視るセナくん

ぽえーひろーん_(_っ・ω・)っヌーン

迎える、セナくん。


ハンガーに掛けられた学校の制服は、もう長いことシワのひとつも作っていない。


投げ捨てられた教科書も、一文字も書かれていないノートも、床の上に散乱して見向きもされやしない。


——シャッ!


目が覚めてカーテンを開ける、ずうっと眠っていたせいか、夕方の微妙な日の眩しさにさえ目を細める。


時計を見ても焦ることはない、ゆっくり歩いてゆっくり階段を降りて、誰も居ない台所の冷蔵庫から、昨日の晩に作りおいた飯を取り出し食べる。


席には付かない。


どうせ後で立ち上がる、そう何十分もかかる行為ですらない、その場で平らげて即洗浄した方がやりやすい。


今日は何をするか、そんなことを考え始めた頃、突然家のインターホンが鳴り響いた。


「……回覧板はポストに刺して置いていけって、何度も何度も言ってるのにボケ老人め」


生欠伸と一緒にモニターを確認する、扉の前に立ってるシワシワのアホを見る為に、そして二言三言イヤミを言ってやる為に。


だがそこで一瞬時が止まる。


「……誰だったかな」


見慣れない姿の人物だが、名前は知っている、知っているはずなのだ。


俺はスウェットのまま、スリッパを履いて、踵を気だるげに引きずりながら玄関へ向かう。


まだ名前は思い出せない、時間を稼ごう、鍵のツマミを捻って扉を開けるまでまだ猶予がある、それまでに来客の事を思い出さなくては。


「入学式の日に確か見たな……」


記憶力には自信がある、だから分からないなんてことは有り得ない、プライドが許すはずがなかった。


思い出せ、思い出せ。


——ガチャ。


ダメだ、思い出せん。


「うわっ」


玄関先に立ってインターホンを鳴らしたは。


『まさか扉が開くなんて思ってなかった』という顔で驚き、数歩後ずさって見せた。


——小さい。


俺の背が高いことを差し引いても、その女の身長はとても小さいものだった。


髪は短くて、毛先はダークパープル、学校の制服。


ほんのり香水の匂いがする、上品な匂いだ、安いものではないだろう。


外見の違う『ふたつのバッグ』を肩にかけており、持ち手を握る指には薄くネイルが施されている。


——やはり名前が分からない。


ひとまず俺は女の方へ手を差し出した。


「……え?」


困惑した様子の女、思った通り声は低い、シャープな印象を受ける。


余計な会話は省くに限る。


この女は見た目からも分かる通りオシャレに気を使っている。


バッヂやら刺繍やらで細かくデコってあるバッグと、まるで主婦が使うような無地の白いバッグ。


どう考えたって後者は女の私物じゃない。


恐らく勉強道具が入っていると思われる方は、見た感じ重たそうでは無いから容量には余裕があるだろう、荷物をわざわざ増やす意味も無い。


面識のない女が、学校終わりのこの時間帯に、一人暮らしの不登校学生の家を尋ねてくるとしたら、理由はひとつしか考えられない。


「全校生徒が提出義務のある書類を、たまたま同じ方向に住んでいたアンタが、先生の誰かに頼まれて届けに来たんだろ」


「えっと、そう……その通り」


そう言って差し出された荷物を受け取る、中にはクリアファイルに挟まれた幾つかのプリントが入っていた。


「他に用事は?」


「無いけど……」


玄関の取っ手を掴み扉を閉めようとする。


「あ、ちょっと!」


——ダンッ!


すると女は扉に足をかけ、それ以上引かれるのを力ずくで止めた。


「わざわざ届けてあげたんだから、もうちょっとなんかあっても良いんじゃない?」


少し考えて。


「確かに、言えてる」


俺は閉じかけていた扉を逆に開けて。


「入りな、なんか持ってきなよ」


と言ってひとり靴を脱いで家の中にあがった。


「え、ちょっと!」


さっきと同じフレーズを吐きながら、バタバタと慌てたように動く音がして、内側に扉を閉める音がした。


「なんなのよもう……お邪魔しまーす……」


客に出すようの菓子や茶を用意しながら、俺の思考はまだ『名前』の事に囚われていた——。


※※※ ※※※ ※※※ ※※※ ※※※ ※※※


「小遣いやろうか」


ちんまりと椅子に座る女の向かいに腰を下ろし、対価についての交渉を始める。


「要らないそんなの、施しを受けるほど困ってない」


「まあ、そうだろうな」


俺の発言に、女の眉がピクリと動く。


「アタシの何を知ってるっての?」


自分に淹れた茶を飲み、俺の視た事をそのまま伝えた。


「一般的な学生の多くはバイトをやっている、多分お前の場合は居酒屋ってとこかな、物怖じしなそうだし声もハキハキしてる。


体鍛えてるでしょ、体幹がしっかりしてる、格闘技でも習ってるのかな。


だから金が無いわけじゃない、貧乏人がやれるスポーツでもないしね。


さっき玄関を上がる時靴を揃えていた、足癖は悪いみたいだけど育ちは悪くない、それに誰かの面倒を見ることに慣れている。


いや、というより諦めて受け入れてるって感じだ、本当は断りたくても出来なかったんだろう。


多分片親、母親だな、夜職で疲れた母の面倒を小さい頃から見てきたに違いない。そういう人には特有の、どこか年相応でない達観した雰囲気がある」


最初、俺の発言を聞いていた女は、まるで分かったような口を聞く俺に苛立ちを覚えていたようだが。


話が深いところに進んでいくにつれて、それは次第に恐怖へと変わっていった。


全てを聞き終える頃には、女は音を立てて席を立ち上がり、怯えた表情をしながら俺から距離を取った。


「ありえない……」


それは裏付けだった。


俺がこの一瞬で見抜いた彼女の人生は、全て妄言でない真実であるということの。


大声で口汚く罵るか、そこのコップを俺へ投げつけて玄関から走って出ていくか、どの『激怒』パターンで来るか身構えていると。


「もしかして、それが不登校の理由?」


女は尚も俺とコミュニケーションを取ろうとした。


「……まあ、それもある」


少々意表を突かれた、大抵は気持ち悪がるか怒るのに。


いや、気味悪がってはいるだろうけど、それを真っ先に表に出しては来なかった、その事が意外だった。


「ビックリした、あんた占い師か何か?言ったこと全部当たってるんだけど。頭の中を覗かれた気分」


そう言って、一度立った席に再び着く女。


「その特技?って言って良いか分かんないけど、意識して見抜こうってしてやってるの?」


「呼吸って意識してやろうとしなくても、自然と体がやってることだろ。それと同じだよ」


「じゃあ、そっか、なんか納得」


「何に?」


女は茶を入れたカップに初めて触れ、フーフーと息を吹きかけて冷まして飲み、カップの中身に視線を落としながらこう言った。


「生きにくそうだなってこと、あんたみたいに色々言い当てたりは出来ないけど、学校来なくなるのも無理ないかなって思って」


ああそうか、なるほど。


「人が良いんだな」


「ぶっ……ゴホッゴホッ!」


飲み物をむせる女。


涙目で咳き込み、俺に苦情を申し立ててくる。


「きゅ、急に変なこと言わないでよ!あーもうケホッ……器官に入っちゃった……」


「したくもない届け物を、知り合いでもない男の家に律儀に届けて、挙句土足でプライベートを踏み荒らされたのにそんな優しいことを言うだなんて。


誰がどう見たってお人好しだって思うと思うけど」


「うるさいバカ!このノンデリカシーのアホ野郎!」


コースターが顔目掛けて飛んでくる。


激突する前にキャッチをしつつ『さっきので怒らないのに褒めたら怒るのか』と内心で首を捻る。


「……あ」


とここで。


「今度は何!」


俺の脳内で雷光が弾け飛んだ。


「名前、思い出したよ」


「はぁ?思い出すも何も初対面……」


徠伏クルフシ 璃香リュカ、確か入学式の日、校門の前で友達と写真撮ってた子だ」


「うえっ、気持ち悪っ……なんでそんなこと覚えてんの……」


ああ、ようやくスッキリした。


危うく一晩中使って記憶をノートに書き出さなくてはならないところだった、無事に分かって良かった。


「あんたも名乗れば」


「知ってるんじゃないの?」


「なんか不平等ってカンジがして嫌なの」


そこまで言われたら仕方ない、改めて俺も名乗ろう。


盛万鱗サカバリ 世成セナ、セナって呼んでくれ」


このリュカとの出会いが、俺の人生のハイライトとなるのだった——。


※※※ ※※※ ※※※ ※※※ ※※※ ※※※


「別に送ってくれなくたって、そんなの必要ないって言ってるのに……」


それほど長く家に滞在しなかったが、冬ということもあって、空はすっかり日が落ちてしまっていた。


そんな中ひとりで返すのも微妙だ、最近は物騒な話もチラホラと聞くしそれに。


「あんたいつか痴漢に会いたいと思ってるだろ、変質者をぶちのめして懲らしめてやりたいって」


「なっ……」


こっそり胸の奥で抱いていた野望を言い当てられ、街灯の明かりが途切れる黒の中でも、はっきりと分かるほど顔を赤らめる女。


——いや、リュカだったか。


「……そう、こういう感じなわけね」


リュカはコホンと咳払いをして、激情に突き動かされた自分の行動を押しとどめ、冷静さを取り戻してから口を開いた。


「夜道にひとりで歩いてる女の子を狙って、そういう卑劣な犯行に及ぶような輩を、か弱い抵抗する力のない子の代わりに鉄槌を下してやろうってハナシ。


別にそんな『映画のようにカッコよく悪党と戦ってみたい』なんて理由じゃないから」


「ヴァン・ダムみたいに?」


「うそ、なんでアタシの推し知ってんの……」


「シブい趣味してるな」


人と会話が成立するっていうのは面白い。


普通皆俺から離れていく、親でさえ俺と話すことを嫌っていた、父親の浮気のことや母親の金遣いの粗さのことを暴露してしまったことがあるからだ。


昔の話だ。


五歳の俺にはそれが特別なことだとは分からなかった、みんな視えてるものだと思い込んでいた。


「もしかしてそれに憧れて格闘技始めた?」


「そうだけど」


若干言い方にトゲがある、拗ねているようだ。


「きっと強いんだろうね、なんていうか猛者の風格みたいのを感じる」


「別に……って、あんた相手に謙遜しても、どうせ見透かされてあることないこと思われるだけなんでしょ。


……そ、アタシむちゃくちゃ強いから。結構試合してるけど負けたことないし全部1ラウンドKOしてるし。


女じゃ練習相手にならないから、自分より体のデカイ男相手にスパーやってる。もちろんそれでも足りなくて毎回アタシがボッコボコに叩きのめすんだけど」


俺に言われるよりも前に、自分で情報を開示することで張り合ってきた。


典型的な負けず嫌いの気質だ、さぞ勝負事にこだわるのだろう、そういう人間は何をしても伸びるものだ。


「発言を疑うわけじゃないけど、実際この目で見るまでは想像がつかないな」


「味わってみる?アンタの顔面なら大歓迎、何の遠慮もなく整形してあげられるよ」


ギリリリッと音が立ちそうな程に、力強く拳をにぎりしめるリュカ。


俺は見逃さなかった、彼女の二の腕の盛り上がりを。


布が張り付いて形が浮き出た、ため息の出るような美しい戦闘用の筋肉を。


その発言が決して嘘では無いということが肌で感じて理解できる。


喧嘩はしたことが無い、戦ったことは無い、運動神経は良いし体格にも恵まれているが、素人が相手では太刀打ち出来やしないだろう。


ならば、それならここは、もちろんのこと。


——パシンッ。


「きゃあんっ!?」


——ケツをひっぱたいて逃げちまえ!


「このぅ……!逃げるなッ!待てぇーッ!」


戦闘技術じゃかなわなくても!足の長い俺の方が走ったら早いのさ!


顔を真っ赤にして追いかけてくるリュカと、それから逃げるこの俺は、傍から見たら一体どんなふうに見えるのだろう。


少なくとも今の俺は、これまでの人生で一、二を争う『愉快な気分』であることは間違いがない——。


「なんか友達っぽくていいなコレ!」


「ブッコロス!!」

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