第12話 意図せぬ再会

 古い小屋の中に、重苦しい沈黙が立ち込めていた。埃と朽ちた木材の匂いに混じって、鉄錆のような血の匂いが鼻を衝く。オクトゥスの荒い呼吸と、小屋の隅で身を縮めるヘレナの震える息づかいだけが、静寂を破っていた。


 銀髪と漆黒の髪に変わり果てたヘレナの姿を前に、オクトゥスの息が詰まった。紅玉色に染まった瞳、額から生えた小さな角、そして白くなく褐色の肌を覆う黒い竜麟――それでも、震える唇の形も、俯いた時の首筋の線も、間違いなく彼が愛したヘレナのものだった。


 その瞬間だった。オクトゥスの視線が、ヘレナの左脇腹に滲む血痕を捉えた。黒い竜麟の装甲の裂け目の奥には、白い肌が深紅に染まっていた。


 騎士団の隊長が振り下ろした剣。森で遭遇した魔族の負った傷。すべてが一致していた。彼女こそが、自分たちが追っていた魔族だったのだ。しかし、それでも——いや、だからこそ——オクトゥスの胸に宿るのは討伐への義務感ではなく、彼女を守りたいという衝動だった。


 小屋の隙間から差し込む月光が、二人の間に銀の帯を描いている。冷たい夜気が頬を撫でていく中で、オクトゥスはゆっくりと剣を鞘に納めた。


「ヘレナ……」


 彼の声は、震えていた。


 ヘレナの紅玉色の瞳が、恐怖と絶望に揺れながらオクトゥスを見つめていた。美しかった銀髪は漆黒に染まり、清楚だった頬には黒い鱗が浮かんでいる。それでも、オクトゥスにとって彼女は変わらずヘレナだった。


「ヘレナ、ただいま。」

 ひどく場違いな台詞だとオクトゥスは自分でも気付いていたが、それでもまずは言わずにはいられなかった。

 

 オクトゥスの言葉にヘレナはうつむく。


「こんな姿でも、私が……わかるの?」


 震える声で紡がれた問いかけに、オクトゥスは一瞬の躊躇もなく答えた。


「ああ。君がどんな姿だって、俺にとってはヘレナだ」


 しかし、彼の真っ直ぐな眼差しを受けて、ヘレナは激しく首を振った。角が微かに空気を切る音を立てる。


「嘘よ!こんな化け物の姿になった私を見て、そんなことを言わないで!」


 ヘレナの叫び声が小屋の壁に反響する。オクトゥスは一歩前に出ようとしたが、彼女は後ずさりながら両手を前にかざした。


 声をかけていいかわからない。せっかく再会できたというのに。


 オクトゥスは数分にも感じられるわずかな沈黙の後、自分でも思わぬことを口にしていた。


「一緒に逃げよう、ヘレナ。俺が——」


『だめ!』


 遮るように発せられた拒絶の声は、小屋の空気を震わせた。オクトゥスの耳にはそれが謎の言語で聞こえたが、意味は彼女の態度でわかった。

 ヘレナの瞳に涙が滲み、それが紅玉色の輝きを更に深いものにしている。


 ヘレナが咳払いをして改めて口を開いた。

「あなたの……騎士としての道を、私のせいで閉ざすわけにはいかない。こんな姿ではあなたに愛してもらう資格なんてない!私を斬って!」


 絶叫にも似た言葉が、オクトゥスの胸を鋭く貫いた。


 ヘレナの嗚咽が小屋に響いていた。両手で頭を抱え、まるで自分自身から逃れようとするかのように身を震わせている。月光に照らされた彼女の角が、悲しげに光を反射していた。


「こんな気味の悪い角もいらない……こんな姿じゃ、あなたの隣にいる資格なんて……」


 半狂乱になって泣きじゃくるヘレナの姿を見て、オクトゥスの心にひとつの閃きが走った。角。そうだ、角があるから彼女は魔族として認識される。先日交戦したときと違い、今のヘレナの姿は角さえなければ。

 ならば——


 オクトゥスは険しい表情になり、剣の柄に手をかける。


 金属が鞘から抜かれる音が、小屋の静寂を切り裂いた。月光を受けて剣身が鈍い光を放つ中、ヘレナは涙に濡れた顔を上げた。


「騎士になって戻って来るって約束したあなたの剣に切られるなら……」


 ヘレナは目を瞑り、首筋を晒した。覚悟を決めた表情に、かつての美しさの面影が宿っているがその身体は震えていた。オクトゥスは剣を握る手に力を込めた。そして振り下ろされた刃がヘレナを狙う。


 鋭い斬撃音とともに、床には血ではないものがゴトンと鈍い音を立てて転がった。


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