第8話 甘やかしキッチン
「はい、どうぞ。ミルクたっぷり」
桜庭みるくが、お揃いの白いマグカップを二つ、ローテーブルに置いた。
立ちのぼる甘い湯気が、リリアの顔を優しく湿らせる。
ソファに深く身を沈めたまま、リリアは両手でマグカップを包み込むように持った。
(…あったかい)
みるくの手の体温までも、このカップに残っている気がした。
「さて!」
みるくは、自分のミルクティーを一気に半分ほど飲むと、満足げに息をつき、立ち上がった。
そして、昨日片付けたばかりのキッチンの引き出しから、新品の、しかしデザインはごくシンプルで機能的なエプロンを取り出し、慣れた手つきで身につけた。
リリアと同じシルクのパジャマの上から、淡いブルーのエプロン。
その姿は、あまりにも「生活」に馴染んでいて、リリアは息を呑んだ。
(ああ…みるくさんが、わたくしたちの「巣」の、中心になった…)
みるくは、リリアの視線に気づいて、えへへ、と照れ臭そうに笑う。
「それじゃあ、朝ごはん、作るね。リリアちゃんは、そこで、私のこと、見ててくれる?」
「(こくこく!)はい! 特等席で、拝見しておりますわ!」
リリアは、ソファの上で体育座りのように膝を抱え、完璧な「見守り」の体勢に入った。
その瞬間、キッチンの空気が変わった。
みるくが、巨大な冷蔵庫(昨日リリアが適当に発注し、今朝詩乃が中身を完璧に満たしていた)を開け、手際良く食材を取り出していく。
卵、ベーコン、牛乳、ベビーリーフ、トマト。
トトトトトト…!
静かなリビングに響き渡る、小気味よい包丁の音。
桜庭みるくが、トマトとベーコンを、まるで機械のように正確な速度で刻んでいく。
その流れるような所作。リリアが性能も知らずに揃えた最高級の調理器具たちを、みるく、まるで長年使い込んだ自分の手足のように、完璧に使いこなしていた。
(すごい…)
リリアは、完全に魅入られていた。
「甘やかす」という行為が、みるくにとってどれほど自然なことか。その行為を支えるあらゆるスキルを高いレベルで持つことすら、みるくには特筆すべきことではないのだ。
その「家事万能」という強みが、この「甘やかしキッチン」で、今、120%解放されている。
やがて、みるくは卵をボウルに割り入れ、牛乳と塩胡椒を加えてかき混ぜる。
リリアが発注した、熱伝導率が異常に高い(そして重い)銅製のフライパンが、IHコンロの上で熱せられる。
バターが、ジュワ、と音を立てて溶けた。
「リリアちゃん、見てて」
みるくが、卵液をフライパンに流し込む。
数秒。
みるくは、フライパンの柄を叩きながら、二本の菜箸で、信じられない速度で卵をまとめていく。
完璧な、マシュルーム入りとろとろの半熟オムレツが、フライパンの上で踊るように形作られていく。
「わ、わあ…!」
リリアは、思わずソファからずり落ちそうになった。
みるくは、それを、昨日二人で選んだ「いつもの」白いお皿に、ことん、と滑らせる。
ベーコンとトマトのソースがかけられ、ベビーリーフが添えられる。
まるで、ホテルの朝食だった。
「はい、お待たせ。まずはリリアちゃんの分ね」
「わ、わたくしの…」
リリアは、ローテーブルの前に正座し、その一皿を敬虔な気持ちで受け取った。
立ちのぼる湯気と、バターの香り。
「(ごくり)…すごい、ですわ。お店のより、美味しそう…」
「あはは、大袈裟だなぁ。でも、心を込めて作ったよ。…あ、そうだ。昨日のスープも洋風に味付け直して温めたから」
みるくは、自分のオムレツも手早く作ると、二人分の温かいスープを運び、リリアの隣に座った。
「はい、召し上がれ」
リリアは、スプーンでオムレツを一口、運んだ。
(……!!)
幸福が、口の中で爆発した。
完璧な火加減。優しいミルクの甘み。マシュルームと香り、ベーコンの塩気とトマトの酸味が、とろとろの卵と絡み合って、リリアの舌を麻痺させる。
「(目を閉じて、陶然と)はあ…おいし、い…」
「お口にあったみたいで、よかった」
「みるくさんの料理大好きです…! 毎日、食べたいですわ…!」
「ほんと?うれしい!」
みるくは、リリアの食べっぷりを、まるで愛しいペットを見つめるように、優しい目で見守っている。
「毎日作るよ。リリアちゃんが喜ぶなら」
「ああ、そんな…」
「リリアちゃんが、私の料理でそんなに幸せそうな顔をしてくれるなら、私は、いくらでも頑張れちゃう」
「(かぁっ)…そ、そんな顔、してましたか…?」
「うん。世界一、幸せそうな顔。私、この笑顔のために生きていくんだ」
みるくは、リリアの口元についたソースを、自分の指でそっと拭って、それを、ぺろり、と舐めた。
「(!!)み、みるく、さん!」
「(にこっ)…ねえ、リリアちゃん」
「は、はい」
「リリアちゃんが私の料理を毎日食べてくれたら、私、多分、喜びすぎて困っちゃうかも」
「(むぅ)…それは、わたくしのセリフですわ」
リリアは、スプーンを置いて、みるくに向き直った。
リリア:「みるくさんが毎日こんな美味しいものを作るなら、わたくし、きっと喜びすぎて困りますわ!」
二人は、顔を見合わせて、同時に吹き出した。
「あははっ」
「ふふふっ」
二人の「朝の幸福」が、この瞬間に標準化された。
リリアはインフラを整え、みるくは生活を彩る。
この甘やかしキッチンで生み出される幸福が、二人の日常のベースラインになった。
(ああ、なんてこと…)
リリアは、オムレツの最後の一口を名残惜しそうに食べながら、思った。
(わたくし、この人を、絶対に外に出したくありませんわ…)
結局、この日(日曜日)は一日中、リリアから好きな食べものをみるくが聞き出し、それを片っ端から作って試食することで過ぎていった。
もちろん「ご馳走せめ」以外の甘やかしも存分に。
撫でられまくったリリアが悶絶しながら
「みるくさんの手は、お料理のように甘いですわ」
とつぶやいたのがクライマックスとなった
***
そして、次の日。
「さ、食べたら、歯磨いて。学校、行かないとね」
みるくが、現実的な言葉を口にする。
そうだった。
土曜に引っ越し、日曜一日を片付けと甘やかしで溶かし、ルームシェア後、今日が初めての登校日。
二人の、ルームシェア生活からの、初めての「登校」が始まる。
この完璧な生活リズムが、学校という「外界」と、どう繋がっていくのだろうか。
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