第13話 名前はいらない
ベランダからリビングに戻ると、部屋の空気は、先ほどよりもさらに甘く、濃密になっている気がした。
映画のエンドロールはとっくに終わり、テレビは静かな待機画面になっている。
二人は、どちらからともなく、寝室へと向かった。
もう、あの初夜のような緊張は、どこにもない。
キングサイズのベッドは、二人が帰るべき、暖かな巣穴として、当然のようにそこにあった。
みるくが先にベッドに入り、いつものように腕を広げる。
リリアは、そこに、当たり前のように吸い込まれていく。
みるくの腕の中。リリアの定位置。
完璧な安心感の中で、リリアは、先ほどベランダで抱いた、あの哲学的な疑問を、そっと口にした。
「…あの、みるくさん」
「んー? なあに、リリアちゃん。もう眠る?」
みるくは、リリアの髪を、いつものように優しく梳き始めている。
「いえ、その前に、少し…。わたくしたち、こうして、毎日一緒にいて、手を繋いで、膝枕をして、抱きしめ合って眠る…」
「うん。世界で一番幸せなことだね」
「はい。…それで、思ったのですけれど」
リリアは、みるくの胸に顔をうずめたまま、くぐもった声で尋ねた。
「私たちの関係…なんて呼べばいいのでしょう?」
みるくの、髪を梳いていた手が、ぴたり、と止まった。
リリアが顔を上げると、みるくは少しだけ戸惑いの浮かんだ、しかし優しい笑顔でリリアを見つめていた。
「あー…『なんて呼べばいいか』、かぁ」
みるくは、うーん、と少し考える素振りを見せる。
「『お友達』…にしては、ちょっと、くっつきすぎてるもんね」
「(こくこく)そうですわ。わたくし、みるくさん以外の『お友達』に、こんなこと、絶対にできません」
「だよね。…じゃあ、『恋人』、かな?」
恋人。
その言葉の響きに、リリアは、自分の心臓が、きゅ、と小さく鳴るのを感じた。
だが、それは、喜びとは少し違っていた。
「(首をふるふる)……実は、それもしっくりこないんです」
「(驚いて)え、そうなの?」
「はい。『恋人』という言葉には、なんだか…わたくしたちには不要なものが、たくさんくっついている気がしますの。嫉妬とか、束縛とか、そういう、不安になるような…」
「(納得して)…そっか。確かに。リリアちゃんと私の間に、そういう『不安』はいらないもんね」
「はい。それに、『恋人』や『親友』という言葉の境界線は、わたくしたちの関係を、なんだか狭めてしまう気がしますわ。……私は、私たちの関係は、もっと近くてもっと濃厚で……」
リリアは、みるくの腕の中で、確信を持って言った。
わたくしは、みるくさんに甘えたいし、甘やかされたい。
みるくさんは、わたくしを甘やかしたいし、甘えさせたい。
その「完璧な相互補完」こそが全て。
それは、「恋愛」という枠組み以上のものであり、同時に、「恋愛」が持つ負の側面を一切含まない、別のカテゴリ。
まさに、「恋人とは違う」が「恋人以上」。
リリアは、自分の感情が「戸惑い」から「確信」へと変わっていくのを感じた。
そう。わたくしたちは、既存の言葉の外側にいるのだ。
「そっか…。リリアちゃんは、そういう『名前』が、逆に不安なんだね」
「いえ、不安なのではなくて…」
リリアは、みるくの胸から顔を上げ、まっすぐにその瞳を見つめ返した。
「(きっぱりと)何もいらないですわ」
「え…」
「名前なんて、どうでもいい。わたくしが『みるくさん』と呼んで、あなたが『リリアちゃん』と呼んでくれる。わたくしが、みるくさんの腕の中にいて、みるくさんが、わたくしを撫でてくれる。…それだけで、完璧ですのに、それ以外の『名前』が、どうして必要ですの?と思ってしまって……」
みるくは、リリアの、あまりにも純粋で、あまりにも強靭な「哲学」に、息を呑んだ。
そして、次の瞬間。
みるくは、今までのどんな笑顔よりも深く、優しく、愛おしそうに、笑った。
「(リリアの頬を包み込み)…うん。そうだね。リリアちゃんの、言う通りだ」
「私も、リリアちゃんが『恋人』だから、とか、『親友』だから、とか、そういう理由で甘やかしてるんじゃないもん」
みるくは、リリアの鼻先に、自分の鼻先を、こつん、と優しく合わせた。
「リリアちゃんが、リリアちゃんだから。私が、甘やかしたくて、たまらないだけ」
「(くすぐったそうに)…みるくさん」
「うん。それが全部。今が全部だね」
「はい。今、この瞬間が、わたくしたちの全て、ですわ」
二人は、名前のない関係性に、絶対的な安心と確信を得た。
ラベルを貼らないこと。
定義しないこと。
それこそが、二人の関係を「無限」にし、「永遠」にする、唯一の方法だと、二人は直感的に理解した。
この関係の永続性は、名前によって縛られるものではなく、日々の「甘やかし」と「甘え」の積み重ねによってのみ、証明されていくのだ。
「みるくさん」
「ん?」
「約束、してくださいまし」
「うん。リリアちゃんが望むなら、なんでも」
「これからも、ずっと、わたくしを甘やかし続けてください。わたくしも、ずっと、みるくさんに甘え続けますわ」
「(微笑み)…ふふ。それ、私にとってはこの世の全部と引き換えにしていい『ご褒美』だよ」
みるくは、リリアを、もう一度、ぎゅっ、と強く抱きしめた。
「誓います。私は、リリアちゃんを、永遠に甘やかし続けるよ」
「(満足げに)…はい。わたくしも、誓いますわ」
二人の間に、名前のない、しかし、この世のどんな誓いよりも強固な契約が、再び結ばれた。
この「永続」の誓いを、二人は、何か、形にしたくなった。
言葉ではなく、行動で。
二人の生活習慣の中で、最も「幸福」な形で。
「……みるくさん」
「うん」
「明日、学校から帰ったら、すぐに、あの『膝枕』を、お願いしますわ」
「あはは、もちろん。…じゃあ、私は、リリアちゃんが膝の上でとろけるのを、全力で待ってるね」
言葉が、行動の「宣言」となった。
二人の関係は、次の「永続の確定」へと、静かに進んでいく。
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