第2話 直感距離ゼロ
授業が、終わらない。
いや、正確には、始まって、終わって、また始まって、を繰り返している。
だが、立花リリアの意識は、そのほとんどを隣の席の存在――桜庭みるくに奪われていた。
(…いい、匂い…です)
意識が朦朧とする。
隣から漂ってくる、あの陽だまりとミルクが混ざったような感覚。それはもはや「匂い」というより「気配」であり、「オーラ」であり、リリアの全存在を芯から安心させる「揺り籠」だった。
ホームルームが終わった後、みるくは「休み時間、またお話ししよっか」と微笑み、リリアは頷くことしかできなかった。
今も、みるくは真面目にノートを取っている。その、ゆるふわのボブヘアーが、板書を書き写すたびに、さらり、と揺れる。
その揺れる髪の動きすら、リリアの「甘えたい」という本能を刺激する。
(あんなに柔らかそうな髪……撫でてみたい、ですわ)
(いいえ、それよりも、あの豊かな胸に顔を埋めて、わたくしが撫でられたい…)
そんな感情の暴走が、リリアの完璧なお人形めいた表情の下で、激しく渦巻いていた。
数学教師の退屈な声も、窓の外の喧騒も、何もかもが遠い。
ただ、隣の体温だけがリアルだった。
不意に、みるくが消しゴムを落とした。
コロコロ、と転がり、二人の机の間に落ちる。
「あ」
みるくが小さく声を上げ、リリアも同時に反応した。
二人が同時に身を屈め、床に落ちた消しゴムに手を伸ばす。
――指が、触れた。
「!」
「あ…!」
みるくの、柔らかく、暖かい指先。リリアの、雪のように白く、少し冷たい指先。
その一瞬の接触。
まるで高圧電流が流れたかのように、リリアの背筋が震えた。
熱い。
いや、物理的な温度ではない。みるくから流れ込んでくる「包容力」の熱量が、リリアの肌から染み渡り、全身を駆け巡る。体温が2度あがる。
「ご、ごめんなさい…」
「ううん、こちらこそ。ありがとう、立花さん」
みるくは、ごく自然に消しゴムを受け取ると、リリアの指先にわざと触れるようにして、そっと微笑んだ。
リリアは、火傷をしたかのように慌てて手を引っこめた。
心臓が、耳元で鳴っている。
(……だめですわ。もう、だめ)
(この人のそばにいると、わたくしの理性が、いいえ、心身が溶けてしまう…)
好奇心というレベルはとうに超えていた。
これは、もっと根源的な「渇望」だ。
***
昼休みを告げるチャイムが鳴る。
周囲の生徒たちが一斉に弁当を広げたり、食堂へと駆け出していく。
リリアも、家が用意した豪勢なランチボックスを取り出そうとして…手が止まった。
隣で、みるくが鞄から取り出したものを見たからだ。
それは、信じられないほど分厚い、タマゴサンドだった。
ふわふわのパンに、今にも溢れ出しそうなほどの卵フィリング。
「わあ…」
リリアは、思わず感嘆の声を漏らしていた。
「あ、これ? ちょっと作りすぎちゃって」
みるくは、てへ、と笑うと、二段重ねの弁当箱のもう片方を開けた。
そこには、リリアが今見たものと全く同じタマゴサンドが、もうワンセット入っていた。
「あの…桜庭さん」
「ん? なあに、立花さん」
「それは……お二人分、ですの?」
「ううん、私一人分だけど…。あ、でも、よかったら」
みるくは弁当箱を差し出した。
「よかったら、立花さん、食べる? 私、人に食べてもらうの大好きで」
「えっ!? で、ですが、わたくしもお弁当が……」
「いいのいいの。一口だけでも。ね?」
有無を言わさぬ、しかし絶対に拒絶したくないと感じさせる、包み込まれるような圧。
みるくは、真新しい割り箸で、その分厚いタマゴサンドの一切れを掴むと、
「はい、あーん」
と、ごく自然にリリアの口元に差し出した。
「え、え? あ、あーん、ですの…!?」
教室のど真ん中で。
リリアは羞恥で顔を赤らめたが、それ以上に、目の前の「甘やかし」の権化から逃れる術を知らなかった。
(こんなの、だれだって、こうする以外にありません)
おそるおそる口を開けると、みるくは嬉しそうに、その一切れをリリアの口に滑り込ませた。
(!……おいし、い……)
素朴であるにもかかわらず、傑出した味わい、とでも言うべきか。
優しい出汁の味。マヨネーズのまろやかな酸味。パンの甘み。
それらが完璧に調和して、リリアの舌を幸福で満たしていく。
(この人は作る料理まで、こうなのですか!)
「‥…とても、美味しい、ですわ…」
「よかったぁ! 立花さん、美味しそうに食べるね。見てるこっちが幸せになっちゃう」
(かわいいと言われたことはある。きれいと褒められることも。でも、こんな褒め言葉、生まれて初めてです)
「桜庭さんは……本当に、お世話が、お好き、ですのね…」
「うん。大好き。誰かが私の作ったもので喜んでくれたり、私に甘えてくれたりすると、すっごく嬉しくなるの。だから、立花さんみたいな子、もう…ドンピシャっていうか」
「ど、どんぴしゃ…」
「あ、ごめん、言葉遣いが。えっとね、立花さんって、可愛がりたいというか、すごく甘やかしてあげたくなるオーラが出てる。だから、私、今すごく楽しい!」
みるくは、自分の分のタマゴサンドを幸せそうに頬張りながら、リリアを熱く見つめる。
その視線は、もはや「クラスメイト」に向けるものではない。
愛しいペットや、あるいは、自分だけの大切な宝物を見つめるような、独占欲すら含んだ優しさだった。
リリアは、その視線に射貫かれて、確信した。
この人は、わたくしが求めていた「すべて」だと。
***
放課後。
約束通り、二人は連れ立って校門を出た。
リリアは家の者が迎えに来る手筈になっていたが、今日はどうしても、みるくと二人きりになりたくて、先ほどメイドの
「どこのカフェにしようか」
高校入学組のみるくは、内部進学者のリリアに尋ねた。
「わたくし、あまりこの辺りのお店を知らなくて…」
リリアは通常、学校まで家の者が送り迎えに来るので、学校周辺の店には明るくない。申し訳ない気持ちになったが、みるくは全く気にしていないようだ。
「じゃあ、私のおすすめのところ、行かない? ちょっと歩くけど、すっごく落ち着くお店があるんだ」
「はい! ぜひ!」
二人が並んで歩く。
春の午後の陽光が、二人の象徴としての影を、アスファルトの上に長く伸ばす。
最初は少し離れていた二つの影が、歩くうちに、自然と近づいていく。
リリアがみるくのペースに合わせ、みるくがリリアの歩幅を気遣う。
やがて、二人の影は、まるで磁石に引かれるように、一つの濃い影に重なった。
物理的な距離も、ゼロに近づいていた。
リリアの肩と、みるくの腕が、触れ合うか触れ合わないかのギリギリの距離。
みるくの体温と、あの甘い匂いが、リリアのすぐそばにある。
リリアは、この距離感が永遠に続けばいいのに、と思ってしまう。
(いえ、むしろ、この腕に触れたい。今すぐすがりつきたい)
「…あの、桜庭さん」
「んー?」
カフェに向かう途中、大通りから一本入った、人通りの少ない道でのこと。
リリアは、勇気を出して、自分の心の声を口にした。
「なんだか…不思議ですわ。今朝、初めてお会いしたばかりなのに」
「うん。私もそう思ってた。もう、ずっと前から知ってたみたい」
「桜庭さんの隣にいると、とても心地よくて、それに安心できて……。だから、その……桜庭さんが隣にいない時間を想像したら……」
「うん」
「離れるとちょっと…寂しい、と、思ってしまいました」
言ってから、は、と我に返る。
いくらなんでも重すぎる。初対面の相手に何を言っているんだ。
だが、みるくは足を止めると、リリアの方に真っ直ぐに向き直った。
その顔は、困惑ではなく、喜びと共感に満ちていた。
「うれしい。私もそう」
「え…」
「私もね、授業中、立花さんのことばっかり気になっちゃってた。綺麗だな、とか、姿勢がいいな、とか、いい匂いがする、とか。でも、一番思ってたのは……」
みるくは、少しだけ言い淀んで、それから、最高の笑顔で言った。
「…ああ、そばにいてあげたいな、って。この子、私が甘やかさなきゃ、って。だから、リリアちゃんがそう思ってくれるの、すごく嬉しい」
「リリアちゃん」と、みるくは言った。
「みるく、さん…」
「…ねえ、リリアちゃん」
みるくは、リリアの制服の袖を、そっと指でつまんだ。甘えるような仕草で。
「もっと…一緒にいたいな」
「(こくこくこく)……はい! もっと、もっと、一緒に、いたいですわ…!」
「だよね。…困ったな」
「困る、のですか?」
「うん。だってもう、明日まで待てないかも。いっそ、このまま二人でどこかに住んじゃいたいくらい、リリアちゃんに惹かれてる」
(……住む?)
その言葉が、雷のようにリリアの心を撃ち抜いた。
同居
(なぜ、それを思いつかなかったのですの!?)
その概念が、突風のように、二人の間に浮上した。
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