第6話 初夜、安心の形
初めての夜。
引っ越しという名の祝祭を終えた部屋は、柔らかな間接照明の光に満たされていた。
リリアは、みるくが真新しいキッチンで手早く作ってくれた、具だくさんの温かいスープ(と、詩乃が置いていった最高級のパン)で夕食を済ませ、今は、これまた真新しいバスルームで、一番風呂の恩恵に浴していた。
(……夢、のようですわ)
広いバスタブに満たされた湯は、自動で適温に保たれている。リリアの家の風呂と遜色ない、完璧なインフラ。
だが、決定的に違うのは、バスルームの扉一枚隔てた向こうに、みるくがいるという事実だ。
さっき、みるくは「私、リリアちゃんが上がったら入るね。お風呂上がりのリリアちゃんを撫でる係だから」などと、とんでもないことを宣言していた。
(撫でる、係……)
リリアの感情は、期待で飽和状態だった。
この「初夜」は、二人の関係性を決定づける夜だ。
葛藤など、一ミリもない。
あるのは、この人を手に入れたという圧倒的な幸福感と、これから始まる「甘やかしルーティン」への、陶酔的な期待だけだ。
風呂から上がり、詩乃が用意していた上質なシルクのパジャマ(もちろんみるくの分もある)に着替えたリリアがリビングに戻ると、みるくがソファで待っていた。
「あ、お待たせしましたわ」
「おかえり、リリアちゃん。髪、濡れてる」
みるくは、ごく自然に立ち上がると、リリアを手招きした。
「こっちおいで。乾かしてあげる」
「えっ!?」
「いいから、いいから。はい、ソファに座って」
リリアが、言われるがままに座ると、みるくがソファの背後に回った。
みるくは、リリアの肩に優しくタオルをかけると、新しいドライヤー(もちろん最高級品だ)のスイッチを入れた。
ゴォー、という温かい風の音。
そして、リリアの髪に、みるくの柔らかい指が差し入れられた。
「……っ!」
指が、地肌を優しくマッサージするように、髪の根元をほぐしていく。
その感覚だけで、リリアの全身から力が抜けていく。
熱い風が髪を乾かし、みるくの指がリリアの意識を溶かしていく。
(だめ…こんなの、だめですわ…)
(気持ちよすぎて、このまま眠ってしまいそう…)
「はい、おしまい」
やがて風が止み、みるくの手が、乾いたリリアの髪を、まるで宝物を扱うかのように優しく
「リリアちゃんの髪、本当に綺麗…。サラサラで、ずっと触ってたい」
「…みるくさんの手が、気持ちよすぎました」
リリアは、振り返りたい衝動を必死でこらえながら、かろうじてそれだけ答えた。
「じゃあ、私もお風呂、入ってきちゃうね。リリアちゃん、先にベッド行ってていいよ」
「! は、はい…!」
みるくがバスルームに向かう。
一人残されたリリアは、ようやく、自分が今夜、どこで眠るのかという、最大の事実に直面した。
寝室。
あの、キングサイズのベッド。
***
寝室に入ると、そこはすでに完璧な「眠るための空間」になっていた。
間接照明が、部屋を優しく照らしている。
そして、中央には、あのキングサイズのベッドが、二人を待っていた。
(……ここに、みるくさんと)
リリアは、ベッドの端に、そっと腰掛けた。
最高級のマットレスは、リリアの小さな体を優しく受け止める。
だが、広すぎた。
一人で眠るには、あまりにも。
(わたくし、ずっと一人で眠るのが、苦手でした)
(あの広い家で、いつも何かに怯えていた…)
(だから、詩乃に、眠るまで手を握っていてもらったことも…)
そんなことを考えていると、扉が静かに開いた。
お風呂上がりの、みるくだった。
リリアと同じシルクのパジャマを着て、ゆるふわのボブをタオルで優しく拭きながら。
「あ、ごめん、お待たせ。リリアちゃん、寒くなかった?」
「だ、大丈夫ですわ…」
みるくは、リリアの隣に、そっと腰掛けた。
ふわり、と、お風呂上がりの石鹸の匂いと、みるく自身の甘い匂いが、リリアの鼻腔をくすぐる。
「…広いね、このベッド」
「…はい。広すぎ、ますわ」
「(くすくす)リリアちゃん、もしかして、一人で眠るの、寂しい人?」
図星だった。リリアは、顔を赤らめて俯く。
「……苦手、です。いつも、誰かの体温がないと、不安で…」
「そっか。…じゃあ、ちょうどよかった」
みるくは、ベッドの真ん中あたりに移動すると、高級な羽毛布団をめくった。
「私も、リリアちゃんがいないと、もう眠れないかも」
「(見上げて)……みるくさん」
リリアは、ベッドの端に座ったまま、動けずにいた。
みるくは、そんなリリアを見て、優しく微笑むと、自分の腕をぽんぽん、と叩いた。
「リリアちゃん。寒いから、早くお布団おいで」
「(ごくり)…あの、みるくさん」
「ん?」
「わたくし…」
リリアは、震える声で、ずっと言いたかった一言を、口にした。
「お胸、貸してもらえますか?」
みるくの目が、一瞬、驚きに見開かれた。
だが、次の瞬間、それは、この世の全てを包み込むような、慈愛に満ちた笑顔に変わった。
「(とろけるような笑顔で)…もちろん。おいで」
リリアは、まるで磁石に吸い寄せられるように、ベッドの中にもぐりこんだ。
そして、みるくの開かれた腕の中へと、まっすぐに飛び込んだ。
みるくは、その小さな体を、待っていましたとばかりに、豊満な胸と柔らかい腕で、しっかりと抱きしめた。
「!……あったかい」
みるくが先に、リリアの頭を抱きしめるようにして、呟いた。
(……ああ)
リリアは、息を、止めた。
違う。
息の仕方を、忘れた。
(あたたかい…やわらかい…いい匂い…)
みるくの水風船のようでマシュマロのような胸が、リリアの頬を優しく圧迫する。
みるくの呼吸に合わせて、体がゆっくりと上下する。
みるくの体温が、パジャマ越しに、リリアの全身を包み込む。
リリアがずっと求めていた、完璧な「安心感」の象徴。
みるくはリリアを撫でながら、
「…どう? 落ち着く?」
「(顔をうずめたまま、くぐもった声で)…はい…」
リリアは、自分の腕を、みるくの腰にそっと回した。
「…みるくさんの、腕の中…」
「うん」
「……天国です……」
もう、これ以上、言葉は必要なかった。
リリアの全身から、ここ数年、いや、生まれてからずっと溜め込んでいた「緊張」という名の毒素が、全て抜けていく感覚。
完全安堵。
(もう、どこにも行かなくていい)
(もう、何も恐れなくていい)
(ここが、わたくしの帰る場所…)
「ふふ。リリアちゃん、体温高いね。湯たんぽみたい」
「…みるくさんといると、暖かくなるんですわ…」
「そっか。おやすみ、リリアちゃん。いい夢を」
「…おやすみなさい、まし…。みる、く…」
リリアの意識は、そこで、ぷつり、と途切れた。
生まれて初めての、何の不安もない、完璧な幸福感に包まれたまま。
みるくの規則正しい呼吸の音を、世界で一番優しい子守唄にして、リリアは深い、深い、甘い眠りに落ちた。
二人の「甘やかしルーティン」が、今、確かに固定化された。
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