融解熱 三

ようやく二人きりになったが落ち着かないようで透の目線が忙しない。

 だが落ち着かないのは小春も同じで席についてから水を飲んでいるというのにずっと喉が渇いてしょうがない。

 そんな事情など全く知らないウェイターがアイスコーヒーとレモンスイカッシュ、そしてとびきりの笑顔を持ってきた。


「お待たせいたしました!ごゆっくり!」

「どうも」

「あ、ありがとうございます」


 机に乗せられたレモンスカッシュにガムシロップを入れ、小春はストローでグラスを掻き混ぜる。

 水面に浮かんでいたさくらんぼの実がグラスの底にゆっくりと落ちていく。

 どう切り出そうかと思考を巡らせたが、先に重い空気を切り裂いたのは透だった。


「小春、その…この間は悪かった。急に声をかけて」

「いえ、別にそれは気にしてませんけど…」

「え、敬語…いや、うん、そうだよな、うん」

 

 透は小春に気にしてないと言われたことより敬語を使われたことに驚いた、というよりは心にきたのだろう。

 己を納得させながらも悲しそうな表情は隠しきれていない。

 小春とてあえて敬語を使っているわけではなく、長い間会わなかったせいで『大人の人』という感覚のほうが強い。

 だからどうしても幼い頃からの癖である敬語がうまく外せないのだ。大目に見てほしい。

 少しの気まずい空気が流れたのち、次に口を開いたのは小春だった。


「…今日、本当は面会の予約をするだけでした。でもわざわざ仕事を抜けて来てくださってありがとう…ございます」

「いやまあ、父さんも小春に会おうと悩んでいたところだったから。ちょうど良かった」

「それで本題なんですけど」

「本題…うん、そうだよな」


 脈が早くなって手先が蒼白になって冷えていく。まるで体の別の場所から血が漏れ出ているようだ。

 小春は腹に力を入れ、しっかりと透の目を見る。

 皺が増え、疲労も溜まっているのか黒い隈ができているが幼い頃に見ていた瞳がそこにはあった。


「どうして出て行ったんですか」


 蝉が鳴いているのに、忙しなくウェイターの靴音が鳴っているのに、他の客の笑い声が響いているのに。

 二人の間には重く冷たい空気と静寂が訪れた。


「…結論から言うとあの時の俺は父親じゃなくて、ただの男だった。母さんが紬師として活躍は当時新米記者の俺にも届いていた」


 そこからは言葉を慎重に選んで透は話し始めた。

 那由と結婚し、小春が生まれてから一年経った頃。紬師の仕事が増えて家に帰らなくなったり、精神を摩耗して帰ってくることが多くなった。

 幼い小春を育てるため、片手間に記事を書いていた透だったが徐々に不安や怒りが募り始めていた。

 小春に対してではなく、例えどんなことがあっても『何も話さない』那由に。

 そんな日々が積み重なり、透と那由の溝も深くなっていた。

 

「確かに家族であっても話していけない黙秘事項もある。それはわかっていた。でもあの頃の母さんは仕事疲れの他にも色々抱え込んでいるようだった」


 その話は小春にとって頷けるものだった。

 京都の一件以来、小春は那由と共に時間を過ごすことが多くなった。

 共に時間を過ごす中で那由は度々言葉を濁すことがあった。仕事のこと、透のこと、自身の生い立ちのこと。

 本人が触れてほしくないことなら触れなくていい。

 そう判断した小春は那由が隠していることに触れようとはしなかった。


「那由の全てを知りたかった。受け止めさせてほしかった。それが当時の俺の中にあった思いだった」

 

 だが透は違った。那由を愛する男として頼られたかった。


 (お父さんは私のお父さんである前にお母さんの伴侶。私は…愛し合った先の結果、なんだろうな)


 次に透は小春を置いて行ってしまったことを後悔し、何度も家に向かったことを話し始めた。

 そこから先は凉斗から聞いた話の通りだった。

 補足があるとするなら凉斗父にしこたま叱責され、呆れられ、心を入れ替えて陰から小春を見守ることを決意したことだろう。

 そしてそんな矢先に奇跡が起きて小春と再会するということが起きたわけだ。


「俺のことなんて嫌ってると思ったし、忘れられていてもおかしくはないと思っていたんだ」

「…」

「まさか小春の友達に千子先生がいるなんて驚いたもんだ。今は大學だいがくに行っているのか?それとも奉公している最中なのか?」

「今は日ノ本軍学校に通ってます」

「え…は…?」

「紬師見習いとして白夜軍に所属していて、学校を卒業したら桃坂家に奉公が決まってます」


 ガタンと音を立てて透が腰を上げた。

 その表情は怒りと悲しみ、そして後悔が滲んでいる。


 (…やっぱり、そうなるんだな)


 ウエイターや他の客が小春たちを見る。

 視線に気づき、我に返った透は苦虫を潰したような顔で座りなおす。

 新聞記者見習いから新聞社の社長になったのだ。娘の成長を全て把握することなんてできやしないだろう。

 小春は那由が人を殺していたかはわからない。ただそれが行われる日常を那由は送っていたのだろう。

 どこまで知っているのかはわからないが透も少しは把握していたはずだ。

 だからこそ、透もまた那由と秘密も苦しみも共有したかった。


「一つ、聞いてもいいか」

「…」

「それは小春が選んだことなのか?」

「お父さんがお母さんのことを知りたかったと同じように、私もお母さんが知りたかった。だから紬師になることを選びました。もちろん、紬師になりたい理由はそれだけじゃないですけど」


 小春が言った理由をそうか、と無理やり呑み込んだ透は大きく息を吐きながら座りなおした。

 透と違って小春は那由の秘密や苦しみを知りたかったわけではないが、ただそれでも紬師を選んだ理由の半分は那由が起因している。

 感情を鎮めるためか、透は大きく深呼吸を繰り返している。

 

(私もお父さんもどうしてこんなに不器用なんだろう)


 家族としての形も歪で、互いに住んでいる場所もバラバラだが互いが互いを思っていた事実は確かにあるのだ。

 なのに何故だろうか。こんなにも心が晴れないのは。

 透が小春に対して何か言っている。紬師が危険な仕事であること、小春をどれだけ心配しているか。

 小春にとって透から紡がれる言葉はどれも欲しかった言葉のはずなのに。

 何故だか、一文字も心の染み込んでいかない。それどころから奥底で泥水が注がれているようだった。


(私のお父さんなのに、会いたかった人なのに、なんで…受け入れられないんだろう)


 するといつしか話は締めくくりを迎えようとしていた。

 今まで言えなかったことが言えたことで楽になったのか、透の顔は店に入った時よりも晴れやかになっていた。


「小春、何かあったらこの番号に連絡してくれ。必ず味方になるし、迎えに行く。絶対だ」

「あ…ありがとうございます」


 思考が追い付かないまま、手に握らされたのは手書きで住んでいる場所と電話番号が書かれた名刺だった。

 電話番号は千子に貰った名刺には載っていないものだった。きっと透のニシキに繋がる番号なのだろう。

 その後、駅まで見送ると透の申し出を断り、小春はレモンスカッシュをご馳走になって店を出た。

 適当に用事があるからとか、透の仕事の邪魔をしたくないとか言って無理やり別れた気がする。

 どうしてか、電車に乗って家に帰る気が起こらず、本郷駅を無視してただ道を歩いた。

 日傘を差して舗装された道を歩く。目的もなく、ただ歩いた。

 乱暴に搔き混ぜられたかのようにぐちゃぐちゃの頭とざわめく心を持ったまま。


(私はお父さんを許して、受け入れなくちゃいけない。それが家族なんだから)


 額から浮かんだ汗が頬を伝って地面に落ちていく。

 歩き続けていた足が止まり、ふと日傘を閉じて周りを見渡した。

 日傘のせいで周りが見えていなかったからか、身に覚えない景色と川があった。

 もう辺りは夜が差し掛かった夕方で昼間ほどの人の行き交いはない。

 通り過ぎていく人の顔がぼやけて見えてしまう。呼吸がゆっくりと乱れ、胃酸が喉元まで込み上げてくる。

 小春は急いで土手を下り、電車が通る高架の下の草むらに胃酸を吐き出した。

 

「う…おえっ…」


 胃の中に食べ物がないからか、出てくるのは唾液と二酸化炭素だけ。

 炎天下を歩き続けたせいか、頭痛がひどく、気分も悪い。

 そして目からは決壊したように涙が溢れて止まらない。しかも鼻水まで溢れてきた。


 (お父さんは、私を愛してくれていた。紬師になったことを言っても味方だって言ってくれた…だから私は)


 足にうまく力が入らず、草むらの上に横たわってしまった。もはや溢れる体液を拭う気力もない。

 地震が起きているかのように視界が揺らめく。高架の上で走る電車の音が頭を突き刺すように響く。

 眠ってしまいたい。小春は何もかも放棄したかった。


 (誰か…来る…)

 

思考放棄など許されなかった。

 高架下に誰かがやってくる。しかも誰かが小春に近づくにつれ、妖力の濃度が高くなっている。

 近づいているのは妖。

 だが今の小春に妖を追い払うほどの体力がないことに加えて逃げようという気力もない。

 そして横たわる小春の視界に妖の姿が入る。

 現れた妖に小春は目を見開いた。

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