第3話 彼のいない村

 オクトゥスが旅立ってから数日が過ぎた。ヘレナの日課は変わらず、今日も村の皆の手伝いだ。


「おばあ、行ってきます。」

「はいよ。気をつけてお行き。」


 農具を整えていた祖母が、皺の刻まれた目元を細め、優しく返す。ヘレナは、木の扉を軋ませながら開け、村の中心部へと向かった。


 ひとしきり手伝いが終わり、ヘレナは一人、村の中をゆっくりと歩いていた。どこを歩いても、オクトゥスとの思い出が蘇ってくる。

 まずは村の中央にある古い井戸の前で足を止めた。石造りの井戸端には、子供の頃に二人で刻んだ小さな印がまだ残っている。


「ここで、初めて話しかけてくれたのよね。」


 十年前の記憶が鮮明に蘇る。水くみをしていたところ、桶をひっくり返されていじめられて泣いていた幼いヘレナ。子供たちの中で一人だけ、オクトゥスが水を汲んで差し出してくれた。


『泣かないで。ホラ、俺が手伝ってやるよ。』


 そして手伝いが終わるとオクトゥスが顔をまじまじと見つめてきた。


『君の瞳、水晶みたいに綺麗だな。髪も、うん。日に照らされると虹みたいにいろんな色が見えて面白いじゃないか。』——そんな言葉をかけてくれたのだ。


 次に、村のパン屋の前を通りかかった。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。ここでも思い出がある。一時期、ヘレナはこのパン屋の手伝いをしていた。

 オクトゥスは自警団の訓練の帰り際、パン屋の前で手伝いが終わるのを待っていてくれた。もっとも、彼が待っていたのはヘレナだけでなく美味しそうなパンもだが。


『おまたせ。』

『いや、俺もちょうど訓練の帰りだから大丈夫。』しかし口ぶりとは裏はらにオクトゥスのお腹の虫は毎回鳴いていた。

『ふふ。疲れてお腹すいちゃった?はい、焼き立てのパン。』

『やった!ありがとう!へへ。実は、そうなんだ。お腹ペコペコでさ。』


 そう言って差し出したパンにオクトゥスは迷いなくかじりついた。その気持ちの良い食べっぷりに、見ているヘレナまで食欲が増しそうだった。


『うーん。毎回ヘレナにただでもらうのもなぁ~。そうだ!騎士になったら、君に一番美味しいパンを買ってあげる。』


 無事騎士になって戻ってきた暁には、ここで子供の頃のように二人でパンにかじりつくのも悪くない。そうヘレナは近い未来を思い浮かべて笑みを漏らす。


 パン屋のおばさんが手を振ってくれたので、ヘレナは軽く会釈を返して通り過ぎた。


 村外れの小さな教会の前では、より深い思い出に浸った。ここで、二人は将来の夢について語り合ったことがある。


『僕は騎士になる。君は何になりたい?』

『私は……あなたのお嫁さんになりたい』


 幼い日の無邪気な会話。あの時、オクトゥスは真っ赤な顔をして黙ってしまったが、後で『僕もそれがいい』と小さな声で言ってくれた。


(あの頃は、こんなに簡単だったのに……)


 ヘレナの胸に、複雑な感情が渦巻いた。愛しい人への想いと、自分自身への不安。最近、頻繁に起こる『あの症状』のことを考えると、オクトゥスとの未来が不安でならない。


 最後に、二人だけの場所へ足を向けた。森の外れにある花畑。なにか嫌な思い出があると、いつもここに来た。そしてオクトゥスもいてくれた。本当に二人の特別な場所だった。

 腰を下ろし、ヘレナは空を見上げた。木漏れ日が頬に当たって温かい。


「ここで、初めてキスをしてくれたのね」


 それは昨年の秋のことだった。紅葉が美しい夕暮れ時、オクトゥスが恥ずかしそうに、でも真剣な表情で彼女の唇に触れた。その時の温もり、優しさ、そして愛しさ——全てが鮮明に心に残っている。


『もう二度と君を一人にしない』


 あの言葉を思い出すだけで、胸が温かくなる。でも同時に、不安も募っていく。


(私は、本当に彼の隣にいられるのかしら……)

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