尻尾を釣る岩

かいだんにゃん

尻尾を釣る岩



あれは三年ほど前のことだ。

山口・島根・広島の県境が噛み合わさるように入り組んだ谷で、私は古い集落の取材をしていた。地図には名前こそ残っているが、道路標識にも載らず、注意して見ても見落としてしまうほどの小さな村だ。谷が深く、昼でも光が底まで届かない。携帯は圏外で、夜ともなれば、闇が空から落ちてくるのではなく、下から湧くように思えた。


初日は移動だけで疲れ果て、民宿で早めに布団を敷いた。

軋む柱、ゆるく沈む床、湿気を含んだ畳。

疲労のせいかその異物感を気にする余裕もなく、私は横になった。


眠気が落ち始めた頃だ。

外で、何かが地面を擦る音がした。


――ずる……ずる……。


最初は獣かと思った。だが、あまりに“湿って”いる。

土と泥が引き延ばされるような音。決して足の「とん、とん」という着地が混じらない。

布団の中で息を殺して耳をすますと、音は窓際を横切り、遠のき、また戻ってきた。

右から左へ、左から右へ。一定のリズムもなく、あてもなく揺らぐように。


土の匂いに、何か生ぬるい臭いが混じっている。

胸がざわつき、布団を頭までかぶった。どれくらいそうしていたかわからないが、気がつくと外は青白く明け始めていた。


翌朝、村の中心にある小さな駐在所の前で、猟師の老人に声をかけられた。

骨張った身体に厚手の手袋、背中の籠は空だが、猟銃だけは新しく磨いたように光っている。


「昨夜、変な音しんかったか」

唐突な質問に驚きつつ、私は聞いた音を説明した。すると、老人は急に口を閉ざし、伏し目になった。

さっきまで気さくに笑っていたのが嘘のように、顔の皺が急に硬く沈む。


「……あれかもしれんのう」

「あれ、とは?」

「獣じゃあ、ないんよ。ここらで‘獣’言うたら……そういう意味とは違うけえ」


普通の動物ではない“何か”を指す口ぶりだった。

老人は周囲を見回し、誰もいないのを確認して、小さく続けた。


「この谷にはな、“尻尾岩”いう石がある。昔、神さまがそこで、獣とも人ともつかんもんの尻尾を、地面から釣り上げたんじゃと」

「釣り上げた……?」

「そいつは、魂を喰うて生きとった。尻尾に、魂を寄せる力があるんじゃと。願いを叶えるかわりに、魂をひとつ……まあ、昔話よ」


言いながら、老人の手袋の中の指が微かに震えていた。

冗談の軽さはなく、かといって作り話の芝居がかった感じもない。湿った重みだけが残る説明だった。


その日の午後、さらに詳しく話を聞くため、老人の家を訪ねた。

古い木造家屋で、軒には黒ずんだ風鈴が吊られている。風は吹いていないのに、近づくと「かち……」と一度だけ鳴った。まるで、私が来たことを知らせるように。


居間に案内され、温い茶を飲んでいると、

家の奥から突然、木の裂ける乾いた音が響いた。


――バキッ。


思わず振り返ると、仏間の天井の梁に大きな亀裂が走り、細かい木片が畳に散っていた。

老人は蒼白になり、しばらく動けずにいた。


「……また“報せ”か」

「報せ?」

聞き返したかったが、老人の表情にそれ以上の言葉を押し込められた。

何度も同じ現象を見てきた者の顔。

その“繰り返し”の気配が、私を黙らせた。


夕暮れ前に取材を切り上げ、民宿に戻った。

しかし胸騒ぎが消えない。

谷はすでに暗く、闇が山肌から湧いているようだった。


――尻尾岩。

行かないほうがいいとわかっているのに、不思議な引力が働く。


妖怪や伝承を追いかける仕事をしていると、稀にこういう瞬間がある。

“恐怖と好奇心が同じ方向に傾く”とでも言うべきか。

気づくと私は懐中電灯を掴み、民宿裏手の山道に足を踏み入れていた。


雨上がりで土が柔らかい。

踏みしめるたび、靴の下で何かの腹を押しつぶすような感触がある。

土と草の匂いに混じり、獣でも草でもない、生温い、甘いような臭気が漂う。


十分ほど登ると、闇が急に薄れ、視界が開けた。

木々が裂けるように円形に開けた空間。そこに、巨大な岩がひとつだけ立っていた。


――尻尾岩。


表面には無数の窪みがある。

浅いもの、深いもの、爪痕のような、踵のような、どれとも判別できない“跡”。

近づいて触れると、岩なのに温かく、湿っている。


窪みの縁から、白く細長いものがぶら下がっていた。


最初は枯れた根かと思った。

しかし、光を当てると、毛並みが揺れる。白い毛が、青白く濡れたように光っている。

尻尾――だと直感した瞬間、

それは、ぴん、と張った。


音はない。

だが、岩の裏側で誰かが糸を引いたような、確かな“力”の動きだった。


次の瞬間、耳のすぐ横に声が落ちてきた。


「……願いが、あるんじゃろ?」


息が止まった。

低く、湿り気を含み、人の声の形はしているのに、喉の奥に別の器官が一つ余分にあるような、そんな響き。


「ひとつでええ。魂をひとつ。

 それで、おまえの願い、なんでも叶えちゃる」


懐中電灯が手から滑り落ち、土に埋もれた光が揺れる。

膝が勝手に折れ、掌が濡れた土に張りつく。

その触感が妙に冷たく、体温を吸われていくようだった。


「……言うてみい。

 ここでなら、叶わんことはない」


尻尾がふわりと揺れた。

揺れるたびに、白い毛が湿り、ぬめる匂いが鼻をつく。


逃げなければいけない。

だが、体は底に沈んだ石のように動かない。


背後で“ずる……”と土を擦る音がした。

ほんの一歩、だが確かに“近づいた”。


身体が勝手に反応し、私は跳ねるように後ずさった。

その瞬間、尻尾が“こちらへ伸びた”気がした。

本当に伸びたのか、恐怖の錯覚だったのかは今でも言えない。


――走れ。


思考より先に足が動いた。

山道を下るというより、落ちるように走り続けた。

枝が頬を裂き、石につまずき、膝が何度も土に沈む。

背後では、確かに何かがついてくる音がしていた。


ずる……ずる……。


民宿の明かりが見えた時、涙が勝手に滲んだ。

扉を閉め、鍵をかけ、布団に倒れ込む。

呼吸が浅く、喉がひりつく。


しかし、夜更け。

また聞こえた。


――ずる……ずる……。


窓の外を、ゆっくり何かが通る音。

それを確認する勇気は、どこにも残っていなかった。


翌朝、宿の主人が言った。

「夜のうちに、あの猟師さんの家が半分壊れたんじゃと。梁が割れて、ごそっと落ちたらしい」


「原因は?」と聞くと、主人は言葉を濁した。


「よう分からん。ただ……あの家は昔から“契約を破られた家”言うての。代々、何かを背負うとるらしい」


その言葉で、老人の怯え、家の亀裂、尻尾岩の湿った感触が、一つの線で繋がった気がした。


村を離れる時、谷は朝霧で白く覆われていた。

尻尾岩の影はどこにも見えない。

いや、見えるはずがなかったのだろう。


今でも、夜が深まるとふと思い出す。

あの湿った声が耳の奥で囁く。


――願いを言いなさい。魂ひとつで、叶えてやる。


もしあのとき、振り返っていたら。

もし、願いを口にしていたら。


家のどこかで、ぱき、と梁が鳴るたび、私は息を止める。


あれは、まだ私を探しているのではないかと。

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