第2話 再びの誓い

 十年の歳月が流れた。


 かつて子供たちの秘密の聖域であった花畑は、今も変わらず色とりどりの花を咲かせ、訪れる二人を優しく迎え入れていた。しかし、そこに佇む二人の姿は、あの頃とは比べ物にならないほど大人びていた。


 今度は十七歳になったヘレナとオクトゥスが向かい合って座っていた。

 ヘレナの銀髪はより美しく輝き、肩まで流れる長さで艶を増した。水晶のような瞳は変わらず穏やかだったが、そこには少女から女性へと変わりつつある深みが宿っていた。クリーム色のブラウスに藍染めのロングスカート、腰に花柄刺繍のエプロンを巻いた姿は、村人だけでなく、たまに訪れる行商人や旅人も一目置く美しい娘として評判だった。


 成長したヘレナは、美しさだけでなく献身的に村の家事を手伝い、老若男女関係なく親身になって接するため、かつて大人たちもヘレナに対して抱いていた戸惑いや疎外感といった気配も、すっかりなくなっていた。

 昔いじめていた少年たちも、色恋がわかる年代になってからはヘレナに熱を上げるほどだ。


 オクトゥスも立派な青年に成長していた。少年時代の面影を残しつつも、短く整えられたブラウンヘアは以前より落ち着いた印象を与えている。そして深い青色の瞳には、強い意志と優しさが共存している。騎士見習いとしての訓練で引き締まった体格に、濃紺の見習い制服が良く似合っていた。


「明日、本当に行ってしまうのね。」


 オクトゥスが隣にいるにもかかわらず、足元の花に視線を向けたまま、ヘレナは言った。


「ああ、やっと王都の騎士団に入団できる。約束を果たすために。」

 オクトゥスは頷いた。


「でも……。」

 二人の間に、ほんの少しの沈黙が流れた。風が花々を揺らし、甘い香りを運んでくる。十年前と同じ花畑、同じ季節。けれど、全てが変わろうとしていた。


「オクトゥス、あの時の約束、覚えている?」


 ヘレナは顔を上げて見つめると、彼の瞳は真剣になった。


「もちろん。君を守る騎士になるって言った。その気持ちは変わらない。ずっと変わらない。」

「でも、騎士になるまでには時間がかかるわ。」


 ヘレナは遠い夕暮れを見るような眼差しで憂いの表情を浮かべる。そんなヘレナの横髪をオクトゥスはガラス細工を触るかのような丁寧な手つきで撫でる。


「なぁに。俺が本気になればすぐ騎士団で一番になってみせるさ。だから……な?」


 ヘレナはその言葉に、ようやく口角が上がり柔らかい明るさが表情に灯った。


「うん。頑張ってね。」

「ヘレナ……」


 オクトゥスが手を伸ばし、ヘレナの手を優しく握った。その手は騎士見習いとしての訓練で少し荒れていたが、温かく、そして力強かった。


「必ず騎士になって、君のもとに戻ってくる。」

「……うん。あなたなら、きっと立派な騎士になれるわ」


 ヘレナは気丈にそう答えるのが精一杯だった。本当は行かないでと、その逞しい腕に縋りつきたい気持ちでいっぱいだった。彼がいない村での生活が、どれほど色褪せて見えるだろう。再び一人になることへの恐怖が、氷の蔓のように心に絡みついてくる。

 だが、彼の夢を、二人で分かち合ったはずの約束を、自分の寂しさで縛り付けることだけはしたくなかった。


「私、ずっと待ってる。ここで、あなたが立派な騎士になって帰ってくるのを、ずっと」

「ヘレナ……」

「だから、心配しないで。私はもう、昔みたいに泣いたりしないから」


 それは、彼女が自分自身に言い聞かせるための、悲しい嘘だった。オクトゥスはそんな彼女の健気さに胸を打たれ、そっとその肩を抱き寄せた。花の香りが、二人の間の沈黙を埋めていく。寂しさと不安を悟られまいと必死に微笑むヘレナの顔を、彼はただ黙って見つめることしかできなかった。


「騎士になって帰ってきたら、もう二度と君を一人にしないって約束するよ。だから……。」


 夕日が花畑を黄金色に染めていく。二人の影が長く伸び、やがて一つに重なった。新たな約束が、十年前の誓いに重ねて結ばれた瞬間だった。


 翌朝、村の中央広場には見送りの人々が集まっていた。オクトゥスは旅支度を整え、背中には騎士見習いの証である剣を背負っている。村人たちが口々に励ましの言葉をかけていく中、ヘレナは少し離れた場所で静かに立っていた。


 ヘレナは胸の奥に、言いようのない不安が渦巻くのを感じていた。それは単なる別れの寂しさとは違う、何か深い部分からの予感——まるで、二度と同じ日常には戻れないような、そんな不安だった。


「ヘレナ。」


 振り返ると、オクトゥスが一人で近づいてきた。村人たちとの別れを済ませ、最後に彼女のもとにやって来たのだ。


「これ、君に。」


 オクトゥスが差し出したのは、小さな木彫りのペンダントだった。素朴だが丁寧に作られており、小さな花の形に彫られている。


「オクトゥス……」

「俺が作ったんだ。下手くそだけど……。これを俺だと思って身につけていてくれ。いつも君のそばにいるから。」


 彼は照れたように頭を掻いた。ヘレナは震える手でペンダントを受け取った。それを首にかけると、木の温もりが肌に伝わってくる。


「ありがとう。大切にするわ。」


 ヘレナの心にあった寂しさが薄れた。そのため自然に笑みがこぼれた。

 オクトゥスは、ヘレナが見せた笑顔に安堵した。そしてヘレナの両手を取って真っ直ぐに見つめる。


「約束、守るから。必ず——」


 その時だった。オクトゥスは息を呑んだ。

 彼女の水晶のように透き通った瞳が、ほんの一瞬——本当に一瞬だったが——紅玉のような深い赤に光ったように見えたのだ。


「え……?」


 今のは見間違いかと、オクトゥスが目を凝らしたが、ヘレナの瞳は既にいつもの水晶のような透明な輝きに戻っていた。涙に濡れて、より一層澄んで見える。


「どうしたの?」ヘレナが首をかしげた。

「いや……何でもない。」

 オクトゥスは首を振った。(きっと、朝日の反射か何かだろう。)


 しかし、胸の奥に小さな不安の種が蒔かれたような気がした。ヘレナに何か隠された秘密があるのではないか——そんな漠然とした直感。


「オクトゥス! そろそろ時間だ!」


 街道で待つ商人の声が聞こえてきた。オクトゥスは振り返り、それから再びヘレナを見つめた。


「行かなくちゃ。じゃあ、行ってきます。」

「ええ。行ってらっしゃい。ご武運を。」

 ヘレナは微笑んだ。精一杯明るく振る舞おうと必死に涙を堪える。


 オクトゥスは頷き、最後にもう一度彼女の手を握りしめてから、広場を後にした。ヘレナは手を振り続け、彼の姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くした。


 そして、一人になった時。

 ヘレナは自分でも気づかないうちに、こめかみに手を当てて軽く眉をひそめていた。頭の奥で、何かがざわめいている。それは、彼女にとって馴染みのある、そして恐ろしい予兆だった。

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