06 冬の夕暮れ、空気がねじれた瞬間
長時間の入浴は、彼の頭脳にとって不可欠なシステムメンテナンスだった。
彼はまず全身を高温の湯に沈めてコアを温め、その後、指先がふやける前に手足を湯面から上げた。この微細な調整が、体内の熱効率を最大化し、冷え切った身体に新たなエネルギーを注入する精密な計算だった。
「こういう細部の最適化は、女性なら既に感覚で掴んでいるかもしれない」と、彼は静かに口の端を上げた。
全身が熱を帯び、細胞の隅々まで血液が流れ込む。
疲労という名のノイズが完全に除去され、思考がクリアになる感覚。それは、高性能な機械のオーバーヒートを防ぎ、稼働効率を最適化するための、戦略的撤退だった。外を見やると、雨は止み、濡れた庭の木々の間に、冬の太陽の光が鋭く差し込んでいた。時刻は午後一時二十分。
「どうしようかな」
彼は、あのまま無理に悪天候で続行する非効率を回避し、昼食と入浴で超回復を図った選択が最良の戦略であったと確信した。
身体は今、最高のパフォーマンスを発揮できる。それは、ドラクエでいうところのベホマ、FFでいうならケアルガ。彼は、現実の法則をゲームの最適化理論になぞらえて解析する。
仕事とは、ただ単に「がむしゃら」に頑張るものではない。彼の頭脳は、その無駄を弾き出す。
(彼の脳裏で、凡庸な世間の声が嘲笑のように響く) 『ある男が「頑張ります!」と言った直後に仕事をサボりだす。』 『「え?なんでサボってるの?」』 『「有言実行で頑張りなさいよ」となるだろう』
彼は、その道徳論の単純さに冷たい優越感を覚えた。
「サボる」という行為も含めて「頑張る」。
仕事は結果が全て。彼は、パーキンソンの法則――時間を満たすまで仕事の量が膨張する旧時代の非効率――を回避するために、あえて手を止める。
「結果を出すためにサボる」というスタンスは、時間を区切って質の高い集中力を生み出す意識の表れだ。彼の言う「頑張る」とは、「最適な結果を最速で導く」ためのプロフェッショナルな戦略を指している。
彼の思考は、凡人の無駄な努力を嘲笑する。
『ある学生さんが「勉強頑張ります!」と言った直後に、ノートに物凄いスピードで何かを描き始める。それは、見せかけだけの頑張るだろう。』
「そんなね。何万回もノートに描き映さずに、一発で覚えろ」
彼の頭脳は、現代社会の構造的な非効率を分析する。
「データなんてAIに聞けばいいじゃないか。それ覚える必要あるか?難しい数式や方程式だってAIにやらせればいい」
彼の結論は、学校の試験の廃止という、過激な提言に行き着く。
「大学受験もなくなってしまう。膨大な知識をわざわざ人間がインプットする必要はない。これからの時代は、AIを第二の脳として活用すべきだ」
人間に必要なのは、AIには開拓できない分野――論理のその先、因果律の操作だと、彼は自身の能力の存在意義を定義した。
再稼働後の彼の稼働は、驚異的だった。
二件で二千四十円の売上げ。オンライン時間は五十一分〇秒。時給に換算すると、二千四百円という数字が導き出される。それは、コンビニの時給を優に超え、高度な専門性が求められる職種に匹敵する価値だ。
システム開発エンジニア、プログラマー、ネットワークエンジニア、Webデザイナー、個別指導塾講師――彼の脳内には、時給二千四百円を超える職業のリストが展開された。
「これらの職業の多くは、特定のスキルを持つ人のみが提供できる価値に対して報酬が支払われている」
彼は、**「誰でもできる簡単な仕事でも、効率を求めれば、それに匹敵する価値を生み出せる」**という彼の哲学を、最初の数値で証明してみせた。
彼は、今日の仕事をやめ、**「金」よりも「自由」**を求め、バイクツーリングに出かけた。
そして、先日見つけた田舎の大型スーパーマーケットで、特に欲しいものもないまま、適当に買い物カゴに商品を入れてみた。支払額は一二四三円。
買い物カゴには様々な商品が入れられている。
彼は静かに口角を上げた。
「では、あと**『一二四三円』**分だけ。Uber配達パートナーで稼ぐことにしよう。そのことで、この消費分がまた無かったことになる」
彼はそう言って、自宅へ向けて愛車を走らせた。
――と、思っていたが、外気の冷たさが彼の皮膚に触れ、彼は即座に判断を切り替えた。
「寒くなって来たので、やっぱ今日はもう働かないことにするわ。明日にしよう明日に」
彼は、「働いたら負けかな?」と独りごちたが、それは彼自身の行動に対する密やかな嘲笑を含んでいた。
さっき購入した**『一二四三円分の商品』**は、とりあえず自宅に届けられた。彼のスマートフォンのロック画面には、一四時十一分が表示されている。
「さて。冗談はさておき」
彼の頭脳は、1,243円を稼ぐことが「屁のカッパ」であると計算し、「外に出た次いでとして―。これから1,243円分だけ稼いで来るわ」と、再び偽りの目標を口にした。
そう言って彼は愛車に跨り自宅をあとにする。向かった先は、儀式を行うための近所のコンビニエンスストアだった。
「Uber配達を始める前の儀式として、適当なセブンイレブンで百四十円のレギュラーなセブンカフェをブラック無糖で頂いているよ」
その苦味と熱が、彼の集中力を最高潮に高めた。
「さあ、『一二四三円は何分ぐらい』で稼げるだろうか?」
彼は、凡人向けのゲーム目標を口にしながら、瞳の奥で笑った。
「これはただのゲームなんだよ」
時間は緩やかに進み、彼の集中力は研ぎ澄まされていった。
「あともう少しだと思うんだよね」
スマートフォンの時刻は一七時四十四分。彼は、需給の波と個人の注文パターンの膨大なデータを瞬時に解析し、**「最高のタイミング」**を待っていた。
時刻は一七時四十七分。
彼のスマートフォンのトップ画面に表示されている二次元アニメ風イラストの女性は、満月を背景に不可思議な顔を向けている。その光景は、彼自身の静かな確信を映し出していた。
「はい。オンライン」
彼がUber配達アプリを操作しオンラインにしたその瞬間、彼の周囲の空気が一瞬にして微かにねじ曲がった。それは、彼の意志が現実の確率フィールドに介入した、明確な物理現象だった。
「はい。秒で飛んで来たわ」
しかも、単価が高く、目標額を一気に超える二千八十円の現金払い。彼は、**「ちょっとした魔法」**を使わせていただいたのだと、不敵な笑みを浮かべた。
この一件で、本日の仕事は終了とする。加盟店からお届け先までGoogleマップには残り五分が表示されていた。
彼は、「一二四三円を稼ぐ」という表面上の目標とは全く異なる、真の目標値に到達した。
結局、本日のUber配達は一時間二十二分の稼働で三件の配達となり、最終的な売上げは**『二千四百六円』**で着地した。
彼は、「時給二千四百円」という自身の知性の証明に対し、六円だけ上乗せされた完璧な数値で現実を収束させたことに、密やかな勝利を確信した。
午後六時三十三分。
帰宅した彼は、自宅の書斎の最新最強のハイエンドPC「GALLERIA」のロック画面を確認した。彼は満足げに、自分が現実世界で勝利を収めた証として、大量に購入した菓子類をデスクの後ろの棚に並べた。
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