第6話 引き金

 やがて、魔物たちの影は村の境界線まで迫ってきた。最初は森の奥で見つかった家畜の亡骸、次は畑を荒らされた跡、そして夜警の男が負った爪痕——それらの被害を見た村人たちは、自身の村を取り囲む闇が濃くなっていることに気付いた。自警団の男たちの顔には疲労の色が深く刻まれ、彼らは昼間でさえ武器を手放すことができない。


 「オクトゥスがいてくれれば……」


 誰かがそう呟くのを、ヘレナは何度も耳にした。オクトゥスがいたことは、ヘレナだけでなく他の自警団員をも鼓舞させていた。


 そしてオクトゥスの名前が出るたび、ヘレナの胸は締め付けられた。村の人々がオクトゥスに寄せる期待の大きさを思い知らされ、同時にその存在がいない現実の重さが肩にのしかかってくる。


 ヘレナの瞳に映る村人たちの表情は、希望を求めているようで、それがヘレナの心をより一層苦しめた。


 夕刻、自警団の詰所で湯気の立つスープを配りながら、ヘレナは男たちの会話に耳を傾けていた。


「もう三日も満足に眠れてない」

「魔物の気配がするたび、心臓が飛び出しそうになる」

「オクトゥスの奴、元気でやってるかな……」


 言葉が耳に入るたび、その言葉はヘレナの頭の奥へちくりと突き刺さった。まるで針で刺されたような、鋭く短い痛み。


 (また……)


 ヘレナは眉をひそめ、こめかみを押さえる。オクトゥスがいないことの苦しみだけではない。またあの痛み。そう気づくのは容易かった。最近、こうした頭痛が頻繁に起こるようになっている。


 それは決まって、村の人々が苦しんでいる時、誰かが危険にさらされている時に現れる。まるで彼女の中の何かが、その痛みに反応して蠢いているかのように。


 真夜中を告げる鐘の音が響いた。いつもの静かな鐘の音。


 ではなかった。


 カンカンカンと鐘を鳴らす音の間隔が早い。


 村の街道を中心として囲むように立っている柵が踏み壊された。野生動物ではない。人の姿をしているが、肌は緑色に変色し、手には鋭い爪。別の魔物は毛皮に覆われた巨体で熊よりも大きい。


 そしてそれらの姿の後ろには、これまで見たこともないほど巨大な影がゆらりと立ち上がる。月光を遮るほどの巨体を持つ魔物——いや、魔族と呼ぶべき存在が、鋭い牙を剥き出しにして咆哮を上げた。その声は大地を震わせ、村の家畜たちを一瞬で気絶させた。家々の窓ガラスを震わせ、人々の心胆を寒からしめた。


 「魔族だ! みんな逃げろ!」


 自警団の男たちが叫びながら駆け出していく。剣や斧を携えた自警団員が魔物の群れに向かっていく。訓練の賜物かあるいはヘレナや村の娘たちの支援のおかげか、小型の魔物たち程度ならば自警団員は難なく倒していく。しかし、魔族はあまりにも巨大で、あまりにも強大だった。


 松明の炎が魔族の鱗に反射し、紅い光が村の闇を切り裂く。家から飛び出してくる村人たち、泣き叫ぶ子供たち、そして血の匂いが夜風に乗って広がっていく。


 ヘレナは家から飛び出し、負傷者の救護に駆け回っていた。


 その時だった——広場の向こうで、小さな影がよろめいているのが見えた。5歳になる村長の孫娘だった。少女は恐怖で足がすくみ、近づく魔物たちとの距離が急速に近づいていた。そしてまものたちの魔の手が振り下ろされようとしている。


「危ない!!」

 ヘレナの叫び声が夜を貫く。


 間に合わない。走っても、叫んでも、手を伸ばしても——対して広くない村なのに距離はあまりにも遠く、魔族の爪はあまりにも速い。


(だめ……!)


 ヘレナの心臓が激しく打ち、頭の奥で先ほどの痛みが爆発的に広がっていく。守りたい、助けたい、この子を、この村の人たちを——その想いが彼女の全身を駆け巡った。


 その瞬間だった。

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