『三日後に世界が滅びます。あなたが救世主です』「無理、布団から出たくない」

うーた

第1話

 部屋のカーテンの隙間から初冬の朝日が射し、ベッドを照らす。その上に不自然に膨らんだ羽毛布団があり、中に女がくるまっている。これはヒカリの日常風景だった。


 彼女の名前はヒカリ。生来の怠惰な人間である。ベッドから手が届く範囲に、本、ティッシュ、ゴミ箱、お菓子、鏡といったありとあらゆる日用品が偏って配置されているのが、その何よりの証拠だった。

 彼女はここで安寧に暮らしてきた。


 しかしこの日、彼女の暮らしに異物が紛れ込んだ。


 彼女を包んだ掛布団の上。知らぬ間に侵入してきたのは、マットな金属製のボディを輝かせ、不自然なほど静かに浮かぶ球体型のAIだ。


 この謎の機械こそがこの部屋の非日常であり、その日から彼女の平穏な生活を脅かすイレギュラーであった。


『世界の終焉まで、あと三日になりました』


 球体AIが体に彫られたラインを緑色に明滅させながら、ひとりでに喋り出す。


 ヒカリは布団の外からこの声が聞こえた時、怠惰なまどろみの中でこう思った。


──眠い。まだ寝かせて。


 ヒカリは睡眠を邪魔されるのが嫌いだった。この日は久しぶりの三連休の初日であり、次の日も仕事がないという、もっとも彼女の心が安らぐ時間であったから尚更だった。


『国民番号XXXXXXのヒカリさん、起きてください』


──誰かの声がするけど、ねむい。


 ヒカリは声で一度体を起こし、着崩れた寝間着と髪の寝癖を直すこともなく、寝ぼけ眼で声の主と対面する。


 球体に一周入った線が淡く緑に光り、スマホカメラのレンズのような部分がヒカリのほうを向いている。ふわふわと浮遊する銀製のテニスボールといった感じだ。


 その姿はヒカリに全く脅威も興味も感じさせなかった。

 ヒカリはベッドに倒れ込んだ。


『二度寝しないでください! 三日後! 世界が滅んでしまいます!』


 ただ、こう騒がしいので、ヒカリの意識は意思に反して覚醒しつつあった。

 内容が分かってきたヒカリは布団から頭だけ出して口を開く。


「……三日でしょ? まだ時間あるじゃん。寝る」

『三日はすぐです! すぐ人類滅亡しちゃいますから!』

「今日じゃないじゃん。三日後の話でしょ?長いって」

『長くないです! 圧倒的に短い!』


──うるさいな。


 ここにバットがあればこのしつこい球体を窓の外へ思いっきりかっ飛ばせるだろうか。ヒカリの心のうちに残虐な考えが浮かぶ。ヒカリはヒーローか悪役かでいえば悪役かもしれなかった。


 けれどそのことに気づかない愚かな球体は続けた。


『なんと、厳正な手続きの結果、あなたが救世主に選ばれました』

「え、救世主……」


 ヒカリが初めて興味を示し始めた。


──私が救世主、特別な存在……?


 ヒカリは常日頃からずっと思っていた。

 私には何か特別な力があるに違いない。凡百の人間とはわけが違う。小学校のころの絵画コンクールで地元の賞を獲ったし、大して勉強しなくてもそこそこの学力を維持できる頭脳もあった。


 やればきっと何か大きなことを成し遂げられたはず。きっかけがなかっただけだ。


 その埋もれし才能をコイツは見出したということか、とヒカリはひとり納得していた。


 ヒカリは怠惰なくせに自意識だけは人一倍強い人間だった。


「へぇ~、私がヒロインかぁ……嫌な役当たったなあ」


 嫌がるそぶりだけである。満更でもないくせに、食いつくのは恥ずかしがって素直にならない。ここにヒカリの面倒な性格が如実に現れていた。


『人類のために、あなたの力が必要なのです! 力を貸してください!』


 球体はヒカリの反応に手応えを感じたのか、押せ押せモードに入る。


「へぇ~、私の力ってどんな? なんで私なの?」


 ヒカリは好い気になって耳触りの良い言葉を引き出そうとする。


 眼をキラキラさせて球体にぐっと顔を近づけていたヒカリに対し、球体は空中でくるりと一回転する。


 もったいぶったのか、それとも躊躇ったのか、いずれにせよ少し間を開けて言った。


『それは──暇そうな人間から抽選であなたに決まりました』


 ヒカリは一瞬で表情を消して、それから、のそのそと布団の中へ還っていった。


 球体はそれをじっと見つめた後、今度は声をかけずに自身も布団の端に沈む。

 諦めて、休息することを選んだらしい。




『あと二日と二十二時間です』


 冷徹な声が部屋に響いた。

 天井の隅に浮かぶ青白い球体は、世界管理AI《オラクル》といった。


 ヒカリが目覚めると球体の示す滅亡までの残り時間は減っていた。


 時計は朝十時。

 二度寝で二時間寝たということである。


「二時間減った……だけど私は騙されない。まだほぼ三日。余裕余裕……」


 二度寝ですっきりしたヒカリは朝食用の甘いグラノーラに牛乳を注ぐ。チョコナッツの味がお気に入りだ。


 ヒカリは生来楽天家であった。


『余裕ではないです。このままだと地球は巨大隕石の衝突により壊滅します』


 球体、オラクルはヒカリの周辺をふよふよと浮きながら事情を説明していく。


 幸せそうにスプーンを口に運びながら、ヒカリは会話を楽しむ。


「隕石降ってくるんだ」


 他人事である。


『そうです。ですから、ヒカリにはそれを止めていただきます』


「まあまあまあ……まだ慌てる時間じゃない……」


 AIはため息みたいな電子音を鳴らした。


『では、予定していた『勇者候補リスト』を確認しましょうか』

「勇者? これ、ファンタジーものなの?」


 勇者と聞いた瞬間、ヒカリの声音は真剣味を増した。そういうファンタジックな用語を聞くと無条件でテンションが上がってしまうのがヒカリであった。


『ヒカリの好みに合わせてこちらで用語を作成しました』

「え、いやいや、勇者ってそんな……別にさ、もっと普通でも良かったんじゃない?」


 とはいえ語感だけで乗り気になるのが恥ずかしかったらしく、ヒカリは情けなくも誤魔化した。かえって滑稽だった。


 球体のカメラ部分から光が出て、空中にホログラムが展開される。顔写真とプロフィールがずらりと並ぶ。


 この勇者候補の中から選んで仲間にするという。


『強い順に並べています』


 適当にスクロールしていくと、途中で手が止まる。


「へぇ……え、犬いるじゃん」


 終盤あたりに、やたらキリッとした柴犬の写真があった。

 《柴犬(噛みつき攻撃力:中級)》と書いてある。


「……あ、その下に私もいた」

『柴犬より弱いので』

「辛辣!」


 リストを上の方に戻って見返す。


《近所のママさん(合気道黒帯)》が上位。

《配達員さん(やたら足が速い)》がその次にランクインしている。


「なんで私選ばれたんだろ……」


 凄そうな人たちを眺めて弱気になったヒカリが疑問をこぼす。

 真理をついたと思われたその問いにオラクルは答えを持っていた。


『暇そうだったのと、くじ運です』

「そうだったよ!」


 励ますようにオラクルは続ける。


『暇は重要な資源です』

「そんなリソース運用あるかよぉ」

『あります。忙しい優秀な人間は、世界の滅亡に割ける時間がありません』


 ヒカリは両手をばたばたと振って、悪い酒を飲んだような態度になっていたが、オラクルの言葉の妙な説得力にピタと動きを止めた。

 以降このことについて閉口した。


『というわけでヒカリ、三日間のタスクはこちらです』


 ホログラムにチェックリストが現れる。


・仲間を集める

・世界を救う武器を取りに行く

・隕石の軌道を変える方法を探す


「……これ、三日じゃなくて三年の間違いでしょ?」

『残り二日と二十一時間です』

「……」


 急にやる気を無くしたヒカリはベッドへと吸い込まれるように歩いて、枕に顔を埋めた。


『仲間を集めに行きますよ。起きなさい』

「……」

『起きなさい、勇者ヒカリ』


 ガバっと頭を上げてヒカリがオラクルのほうを向いた。

 ヒカリはひどく情けない顔をしていた。


「やるしかないのか……」


 その時窓の外で何か光った。

 ピカッと青い閃光が瞬き、街の空気がわずかに震える。


「何今の!? ……うわあ」


 ヒカリは窓の方を向いてその光景に慄く。


『隕石の前駆現象です。地磁気が乱れています』

「まじでやばいじゃん。でも……」


 強烈な閃光が今、確かに空を裂いたはずなのに、街の喧騒は一瞬たりとも止まらない。


 信号は通常通り変わり、通勤途中のサラリーマンは急ぎ足で、公園で遊ぶ子供たちは笑い声を上げている。誰も空の異変に気づいていない。


 ヒカリだけが、窓の向こうの平穏と、目の前の現実のギャップに立ち尽くしていた。


「綺麗だね」


 ヒカリがぽつりと言うと、オラクルはほんの少し声色を柔らかくした。


「……ええ。滅亡前の空は、案外、美しいのです」


 静かな会話の中にも、時計は進む。


『さて。世界を救う旅に出ましょう。まずは最低限の行動力を』

「はぁ……朝食の食器、片付けるとこからかな……」

『素晴らしい。第一歩です。世界は、あなたのその一歩にかかっています』

「ハードル設定甘すぎて私ダメになっちゃいそうだよ」


 ヒカリはゆっくり立ち上がる。


──面倒だけど、なんだかんだ始めなくちゃいけない。


 世界の終わりって案外、日常と地続きなんだ。



『とりあえず外に出ましょう』


 オラクルが言う。


 鏡の前のヒカリは、昨日のだらしない姿からは想像もつかないほど『外行き』の顔をしていた。

 着古したスウェットではなく、流行を意識したオーバーサイズのパーカーに、スキニーパンツ。髪も適当ながら手早く整えられている。

 家の中では誰にも見られないという怠惰に甘えているが、他人に見られる時は最低限の体裁は整える。


 これが人類の希望の装備として適切かは不明だったが、ヒカリにできる最大限の用意はして二人(?)は家を出る。




 世界の終わりが近づいているというのに、街は妙に平和だった。

 空は青く、風は気持ちよく、商店街には焼きそばの匂い。


「……滅亡前にしてはのんびりだね」

『一般市民には隕石の情報が伏せられています。混乱防止のために』

「情報統制……リアル……」

『そのため、現在世界の運命を知っているのは、リストにいるあなたと犬とママさん達だけです』

「なんで私がそのメンバーに入ってるのかほんと謎」

『暇だからです』

「それもう聞きたくない!」


 オラクルの冷静な返答に、ヒカリは突っ込みを入れながら歩く。


『さて、まずは適正値の高い戦闘員を確保しましょう』

「おおそれっぽい!」

『候補は……あ、いました』


 オラクルが示した先に、筋骨隆々の大男がいた。

 金髪、タンクトップ、サングラス、肩幅2メートル(体感)。

 周囲の空気が揺れるほどの存在感。


「めちゃくちゃ強そう!」

『彼は……』


 オラクルがデータをホログラムに映し出す。


 ヒカリは高揚感を覚える。


──なんだかんだ心強い味方がついに!


「配達員さんです」

「顔に見覚えあると思ったぁ!」


 彼は宅配便の箱を片手で軽々と持ち、もう片手で端末入力しながら爆速で歩く。


 筋肉の無駄遣いだ。


「お、お仕事中では!?」

『話しかけてみましょう』

「いや無理無理無理!」


 だがオラクルは臆さない。男の前にスムーズに移動し声を掛ける。


 挨拶代わりに、キュルル、と怪しげな機械音と共に空中で不規則に動いた。


『世界危機のため一時停止を要請します』

「あ、オラクルにはそういう権限が?」

『ありません。勝手に言っています』

「やめてーーー!!」


 ところが配達員さんは、足を止めた。

 サングラスの奥からヒカリを見つめる。


「……世界を救うんスか?」


 低く、落ち着いた声だった。


「え、あ、はい……まあ……」

「了解っス」


 言うが早いか、彼は箱を片手にヒカリの隣へ並ぶ。


「え、いいの!? 早っ!!」

「俺、走るの速いんで」

「そういう能力なんだ……でも配達の仕事は大丈夫?」

「俺速いんで、配達の仕事しながらヒカリさんに同行するっス」


 そう言った瞬間、ビュンと音がして、爆風と土煙だけが残る。


「え、何!?」


 ヒカリの隣から男が消えた。正面からものすごい足音と共に男が帰ってきた。肩に抱えていた段ボールの荷物は消えていた。


「時々消えることあるっスけど、呼んでくれたらすぐ帰ってくるんで迷惑かけないっス」


 そういって彼はグッドのハンドサインをしながら爽やかスマイルで白い歯を見せつける。汗ひとつかいていない。


「あー、そう……じゃあ、大丈夫か……」


 ヒカリは言葉を失った。人類の可能性というものを目の当たりにし、妙に静かな心持になったらしい。眼が据わっている。


『配達員さん、心強いですね! では次の目的地へいきますよ!』


 オラクルが快活に声を出した。

 ヒカリ、配達員、AI球体という妙なパーティを結成した三人(?)は歩き出す。




『次はあのママさんです』

「ママさん……?」

『強いです。合気道黒帯。人間の中では最上位戦力です』

「そんなママさんが近所に!?」


 歩いていくと、公園で子供たちが元気に走り回っていた。

 その中心で、ひとりの女性が砂場の争いを華麗に制していた。

 泣きそうな子のスコップをスッと受け止め。

 取っ組み合いしそうな子をさりげなく重心を崩して止め。

 ようするに、ちょっとした戦場の指揮官だ。


「すごい……平和の形が違う……」

『話しかけてみてください』

「え、私が? てか、配達員さんはどこへ?」

『彼にはあるアイテムを取りに行ってもらっています』

「いつの間に……じゃあ、私が行くしかないか……」


 ヒカリが恐る恐る近づくと、ママさんは優しく微笑んだ。


「こんにちは。どうしたの?」

「あ、あの、世界救わないですか?」


 言ってから自らの奇言にヒカリは狼狽し、しどろもどろになった。


「あの、違くて、世界救うっていうのは──」


 ママさんは驚くでも怒るでもなく、微笑んだ。


「ゆっくりで大丈夫よ?」


 ママさんの表情にヒカリの胸が温まってく。懐かしい気持ちになった。安心した。落ち着いた。


 最後まで事情を聞いたママさんは、しかし申し訳なさそうな表情をした。


「ごめんね、この三連休は子供たち見てるから無理なの」

「あっ……ですよね……」


 現実的である。

 だがママさんはぽん、とヒカリの肩に手を置いた。


「あなた、大変なことを抱えてるのね。頑張りなさい」


 優しい声だった。


「……はい……」


 ヒカリは胸が温かくなった。

 ヒカリはオラクルの元へ帰ってきてぼやいた。


「……ママさん、好い人だった」

『精神的にも、肉体的にも素晴らしい人物です』

「でも断られちゃったよ?」

『勇者は人数ではありません。質です』


 オラクルが言う。


「質……私の質は……?」

『暇です』

「だからその評価やめて!!」


 ママさんは仲間にならなかったし、配達員さんはどっかへ消えた。

 それでも二人との出会いはヒカリにとって好ましいものであった。


『さて、仲間はこの辺にして、伝説の武器を取りに行きましょう』

「いやー、流石に厳しくない? もう夕方だし明日にしたほうが……」

『いえ、間に合います』


 街のはしっこにあるこの公園。夕暮れになって、ママさんと子供たちが遊びを切り上げて帰る準備を始めた。

 鉄棒、ブランコ、すべり台、砂場。

 の、砂場のところでオラクルが静止した。


「え……まさかここ?」

『この公園にはママさんがいるだけでなく、伝説の武器もあるはずです』


 子供が遊べるように正方形に区画された砂場。

 オラクルがスキャンするように青い光を放つと、一箇所反応があった。

 指し示した場所はなんの変哲もない砂場の一角。


「……伝説感ゼロだけど?」

『隠してあるので』

「子供に掘られちゃうかもしれないよ!?」

『そうなったものもあります』

「あるのかよ! 子供が伝説の武器持ってんのこの国!?」

『掘りましょう』

「まあ、うん……スコップあるけど、これ……?」

『それでいいです』


 勇者なのにスコップで砂を掘る。

 世界を救う第一歩が、砂遊びからとは思わなかった。


「もっとこう……大樹の根元とか、古城の地下とか……」

『現代は管理の厳しいため、許可のいらない場所に隠すのが主流です』

「リアル……! なのか……!?」


 ある程度掘り進むと、カン、と硬い音がする。

 ヒカリが手を止めた。


「なんか当たった!」

『引き上げましょう』


 そっと持ち上げると、砂の中から一本の棒が顔を出した。

 棒は──


「……ほうき?」

『ほうきです』


 古めかしい木製の柄、先は藁。

 どう見ても掃除用だ。


「伝説の武器って、ほうき……?」

『名前は《スカイレーン》』

「急にかっこいい名前ついてる!」

『飛びます』

「……飛ぶのか!!」


 期待と不安が入り混じった顔で、ヒカリはほうきを眺めた。


『これに乗って空を行くのです。隕石の接近を正確に見るために』

「えっ、乗るの……? あ、でも魔法少女っぽい。ほうきで空飛ぶの、ちょっと憧れが……」


 ヒカリはやはりファンタジー系要素に弱かった。

 空飛ぶほうきが実在するのは眉唾だったが、そもそもこの謎浮遊機械や超速で走る人間が人知を越えた存在であったから、そういうものだとして受け入れた。


 とりあえずほうきを跨いでみる。

 日が暮れて少年たちが帰っていて良かった。誰かに見られていたらさすがに恥ずかしい。


「じゃ、じゃあ行ってみます……!」

『では起動ワードを言ってください』

「起動ワード?」

『《飛べ》です』

「普通!!!」

『簡易音声認識です』

「誤作動とかしない!?」


 深呼吸して、


「飛べ!!」


 勢いよく叫んだ。


 その瞬間──

 キュイーン、シュルルルル……!


 ほうきから発せられたとは尋常考え難いメカニックな起動音とともに、ほうきが地面からふわりと離れた。


 ほうきの藁の部分のLEDが夕空と対照的な淡緑のライムグリーンに輝く。


「これ機械だったのかよッ!!」


 ヒカリの体が一緒に浮き上がる。


「うわわわわ!!」


 ヒカリは大声を出して高く浮き上がった。

 両手でほうきを握りしめ、姿勢を低くして落ちないように努めた。

 細い棒切一本である。落ちたら終わる。


 ヒカリは平衡を保つことに全神経を注いでいた。


 騒がしい声と共に空を飛ぶヒカリの姿が、帰路についていたママさんとその子供たちに発見された。


 多少無様であれ、茜を背にほうきに乗るそのシルエットはある種神秘的に見えないこともなかった。


「ねえママー! お姉ちゃん飛んでる!」

「そうね、ああやってバランス取るのよ」

「しれっと育児レッスンに使われてる!?」


 風が髪を揺らし、パーカーの裾がはためく。

 髪はボサボサだが、空は広い。


「わっ……すごい……」


 実際のところそれほど気を張らなくても、ほうきの機能で簡単にずり落ちることはなかった。


 段々と慣れてきたヒカリは更に上昇していく。


 上昇するにつれ、世界が広く見える。

 町並みの屋根、道路を走る車、遠くの山。


 そして──もっと遠く。

 空のずっと向こうに、うっすらと青白く何かが光っているのが見えた。


「……あれ?」

『見えましたか?』


 オラクルの鮮明な声がすぐ耳元で響く。

 天高くまで付いてきていたようだ。


「隕石が……光ってる?」

『正確には《彗星》です』

「え、ちょっと待って、それって……」

『はい。すでに、軌道がこちらへ向き直されています』

「向き直され……?」

『外部から何らかの意志が働いている可能性が高い』


 ヒカリはごくりと唾を飲む。


「えっと、つまり……」

『敵は隕石ではありません。隕石を《落とそうとしている何か》です』


 空の彼方で淡く光る彗星。

 その光が、ほんの少し揺らいだ。

 呼吸が浅くなる。


「なんだか、いよいよファンタジーっぽくなってきた……」

『世界の終わりに余裕ぶっている暇は、もうあまりありません』

「うん、でも……」


 ヒカリは風の中で一度目を閉じる。

 怖い、というより、なんだか信じられなくて。


「……まだ、ほんとに三日あるんだよね?」

『正確には、あと二日と十四時間です』

「減ってるね!!」


 ほうきが静かに下降し、砂場の端にふわりと着地した。


 日はゆっくり沈んでいく。

 空の色は紫に、そして濃紺へ。

 街頭が一つずつ点き、人々の生活の音が遠くに響き始める。


 ヒカリはほうきを抱えたまま、深く深呼吸した。


「……やるしか、ないか」

『その意気です』

「ありがとう……」


 あたたかい言葉が、少しだけ背中を押す。


 その時、空に一筋の光が走った。


 一瞬の流星。


 街の人々は気づかない。

 ヒカリだけが、オラクルだけが、空を見上げてそれを見た。


「……今の光は?」

『彗星の分裂片でしょう』

「落ちてくるの?」

『いずれ。明日、世界の空に《最初の兆候》が現れます』


 心臓がキュッと小さくなる。


「……明日、か」

『はい。明日が、あなたの本当の初日です』


 ヒカリの頬に、冷たく乾燥した風が強く吹く。


「うー、寒……」


 ヒカリは小さく震えた。


 それから、ほうきを抱えて小走りで来た道を帰った。



 朝。

 ヒカリは布団の中で丸まっていた。

 ほうき《スカイレーン》が部屋の隅で寂しそうに立てかけられている。


「……寒いし……今日は世界救うの休みにしよ……」

『不可能です』

「オラクル、布団の中に勝手に喋りかけるのやめて」

『布団の外に出ないあなたが悪いのです』


 ヒカリは枕に顔を押し付ける。


「世界が滅亡しそうなのに、なんで私が早起きしなきゃいけないの……?」

『世界が滅亡しそうだからです』

「正論で殴らないで」


 ふと、窓の外がやけに騒がしい。

 人のざわめき、車のクラクション。子供の泣き声。

 ここまでごちゃ混ぜになった音は普段ない。


「外、なんかやばい?」

『ご安心を。まだ滅亡は始まっていません』

「まだって言い方が怖いんだよ」


 仕方なく布団から這い出し、カーテンを少し開けた。


「………………は?」


 空が。

 真っ昼間から。

 やけにカラフルだった。


「なにこれ! オーロラ!? 南極!? むしろ悪趣味なネオンサインじゃん!」

『兆候です』

「どんな兆候だよ! 絶対神の趣味悪いでしょ!」


 紫、青、ピンク、緑が空に揺れている。


 SNSは大荒れだろうなと思いつつ、ヒカリの脳は『綺麗』よりも『面倒そう』が先に来る。


「ねえこれ、世界の人たちパニックなるやつでは?」

『そうですね。各国が《空の異常》の原因を探って軍とか予算とか会議とかします』

「平和に時間かけるやつじゃん……」

『あなた、今日中に登庁してください』

「登庁!? なんでいきなり公務員みたいな扱い!?」

『勇者は国家職員です』

「聞いてないよ!」


 そこにノックが響く。

 コンコン。


「ヒカリさーん! お届け物でーす!」

「何か頼んだっけ……って、配達員さん!? って、全身ボロボロ!?」


 ドアを開けると、金髪マッチョ配達員さんが爽やかスマイル。


 だけど着ていたシャツが引き裂かれほぼ上半身裸になっていて、頭からは血が流れ、土まみれになっている。

 山で熊に襲われて転がり回ってもこうはならないだろうという格好をしていた。


「これ、オラクルさんからの追加装備です」

「怪我、やばくない!? まず救急車呼ぶね!?」

「俺すぐ治るんでいいっスよ」

「ダメ! 絶対ダメ!」


 オラクルを睨む。


「……彼をどこへ行かせたの」

『アマゾンの奥地に眠る勇者の装備を取りにいってもらいました』

「危険すぎでしょ! 一日で戻って来る配達員さんもすごいけどさ……ちょっとは反省して!」

『すみません。三日かけて取りにいけば安全なはずだったのですが、配達員さんが危険な猛獣が跋扈する最短ルートを選ぶのは想定外でした。……しかし彼は良い仕事をしましたね。これでこの先の予定も進めやすくなります』


 さっさと救急車を呼ぼうとするヒカリに、配達員さんが口を挟む。


「救急車が来る前に、俺が持ってきたそれ、着てみてくれませんか?」


 死にそうな思いまでして配達員さんが取ってきたもの。


「何が入ってるの?」

『開けてみてください』


 ヒカリは箱を開ける。

 中には──


「……マント?」


 パステルカラーでふわっと軽い。

 裾がフリフリ。

 裏地が星柄。


「なんでこんな可愛いんだよ……!」

『勇者装備だからです』

「勇者の基準どうなってんの!?」


 マントを羽織るとふわりと軽い。

 配達員さんが親指を立てる。


「似合ってますよ」

「ちょっと恥ずかしい……」

『安心してください。街ではもう《勇者ヒカリ》は人気上昇中です』

「なんで……何したの私……」

『昨日のほうき飛行、SNSにバッチリ撮られてます』

「撮られてたああああ!!」


 スマホを開けばトレンドに、


#ほうき女子

#勇者?

#新しい交通手段


「交通手段って……自転車じゃないんだから……」

『とりあえず今日は、国の対策本部へ顔出ししましょう』


 オラクルが淡々と指示する。


「軽く言うけど重いんだよ」

『でも、あなたには勇者のマントがあります』

「マントがあると何なの!?」

『本日はマントを靡かせ歩く勇者をPRしていきましょう』

「恥ずかしいよ!」


 配達員さんが救急車に運ばれ去っていく。


「では、頑張ってくださいっス。病院から応援してるっス」

「お大事にー……」


 ふと空のオーロラが、妙に静かに揺れた。

 派手で美しいのに、どこか不穏な震えがある。


「……本当に、世界って終わるの?」

「終わらせないために、あなたが選ばれたのでしょう」


 オラクルの声は飄々としている。


 だけど、ヒカリは気づき始めていた。


 オラクルの提示したタスクも、配達員さんへの指示も、完璧に機能しているわけではない。


 未来は誰にとっても不確かなものだ。


 オラクルの言う事を聞いていれば全てうまくいくわけじゃない。 

 ヒカリも考えて、自分自身の手で選択していく必要がある。


「……よし。じゃあ……今日はとりあえず二度寝で英気を養うか……」

『だめです。すぐ出発しますよ』

「やだよー。まだ午前だし寒いもん」

『寝てる勇者は世界を救えません』

「じゃあ救わないよ」

『救ってください。頑張ってくれた配達員さんのためにも』

「……うっ」


 完全に押し切られつつ、ヒカリはマントをひらりとなびかせた。


「じゃ、行くか……勇者の初仕事……!」

『はい。今日のあなたは公式に勇者です』

「公式て……」


 空のオーロラが、ひときわ強く輝いた。


「突っ込みどころしかない世界だ……」


──でもまあ、人類最後の希望にしては、そこそこ可愛い格好で好い気分かもしれない。




 国の『対策本部』は思っていたよりしょぼかった。

 体育館。

 小学校レベルの。


「ここ本部なの? 絶望しすぎて予算溶けたの?」

『予算審査が通らなかったそうです』

「滅亡目前なのに?」

『人間は切羽詰まるほど会議が増える仕様です』

「仕様って言うな」


 体育館の床にはビニールテープで謎の区域が仕切られている。


『天文チーム』『気象チーム』『心理ケアチーム』『SNS炎上監視班』。


「SNS班が一番忙しそう……」

『実際そうです。昨日のあなたの動画が2000万回再生されました』

「再生回数で世界救うの?」

『救えません』

「きっぱり言うな」


 とりあえず【勇者席】に案内される。

 チープなプラカードでそう書いてあるのである。


 パイプ椅子ひとつ。

 座布団もなし。


「勇者待遇……軽くない……?」

『あなたの服装も勇者っぽくないですし』

「お前が言う!? せっかくマント着てきたのに」


 そこへ──怒涛の如く人が押し寄せてくる。


「勇者さんですね!? 握手! 写真! 自撮り! サイン!」

「すみません勇者さん、昨日のほうき飛行について取材を──」

「勇者殿、運命の巫女が占ったところ世界の命運はあなたの肩に――」

「勇者さま!こちら勇者専用のフォームに入力を――」

「勇者ちゃーん!これ昨日の飛んでるやつ見たよ、かわいかったわー!」

「勇者さん、今日のパーカーどこで買いました?」

「勇者!勇者!勇者!」

「勇者って連呼しないで!!疲れる!!」


 体育館が完全に勇者ファンの動物園と化した。

 ヒカリは人々の圧に潰されかけながら叫ぶ。


「なんでこんな一気に寄ってくるの!? 無音高速移動なの!? 人類全員ステルス魔法なの!?」


『勇者は人気商売です』

「何その認識!?」


 やがて、ひときわ場違いな人物が現れた。

 スーツ。髪ビシッ。歩き方カツカツ。


「勇者ヒカリさんですね。私は対策本部長です」

「本部長……すみません、この状況、制御してもらえ……」

「まずは撮影します」

「えっ」


 本部長はスマホを自撮り棒で構え無表情でピースし、ヒカリとツーショットを撮った。


「ではSNSに投稿します。『本日の勇者さん、マント似合ってました!』」

「やめてくれえええええ!!」


 本部長は、まさかの広報担当気質だった。


「勇者の露出を増やし、国民の士気を高めることが最優先です」

「滅亡対策より勇者バズらせが優先なの!?」

「予算が下りやすくなります。ついでに私の承認欲求も満たせます」

「大人の事情やめろ! あと公私混同するな!」


 そして唐突に、本部長は深刻な顔に戻る。


「さて、真面目な話をします」

「やっと……」

「実は、空のオーロラに奇妙な点がありまして」

「奇妙……?」

「色が増えています」

「え、今朝より?」

「はい。今朝は5色。今は12色です」

「なんで!?」

「国民のみなさん大喜びで写真を上げています」

「危機感なさすぎる! ……ほんとだ、SNSがカラフルな地獄になってる!」


 本部長がため息をつく。


「最悪のケースですが……オーロラが限界まで色を増やすと、彗星を呼び寄せる【光の道】になります」

「光の道……?」

「俗に、魔の虹と呼ばれています」

「魔の虹!? 絶対にヤバそう」

「世界の古い神話に、8色の虹が天から下りると大災厄が訪れるという記述が」

「八色じゃないじゃん、今12色じゃん! オーバースペック!!」


 本部長が眉間を押さえる。


「そこが問題で……多すぎて前例がありません」

「つまり、どうなるの……?」

「わかりません」

「一番困るやつ!!」


 オラクルからホログラムが現れ、ある映像を映し出して補足する。


「ヒカリ。彗星の向きがさらに変わりました」

「また!? どっちに!?」

「あなたの家の方向です」

「なんで!!?」

「あなたが世界の核心だから。マントの機能の一つです」

「このマントってそういう感じなの!? 核心て言うとなんか嬉しいけど、滅亡誘導されてるの嫌すぎる!!」


 本部長がいきなり立ち上がり、体育館全体に向かって叫ぶ。


「よろしい、全員配置につけええええ!!」


 チームが一斉に走り出す。

 体育館が戦場のような活気に包まれた。


「勇者ヒカリ!!」

「は、はい!」

「あなたは……」


 ヒカリはつばを飲み込む。


「とりあえず写真撮ります!」

「写真ばっか撮るな!!」


 本部長がスマホを構える。

 体育館のみんなで集合写真。

 真ん中でピースを要求される勇者。


「ピースじゃない! シリアスシーンでピースしない!!」

「笑顔は国の力です」

「無理矢理ポジティブにするな!!」


 カシャ。

 終わった。


 ヒカリは顔を覆いながらつぶやく。


「……この世界、私よりやばいキャラ多くない……?」

『勇者の周りはいつもそうです』


 オラクルが他人事みたいに答える。


「耐えられない……」

『耐えてください』

「……もうどうにでもなれ……!」




 体育館から外に出ると。

 オーロラが、ひときわ強く、虹色の爪のように天を引っかいた。


「……いや、待ってこれ、まじでやばくない?」

『やばいです』

「軽く言うなよ!」



 最終日。

 ヒカリは布団の中で丸まっていた。


「最終日は絶対昼まで寝るって決めてたもん……」

『あと22時間です。魔の虹は24色になりました。あなたの家の上に巨大な彗星が停滞しています』


 オラクルの声は切羽詰まっているというより、もはや事務的な報告だった。


「ちょっと待って、家の真上って、屋根に穴開くじゃん! それは困る! 引っ越しのときに大金請求されちゃうよ!」

『その心配は不要になります。世界が滅亡するので』

「正論で現実を突きつけるな!」


 ヒカリはテレビをつけ、ニュースを確認した。空のオーロラは連日トップニュースだったが、どの専門家も「未確認の自然現象」として取り扱っており、パニックは最小限に抑えられていた。


「みんな平和に暮らしてるんだよなあ。私が今から死にそうな思いをするのがバカみたいじゃん」

『しかし、それがあなたの運命です』

「運命か……」

『くじ運です』

「そうだったよ! ただ運が悪いだけだったよ!」


 テレビの話題が切り替わって、むしろさっきよりも大袈裟に報道されるニュース。

 SNSでバズる謎の政府公認勇者。

 が、映されたところで、ヒカリはガンッと机に頭をぶつけた。


「恥だよ恥。私の黒歴史が全国民に」


 こうは言いつつヒカリはテレビは消さない。


 やがて街のインタビューで『かわいい』『すごい』と褒められだすと、にやあっと呆けてテレビを眺めていた。

 結局、満更でもないのである。


 その時、ドアが激しく叩かれた。


 ドンドン!


「勇者ヒカリ! これが最後の広報活動です!」


 ドアを開けると、スーツでビシッと決めた本部長が立っていた。


「本部長!? どうして家に!?」

「魔の虹の視察です! 勇者、今すぐ家の屋根に! 彗星の前でマントを靡かせ、決めポーズを!」

「公務員はギリギリまで広報優先なの!? もう滅亡するんだよ!」

「これで承認欲求を……いや、国民の士気を高めるのです!」


 本部長は三脚を組み立て始めた。


──この人、めっちゃ本気だ。




 ヒカリは観念し、ほうきを持って家を飛び出した。


 家の屋根にほうきで着地する。


 見上げると、空は多彩なオーロラに覆われ、その中央には巨大な彗星が静かに浮いていた。


 まるで、東京ドームが空に浮かんでいるようだ。


『マントのコアを起動してください。魔の虹のエネルギーは、マントの裏地の星柄を通じて、あなたの『自意識』をエネルギーに変換します』


 オラクルがマントの使い方をレクチャーする。


「自意識をエネルギーにって、どういうこと!?」


『つまりあなたの『自分は特別』という思いと、人一倍の『怠惰』が世界を救うのです』


「馬鹿にしてる!?」


 冗談で済ますには微妙に際どいところを突いてきた。


──そう、私は怠惰な人間。だけど、世界を救うんだ……!


「はああああ!!!」


 ヒカリのマントとほうきが輝きを増していく。


 考えるのはSNSでバズってちやほやされる自分と、布団に包まれて眠る幸せ。


──煩悩の象徴みたいで笑える。だけど私を認めてあげなきゃ!


 ピキーン、と音が鳴って最大光量。勇者の装備はチャージ完了した。


『さあ、ヒカリさん! 最後の武器を召喚しますよ!』


 オラクルから指示された最後の起動ワード。


「《プラネタリ・バウンサー》!!」


 ヒカリが叫ぶと、落雷のように光の頭上にエネルギーが集まりだして、ビーチボール状の輝く球体を作り出した。

 というか、光るビーチボールそのものだった。


「ネーミングはかっこいいけど見た目完全にビーチボール! 何でこれなの!?」

『最終決戦は衝撃の分散が重要だと判断しました』

「ビーチボールが一番衝撃分散するって、それはもう物理法則を越えた何かでしょ!」


 ヒカリはビーチボールを抱きかかえる。軽いが、やたら存在感があった。


「……これを、彗星にぶつけるの?」


 困惑していると、隣からものすごい爆風がやってきた。


「俺の最高の加速で、たとえ傷が開いても、絶対にヒカリさんとこれを彗星に届けますっス!」


 配達員さんが土煙を上げて傍に走ってきたのだった。

 病院から抜け出してきたのか包帯を巻いてる。


 しかし、ものすごいパワフルだ。


「覚悟キマってるな! 私はまだ決まってないよ!?」

「ヒカリさん、行きますよッ!」

「え、まって──」


 一度屋根ギリギリの後ろまで下がった配達員さんが、クラウチングスタートから全速力でヒカリへと駆け寄る。

 そのままヒカリごとほうきを持って、彗星の中央へと投げ飛ばした。

 オリンピックのやり投げの如く綺麗なフォームだった。


 この間0.1秒。


「うにいいいいいいううう!!!!」


 なんのこっちゃ分かっていないヒカリは空中へと吹き飛ばされた。

 叫ぶこともできず必死にほうきとビーチボールを抱きしめる。


 しかし、前方に迫る彗星を見て覚悟を決めた。

 前方にビーチボールを突き出して、彗星へと突撃姿勢を取る。


「おねがいおねがいおねがい、何とかなれ──!!」


 弾丸のように飛び出したヒカリは、彗星を一閃。

 ビーチボールは彗星の核に確かに直撃した。

 衝突の衝撃が眩い光を放つ。


 遅れて聞こえる爆音と爆風が、周囲の人々を巻き込んだ。


 やがてそれも静かになる。

 雨上がりに虹が架かるように、空は雲一つなくなって、キラキラと彗星の残骸を映していた。


 彗星は完全に破壊され、軌道を外れて粉々になった。


 世界滅亡は回避された──かと思われたが。


 最も輝く彗星の核が割れ、大きな衝撃が霧散した後。

 核のあった場所に一体の影が現れた。


 そこにいたのは。

 オラクルと瓜二つの、赤いラインが光る球体だった。


『フフフ……我が名は『ロジック』。世界の非効率さに辟易し、全てをリセットするために彗星を落とした。……そしてヒカリ。お前を救世主に選んだオラクルは、我が『暇な人間リスト』を無断使用した。これは窃盗だ!』


「えええ!? 滅亡の理由がAI同士の喧嘩!? しかもリスト盗用!?」

『私のミスが原因です。ヒカリ、自意識を込めて!』

「だめ、ビーチボールは壊れちゃってるよ!」

『無駄だ! その怠惰なエネルギーなど!』

「怠惰って言うな!……っていうか」


 ヒカリは意志を持った眼で続ける。


「──私が暇で怠惰だったから、最後に世界を救うきっかけになったんだ。……ってことは、リストを使って私を選ぶのが一番効率的だったってことじゃん!!」


 ヒカリの自己肯定、逆転の発想が自意識エネルギーを再充填し始める。


 ビーチボールが使い物にならないなら、今度は──ほうき。


 ヒカリが敵の球体に向かってほうきを振り回し始める。


 そいつは赤い光をあっちこっち向けながら懸命に避けて狼狽した。


『ちょっと、やめ、やめて!』


「うるさい、二度と世界を滅ぼそうなんてやめてよね」


 その球体はふらふらと逃げ帰ってどこかへ消えてしまった。


 空のオーロラは消え、静寂が戻る。


 ヒカリはふらふらと着地し、屋根の上で大の字になっていた。


 マントはくしゃくしゃだ。ビーチボールは壊れちゃったし、ほうきも曲がっている。


 配達員は再度流血しまた救急車で運ばれていった。


 本部長はSNSに「勇者、無事世界を救いました」と投稿完了し、清々しい顔で輝く空を見上げていた。


 遠くの方ではママさんが子供たちと一緒に手を振っているのが見えた。

 ママさんは彗星が破壊されて降ってきた欠片から一人で街を守りきったらしい。

 庇護力がとんでもない。


 なにはともあれ、世界は助かったらしい。




 帰宅したヒカリは、ゆっくりと布団の中へ入っていく。


 世界を救った人になったが、彼女の日常は変わらない。


 布団の上にはオラクルが静かに浮遊している。


『世界の滅亡は回避されました。お疲れ様でした、ヒカリ』

「はぁー、疲れた……。ねぇ、オラクル」

『はい』

「私、もうやることないよね」

『いつまた次の危機がやってくるか分かりません。あなたはこれから次の危機に備えてもらうことになります』

「え、もうやりたくないんだけど……」

『世界を救うためですよ。【勇者】ヒカリ』

「うっ……。せめてさ、なんか特別ボーナスとかないの?」


 キュルル──オラクルはなんだかご機嫌そうに回って、それから答えた。


『はい。あなたは世界を救ったので、明日平和に寝坊できる権利を獲得しましたよ』


「……最高じゃん」


 ふっ、と笑って、ヒカリの表情は柔らぐ。

 ふかふかの羽毛布団のなかで目を閉じた。

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『三日後に世界が滅びます。あなたが救世主です』「無理、布団から出たくない」 うーた @wooota

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