第12話 夜風によりかかる
(…幸せ、ですわ)
あんなに山ほどあったチーズケーキは、綺麗に二人の胃袋に収まった。
リビングの大型テレビでは、リリアが選んだ恋愛映画(もちろん、鬱要素ゼロのハッピーエンド確定版)が、穏やかなエンドロールを流している。
ソファの上で、リリアはみるくの膝を枕にし、みるくはリリアの髪を永遠に梳き続ける、という「いつもの体勢」のまま、二人はその光景をぼんやりと眺めていた。
(でも、幸せすぎて…少し、ほてってきました…)
感情は、もはや「静けさ」と「深い満足」の境地にあった。
休日という「甘さの量的拡大」を経て、二人の関係は、今、質的な深化を求めている。
「みるくさん」
「んー? どうしたの、リリアちゃん。もう眠くなっちゃった?」
「いいえ…。あの、ベランダ、出てもよろしいです?」
「ベランダ? うん、いいよ。ちょっと涼しいかもだから、これ、羽織っていこっか」
みるくは、リリアを優しく膝から降ろすと、ソファにかけてあった、お揃いのカーディガン(もちろん、いつの間にか詩乃が用意していた)を、リリアの肩にふわりとかけた。
「みるくさんは?」
「私は、リリアちゃんで温まるから、いいの」
(また、そういう、こと!)
そんなことを言いながら、みるくは自分もしっかりカーディガンを羽織り、リリアの小さな手を引いた。
***
カチャリ、と、リビングの防音サッシを開ける。
ひやり、とした夜風が、ほてった二人の頬を優しく撫でた。
7階のベランダから見下ろす夜景は、宝石箱をひっくり返したように、とまではいかないが、帰る家々を照らす、暖かな光の粒で満ちていた。
「わあ…」
「綺麗、ですわね…」
二人は、手すりに寄りかかり、並んでその光を眺めた。
家の中の、甘く閉じられた幸福とは違う。
世界と繋がっている、けれど、世界からは守られている、という、このベランダ特有の「安心感」。
みるくは、そっと、リリアの手から自分の手を離し、代わりにその細い肩を優しく抱いた。
リリアの体は、みるくの腕の中に、すっぽりと収まった。
(ああ、この距離…)
リリアは、みるくの体温と、カーディガン越しの柔らかさを感じながら、うっとりと目を細めた。
そして、ごく自然に、みるくの肩にこてん、頭をもたせかけた。
みるくの、ゆるふわのボブヘアーがリリアの頬をくすぐる。
甘い、石鹸の匂い。
みるくは、リリアがもたれかかってきたことに、さらに愛しさが募ったのか、抱きしめる腕にきゅ、と力を込めた。
リビングの光を背に受け、二人の寄り添う影が、ベランダの壁に、一つになって映し出されている。
(…ずっと、このままがいい)
(このまま、みるくさんと、溶け合ってしまいたい)
リリアの感情は、穏やかな「静けさ」から、みるくという存在そのものへの「深い愛着」へと、確実に変質していた。
「(ささやくように)…みるくさん」
「んー?」
:「…この時間、好きです」
それは、リリアの、心の底から漏れた、純粋な呟きだった。
みるくは、リリアの頭の上で、くすくす、と笑った。
「(リリアの髪に頬を寄せ)…私も。ずっと続けばいいね」
その声には、映画のエンドロールを見てしまった時のような、ほんの少しの、切なさが混じっていた。
「ずっと」続かないかもしれない、という、この世界に生きる誰もが持つ、当然の不安。
だが、リリアは、それを許さなかった。
リリアは、みるくの腕の中で、くるりと体勢を変え、みるくと向かい合った。
そして、みるくのカーディガンを、ぎゅ、と握りしめる。
「(見上げて)…みるくさん」
「(驚いて)リリアちゃん?」
「『続けばいいのに』、では、ありませんわ」
リリアの瞳は、夜景の光を反射して、強く、まっすぐに、みるくを射抜いていた。
「続きますわ、絶対に」
「!」
「わたくしが、続かせます。わたくしが、みるくさんのそばから、絶対に離れませんから。みるくさんも、わたくしから、離れてはだめですわ」
「リリアちゃん…」
みるくは、息を呑んだ。
リリアの、お人形めいた「儚さ」の奥にある、強靭なまでの「依存(良性)」の強さ。
それは「不安」ではなく、絶対的な「信頼」と「独占欲」の証。
みるくは、その眩しさに、一瞬、泣きそうになった。
「(とろけるように笑い)…うん。そうだね。…ばかだな、私」
みるくは、リリアの小さな体を、今度こそ、真正面から、壊れ物を抱きしめるように、ぎゅう、と抱きしめた。
「続くよね。私たち、『ずっと』だもんね」
「(満足げに)はい。そうですわ」
***
二人は、どちらからともなく、ゆっくりと体を離した。
だが、もう、先ほどの「切なさ」は、どこにもない。
夜風が、二人の間の、余計な感傷を、すべて吹き飛ばしてくれたようだった。
リリアは、みるくの腕に抱かれながら、ぼんやりと思った。
(みるくさんは、わたくしの、「恋人」…? いいえ、なんだか、しっくりきませんわ)
(「親友」? もっと、違います)
(「家族」? …それも、少し)
(じゃあ、みるくさんは、一体、わたくしの、何…?)
この、あまりにも完璧に満たされた関係性。
それに、既存の名前が不要なのではないか。
そんな、哲学的な問いが、リリアの胸に、静かに芽生え始めていた。
二人の関係性を、改めて「言語化」する時が、近づいていた。
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