第二部 年中行事編
第16話 夏祭り、繋いだ手と体温
「――完璧、ですわ」
ぱちん、と小気味よく指を鳴らし、立花リリア《たちばなりりあ》は鏡に映る超絶美少女、すなわち自分自身の姿に満足げに頷いた。
肌にさらりと触れる上質な生地は、白地に繊細な
「リリアちゃん、準備できたよー」
背後から、ゆるふわな声が届く。
振り返ったリリアの瞳が、幸福のあまり、きゅ、と細められた。
そこに立っていたのは、
彼女は、リリアの白とは対照的な、淡い水色の地に
そして、その包み込む大天使と称すべき豊満な
「みるくさん……」
リリアはとてとて、と足袋に包まれた足で歩み寄り、みるくの周囲をぐるりと一周する。
「みるくさん、反則ですわ」
「えっ、反則? なにが?」
きょとん、と首を傾げるみるくに、リリアはこほん、と咳払いをしてから言い放つ。
「その……美しさですわ。ただでさえ、普段からみるくさんの包容力はわたくしを蕩けさせるというのに、浴衣姿はそれを千倍にも万倍にも高めています。わたくし、お祭りにたどり着く前に、みるくさんに見惚れて溶けてしまいますわ」
「も、もう、リリアちゃんたら…!」
みるくは嬉しそうに頬を染め、今度は自分がリリアの手を取って、くるり、と回らせる。
「リリアちゃんこそ、本当にお人形さんみたいだよ。詩乃さん、すごいね。この髪型も帯の結び方も、リリアちゃんの可愛さを全部引き出してる」
「ふふん。詩乃は超有能ですわ。ですが、みるくさん。わたくしのこの姿を一番に見て、独占できるのは、みるくさんだけですのよ?」
「……! うん、嬉しいな。じゃあ、私のこの姿も、リリアちゃんだけのものだね」
幸福な相互確認。二人の間にあるのは、絶対的な肯定だけ。
「さ、行きましょう。わたくしたちの夏祭りへ」
「うん!」
***
じりじりと肌を焼くような日中の熱気は、夜の闇と共にわずかに和らぎ、しかし、人々の放つ熱気がそれを補って余りある。屋台から漂うソースの焼ける匂い、甘い綿菓子の香り、そして子供たちのはしゃぐ声。
「わぁ……すごい人だねぇ」
みるくが感嘆の声を上げる。
人の波に押されそうになり、みるくは「リリアちゃん、はぐれないように…」と手を差し出そうとした。
が、その手は空を切る。
リリアは、その手を選ばなかったからだ。
「はぐれるわけがありませんわ」
リリアはそう言うと、みるくの左腕に、ぎゅう、と抱きついた。
柔らかい二の腕に自分の頬を押し付け、さらに胸元に顔をうずめる。まるでコアラが木に抱きつくように、全身全霊で密着する。
「リリアちゃん!?」
「これなら、はぐれません。むしろ、これが最適解ですわ。みるくさんの体温も、鼓動も、匂いも、全部わたくしのものです」
(本当はその胸元に潜り込みたいところですが)
みるくの恵体が、リリアの短躯スレンダーな身体をふわりと受け止める。
みるくは一瞬驚いたが、すぐに「あはは」と幸せそうに笑い、リリアの頭を抱きついていない右手で優しく撫でた。
「うん、そうだね。これなら絶対はぐれないし……あったかいね」
二人は、もはや「二人で一つ」の生き物のように、ゆっくりと人混みを進み始めた。
その、あまりにも糖度の高い光景は、周囲の喧騒から明らかに浮き上がっていた。
「うおっ、やっぱりいた! つーかお前ら、人混みで何イチャついてんだ!?」
鋭い声。振り返るまでもない。メガネを光らせた、二人のクラスメイトにして、自称「観測者」。キレのあるツッコミで二人の仲に太鼓判を押していく存在。
「あら、ミユさん。ごきげんよう。貴女もいらしてたんですね」
リリアは、みるくの腕に顔をうずめたまま、ちらり、と視線だけをミユに向ける。
「ごきげんよう、じゃねーよ! なんだその体勢は! 手を繋ぐ、とかいうレベルを五段階くらいすっ飛ばして、もう融合してんじゃねーか!」
「ミユさん、人混みは危険ですわ。わたくしのようなお人形系美少女は、すぐに悪い人に攫われてしまいます。ですから、みるくさんの体温と鼓動が感じられるこの場所が、世界で一番安全な聖域なのです」
「ツッコミが間に合わねーよ! ほら、みるく! お前もなんとか言え!」
ミユがみるくに助けを求めると、みるくは「あはは」と困ったように、しかし最高に幸せそうに笑って言った。
「こんばんは、ミユちゃん。でもね、リリアちゃん、本当に体温低いから。こうしてると、私があっためてあげられるから……ちょうどいいんだよ」
「ど、どこがだよ! お前ら、お互いを甘やかすことしか考えてねーだろ!」
「「当然です(だよ)」」
ミユは「もう知らん!」と頭を抱え、人混みに消えていった。
***
人混みを少し離れ、川沿いの涼しい場所へ。
二人は屋台で買ったりんご飴とラムネを手に、小さなベンチに腰掛けた。
カラン、とラムネのビー玉が涼やかな音を立てる。
「ふぅ。少し汗をかいてしまいましたわ」
リリアが結い上げたうなじを手でぱたぱたと仰ぐ。
それを見たみるくは、さっと自分のカバンから清潔な手ぬぐいを取り出し、リリアのうなじや額に浮いた汗を、優しく、そっと吸い取るように拭ってあげた。
「あ……」
ひんやりとした感触と、みるくの指が髪に触れる感覚。
汗の湿り気、手ぬぐいの感触、みるくの指先の熱。
蕩けるような安心感、甘やかされる陶酔。
「……みるくさん、気持ちいい、ですわ…」
「よかった。リリアちゃん、本当に綺麗だから。汗も宝石みたいだね」
「みるくさんの手が、わたくしを宝石にしてくれるんですわ」
汗を拭い終わり、リリアがりんご飴を一口かじった、その時。
「あ」
リリアが、みるくの頬をじっと見つめた。
「ん? なに、リリアちゃん」
「みるくさん、頬にお砂糖がついてますわ」
「えっ、どこどこ?」
「動かないでください」
リリアは、みるくの頬に手を伸ばした。
みるくが食べていたりんご飴の、溶けた水飴が小さく光っている。
リリアはそれを、自分の親指で、そっ、と拭った。
指先に伝わる、みるくの体温。
距離、数センチ。
お互いの呼吸が混じり合う。みるくの甘いラムネの匂いと、リリアの纏うほのかな石鹸の香り。
みるくの視線が、リリアの指先から、リリアの唇へと一瞬だけ動いた。
リリアは、指についた水飴を、ぺろり、と舐めた。
「……甘いですわ」
「……うん、甘いね」
みるくも、リリアの唇を、蕩けるような目で見つめながら答えた。
花火が上がるにはまだ早い、静かな夜。遠くの喧騒だけが、二人の世界を縁取っている。
「みるくさん」
「なぁに、リリアちゃん」
「楽しいですわ。最高に、幸せです」
「うん、私も。…来年も、こうして来れるといいね」
その言葉は、ベランダでの微かな不安(「続けばいいのに」)の残り香。
だが、今のリリアには、その残り香すら不要だった。
「いいえ、みるくさん」
リリアは、みるくの腕に再び自分の腕を絡め、今度はしっかりと手を握った。
「『いいね』、ではありません。
来ますわ。
わたくしたちは、来年も、その次の年も、十年後も、ずっとこうして二人で夏祭りに来ます。
それは必然であり、すでに確定している未来。
わたくしたちの間に、不確定な未来など存在しませんわ」
リリアの力強い宣言。
それは「依存体質(良性)」が「行動力」となって発揮された、幸福の確定だった。
みるくは、一瞬目を丸くしたが、すぐに破顔した。
「……うん! そうだね!」
みるくは、リリアの言葉という甘さを、その包容力で全て受け止めた。
「うん、絶対、来ようね。来年も、ずっと」
遠くで、最初の一発の花火が上がる音がした。
だが、二人にはもう、その音は必要ない。
互いの体温と、繋いだ手の強さだけが、二人の世界のすべてだった。
(ああ、夏が終われば体育祭。みるくさんの作ってくださるお弁当が、今から楽しみで仕方がありませんわ…!)
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