第17話

仕事帰り、同僚の鈴木と駅前のラーメン屋に入った。


二人がけのテーブル席に座り、向かい合って味噌ラーメンをすする。

湯気と喧騒が、この上なく平和な日常を形作っていた。



「なぁ、本宮。部長、離婚秒読みらしいぞ」


「……マジか」


「噂では清掃のバイトもクビになったとか。そりゃそうだよな、あんなのどこも雇いたくねえわ。自業自得、因果応報ってやつよ」


「……そうだな」



俺は煮卵を崩しながら、曖昧に笑った。

なんなんだろう、この感覚。ざまあでも、同情でもない。

名前のない感情が、喉の奥にへばりついていた。


鈴木はスマホをいじっていたが、次の瞬間、麺を盛大に吹き出した。


「……ブフォッ!!!!」


スープと麺が、勢いよく俺の顔に飛び散る。


「おい汚ねぇな!! 何だよ急に!!」



鈴木の目は異常に見開かれ、顔面は血の色を忘れた石像のようだった。


「ヤバすぎるって……お前これ見ろよ……マジでシャレになってねえ。動画どころの騒ぎじゃねえぞ……」



差し出された画面に目をやる。

ニュースサイトの見出しが、赤く鋭い文字で俺の視界を切り裂いた。



《世田谷一家殺害事件、元会社員・佐伯一成(48)を逮捕》



​2025年12月20日夜、東京都世田谷区の住宅で、成人女性1人と未成年2人が刃物による多数の刺し傷を負い死亡しているのが確認された。


警視庁は、元会社員で48歳の佐伯一成容疑者を殺人の疑いで緊急逮捕。


​被害者は、その住宅に居む妻(44)、長男(16)、長女(12)。


司法解剖の結果、いずれの遺体にも五十か所前後の刺し傷が確認され、警視庁は計画的犯行の可能性が高いとみて捜査を進めている。



「……うそだろ」


自分の声が、耳元で震えて反響した。



心臓が鉛のように重く沈み、視界がじわりと歪む。空気の匂いが、突然腐敗臭のように鼻を突いた。



鈴木が頭を抱え、掠れた声でつぶやく。


「……50ヶ所とか……どうなってんだよ。これ、確実に死刑だろ……」


「…………」


「信じらんねえ……部長、うぜえくらい嫁と娘の写真見せてきてたのに……。社内でも“愛妻家”で有名だったのに……。なんでだよ……」



​偶然なのか。それとも――

あの夜、俺が押した“アプリ”のせいなのか。



手が震え箸が床にカランと落ちた。

ポケットからスマホを取り出すと、ラーメン屋の喧騒が一瞬で遠ざかった。



なぜだ――?



画面のど真ん中に、

“それ”は鎮座していた。



『理不尽アプリ』



削除したはずのアイコンが、何事もなかったかのように、そこに戻っていた。



開くと、あの夜と同じ黒い画面。

時間が腐ったように止まっている。




【𝐀 処理する🔪】


【𝐁 理性を保つ💀】




【⚠𝐀を選ぶと代償が発生します】

【《あなたが失うもの》は選べません】




ただひとつだけ違っていた。

「代償が発生します」の文字が、警告灯のように激しく点滅していた。



それはまるで――『次はお前の番』と告げるかのようだった。



震える指で【𝐁 理性を保つ💀】を連打する。だが、画面は揺れるだけで微動だにしない。



 【𝑬𝑹𝑹𝑶𝑹】

 【𝑬𝑹𝑹𝑶𝑹】

 【𝑬𝑹𝑹𝑶𝑹】



狂ったように叩き続けると、スマホが高温になり、画面が真っ白にフラッシュした。



左下に、小さな文字がぽつんと浮かんでいた。




​【キャンセル不可💀】



息が止まった。

画面は真っ白のまま、冷たく沈黙している。



その時――ほんの一瞬。

黒い画面の奥で、

“誰かの顔”が、歪んで笑った気がした。










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