いたねえ」

まるで、昔からの友達相手みたいに。

それを眺めながら出勤しようとする僕に、必ずひとこと。

「ちゃんと朝ごはん食べたか? 若者は栄養不足が一番いかん」


僕はいつの間にか、「食べたふりでごまかす技」を身につけていた。


ある日、僕が玄関で転けて足をくじいた。

するとタエさんは、杖をつきながらも猛スピードでやってきて、こう言った。

「若者が転けてどうすんの。九十の私でも転けんよ」

いや、それは比較対象が違うと思いつつ、ありがたく湿布を貼ってもらった。


タエさんはたまに、昔の話をする。

「私ね、戦後すぐに結婚してさ。あの頃はなんでもなかったけど、今思えば冒険だねえ」

そう言って笑う顔には、百の物語が隠れているようだった。


そんなタエさんにも弱点がある。

それは“スマホ”。

「この黒い板、いつも怒っとる。押したらすぐ変な画面になる」

僕はよく呼び出され、「電話をかけるボタン」と「間違えてYouTubeを開いてしまった場合の閉じ方」を指導する。

教えるたびに、

「あんた先生になったらええ」

と言われるが、絶対に向いてないと思う。


ある日曜日。

僕がコンビニ袋を提げて帰ると、タエさんが縁側から呼んだ。

「ちょっと来んかね。今日で私、ここに住んで六十年になるんよ」

お祝いに、二人で小さな乾杯をした。僕は缶コーヒー、タエさんは麦茶。


「長く生きてるとね、家族が先にいなくなることもあるし、友達も減る。でも、隣に誰かおるってのは、それだけで嬉しいもんよ」


その言葉を聞いて、胸が少しだけ熱くなった。


帰り際、タエさんは言った。

「これからも、よろしく頼むよ。私が百歳になったら、盛大に誕生日してくれ」

「もちろんです。盛大に、ですよ」

僕が答えると、タエさんはにやりと笑った。


「じゃあ百歳まで生きんといかんね。アンタ、私より先に倒れんようにね」


その日以来、僕は朝ごはんをちゃんと食べるようにした。


そして今日。

隣からタエさんの声がする。

「若者ー! スマホがまた怒っとる!」

ああ、本当にこの人は変わらない。

でも、その変わらなさが、僕はちょっと好きだ。


九十歳のおばあちゃんと若者の奇妙な友情は、今日も元気に続いている。

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隣に住む90歳のおばあちゃんとの友情 森の ゆう @yamato5392

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