黒瀬さんにも歴史あり




 深く聞かず、深く話さず、僕は仕事に戻り黒瀬さんはそんな僕にコーヒーのおかわりを注文した。


 それでも僕はコーヒーに全力で向き合う。妥協はしない。黒瀬さんがなんだか優しげに微笑んでいるのは気になるけれど、それも今は気にしないふりをして。


 豆の鮮度、焙煎、挽き方。湯の注ぎ方、膨らみに泡立ち、沈み方。蒸らし具合等々。こだわるポイントは多く、何度淹れてもその全てに意識を向けるのは難しい。だから向き合えば向き合うほど、次第に黒瀬さんが本当に意識の外に外れていく。


 飲んでくれる人のことを考えて、なんていうのはよく聞く話。それはとてもいいことだと思う。


 けれど不器用な僕には、未熟な僕には、今はこれが精いっぱいだ。


 差し出したコーヒーに同じくミルクを注いで、黒瀬さんはゆっくりと香りを楽しんだ後カップを傾ける。


 目を閉じて口の中に少しだけ留めて、小さく飲み下す。ため息一つ、微笑んだ。


「ぐっ」


 サムズアップ。なんかエモい雰囲気を醸し出してたから何を言うかと思えば、と苦笑い一つ、僕もサムズアップを返した。


 案外と言うくらいには早く、彼女はコーヒーを飲み終えた。


「さてじゃあ、私そろそろ帰るけど」

「あ、うん。ありがとうございました」

「気になるよね?」


 主語がないけれど、何のことかははっきりとわかる。黒瀬さんが、怪我の有無に関わらず大会に出ないと決めていた理由。


 僕の目から見ると、ぐるみもあやも十分な「上級者」だった。けれど二人は地区大会の「いいとこ」止まりで、当然ながら全国大会には出場経験はない。だからお世辞を抜きにして出場するだけでもすごいのはわかるし、であれば一回でも勝てている時点で相当な「上澄み」であることも。


 どれほどの努力を重ねたか。どれほどの時間を費やしたか。


 僕の迷うような沈黙を、素直には「うん」と言いづらいと判断したらしい。黒瀬さんは妥協案のように僕に言う。


「じゃあ、帰って気になるようなら電話して? もしくはチャットでも可。その場合私から掛けるから、結果的にはおんなじだけどね!」

「うん。気になったら電話するよ」


 スクールバッグを担いで立ち上がり、丁寧にカウンターチェアを戻して手を振った。店を出て扉を閉め、ガラス越しにまた手を振って。振り返した僕を確認してから、今度こそ黒瀬さんはセルジュを後にした。


 本当、ため息が出るくらいに可愛い。


「青春してるなぁ」

「眩しいねぇ」


 店長と常連さんがニヤニヤとこっちを見てるのは、まぁ、いい。



 その後帰ってからあやに色々と問い詰められたりごまかしたり、夕食をとってお風呂に入り、諸々のことを終わらせた午後八時。


 僕は迷っていた。気にはなる。そりゃあもちろん、黒瀬さんのことについて気にならないことの方が少ないくらいだ。


 でも、案の定というとちょっと違うかもしれないけれど、あやはその辺りの事情について知らないようだった。大会直前にも関わらず、出場しないことすらも。であれば当然、ぐるみだって知らないはずだ。


 親友二人を差し置いて、仲良くなって日も浅い僕に話すことなのかな? 僕は二人を差し置いてその全てを知ってしまってもいいんだろうか? ポロっと僕の口から二人に漏らしてしまうかもしれない。あるいはだからこそ・・・・・でもあるんだろうか?


 ぐるぐるぐるぐると思考が巡る。けれどもう一つ、重要な事実。


 夜、自室で女の子と電話をする。それがなんというか、照れ臭い。嬉しいのはもちろん、けれどやっぱり気後れする。


 高校生にもなって何を言ってるんだ、デートまでしているのに。そう言われれば反論のしようもないけれど、一対一の電話というものに何か特別感があるのは僕だけなんだろうか。


 迷ってる間も時間は過ぎる。ちくちくと刻む時計の音に気持ちが焦る。


 僕は開いたままのトープの、黒瀬さんのフレンド表示を眺めながら――通話ボタンを、恐る恐るタップした。


 呼び出し音は軽快な音楽。個別に変えることもできるらしいけれど、僕はデフォルトのまま。


 それが途切れると、一際大きく心臓が鳴った。


「きたきた、待ってたよー」

「うん、ちょっと緊張してた」

「だと思った。だいぶ私綾人くんの理解が深まってきた感がある」

「僕はいまだによくわかってないけど」

「わかる。私よくわかんないよねー」


 わかるなよ。


 それにしたって音が近い。声が近い。息遣い、衣擦れ、ちょっとした音を拾っては僕の耳に直接響かせる。


「で、かけてきたってことは、聞きたいってことだよね?」

「そうだね。聞きたい、けど」

「けど?」

「あやとかぐるみには、内緒にしといたほうがいい、んだよね?」

「うーん……まぁ、流れ次第、かな? 問い詰められたら、言っちゃってもいいよ?」

「……わかった」


 それならたぶん、僕は言わない。そしてたぶん、彼女はそれをわかって言っている。


 聞こえる身動ぎの音。届く吐息。黒瀬さんも準備をしてるんだとわかった。


「ちなみに今ベッドの上です」

「いらない情報だね?」

「なんかもやもやするだろう?」

「するけど」


 思春期男子をもてあそぶなと言いたい。


 そうしてひとしきり茶化した後、唐突に彼女の語りは始まった。


 さかのぼること十年前――え、そこから? というツッコミはなかったことにされた。


 両親に連れられて行ったテニスの試合。日本におけるトップクラスのツアーだったらしい。そこで彼女は一人の選手に魅入られて、テニスの道を志すことを決めた。


 父親は厳しいながらも「為になることは何でもやれ」というタイプらしく、そして抱いた夢は彼のお眼鏡に十分適うものだったようだ。母親は言わずもがなで、家に帰ってからはすぐにスクールへの参加を決めた。


 いわゆる週末テニス、のようなところじゃない。本気でプロを目指すような人たちが通う、ガチガチのところだ。


 週六日、一日三時間。大人でも音を上げたくなるようなきつい練習メニュー。怒声こそないものの、ミスや迷いに理詰めの詰問が飛ぶ。それもスクールだけじゃなく、彼女はプライベートでもテニスの練習、勉強に明け暮れた。


 元々才能もあったんだろう。黒瀬さんの実力はみるみる伸びて、大会で結果を出せるようになるのに長い時間はかからなかった。


 もちろん投げ出したくなる、逃げ出したくなるようなことも一度や二度じゃなかったらしいけど。投げ出したことも逃げ出したことも、一度たりともなかった。


 順風満帆、とまでは言えないまでも、順調なテニス生活。強豪校と言われる中学に上がり、いよいよもって本格化していくと――


 ――彼女は、「本物」と出会った。


「最初のワンゲームで、勝てない、って思った」


 そう語る黒瀬さんの口調は本当に淡々としたもので。僕はかける言葉すら見つからない。


 才能の違いを感じた。練習量の、その質の違いを感じた。思考力の違いを感じた。対応力の違いを感じた。


 才能と努力は比較されがちだけど、それらは別に対立する要素ではない。そんな当たり前の事実を突きつけられるくらいの。


 天才も当然に努力している。思考し、試行し、行動している。あるいは凡人よりもずっと高いレベルで、ずっと多くの時間をかけて。


「いやまいったよ、試合中なのに投げ出したくなるくらいだった。投げ出さなかったけど」


 それだけでも十分心が強い。僕だったら――僕だったら、どうだっただろう?


 ただもちろん、それで終わりにはならない。心が折れたわけじゃないなら、「次こそは」と心に決めてなお一層努力すべしと当時の黒瀬さんは決意した。


 もっと走り込んだ。もっとラケットを振った。もっとたくさんの情報を集め、もっと頭を使ってそれを整理した。自分にあるもの、変えるべきもの、伸ばすべきもの捨てるもの。


 それでも、二度目の敗北。同じ人に、けれど今度は少しだけスコアを伸ばして。


 ああ、ちゃんと伸びている。ちゃんと成長している。あるいはそれこそが心を削る。


 そんな中、黒瀬さんに転機が訪れる。父親の仕事の都合で、どうやら引っ越すことになるらしい、という話。そして両親は、彼女の意思を確認したいという。つまりどこか強豪校の寮であるとかその近辺で一人暮らしをするか、両親について引っ越すか。――弱小でしかない、不便な田舎町の高校への編入を、受け入れるかどうか。


「振り返ってみると、もうその時点で心折れかけだったんだなーって」

「……そっか」

「その時はもちろん違ったよ? どんな場所だろうと必死に練習すれば、とか、環境は言い訳にならない、とか、考えたつもりになって」


 ああ、その声色でわかってしまう。彼女がもはやその人・・・に勝つことを諦めてしまっていると。自分にはこれ以上・・・・はないのだと思い知ってしまったのだと。


 引っ越しを決め、色々と部内でもめ事はありつつもこうして葛木町に越してきた黒瀬さん。地域規模で見ても、全国へのハードルは元の場所よりずっと低い。


 一年にしてインターハイ出場を決めた黒瀬さんは、宿命の対決とも言うべき相手と、二回戦で当たることになった。


 モノ・・が違うと感じた子ではない。前の学校の、ライバルとも言うべき子。実力伯仲、誰よりも一緒にテニスをしてきたと言い切ることのできた・・・、あるいは前の学校における「親友枠」。


 結果は八ゲーム先取ルールで八対四。


「中学時代から、退化してた。ううん、成長してなかった、の方が合ってるかな」


 そしてそれを受け入れたかのような淡々とした声。吐息が耳にかかった。


「考えてもみてよ。本当に勝ちたいって思ったらね、強豪校以外に選択肢なんてなかったの。環境が違うし、競争相手も違う。指導者も違う。でも私は葛木高校を選んだの。そんで、「楽しい」って思っちゃった。その時点でもう、あっちからしたら「降りてる」って感じだっただろーなー」

「そう、かな」

「もちろん何も言われなかったよ。がっかりしたとか、怒られたりも。でも、喜んでた。「どーだ!」って、めっちゃいい笑顔されちゃった。あれは可愛かったなー」

「それで、折れちゃった?」

「ううん。そうじゃなくて、私、悔しくなかったんだよ」

「あ……」


 それこそ漫画とかでよく見る話だ。負けて悔しがれない、それが悔しい。そこからそのキャラクターは、どうやって立ち直るんだったっけ? ……思い出そうとして、思い出せなかった。


 何より黒瀬さんは漫画のキャラクターじゃない。いくらリアリティのある作品であってもそれはリアルじゃない。黒瀬さんじゃない。


「で、色々振り返ってみると、私ってホントテニスしかなかったんだよね」

「うん」

「前の学校の友達とランチとか行ってさ、雑談とか言って、何話すと思う?」

「……なんだろ」


 本当はわかってる。


「テニスの話なの。びっくりするよね」

「本当、一筋だったんだ」

「そ。一筋だったの。なのに悔しくないってなったら、もうなんかわかんなくなっちゃって」

「で、テンションおかしくなってたんだ」

「そーなの。らしくないこともしちゃってさー」


 だから、黒瀬さんは「平井」という先輩に手を差し伸べた。わかってしまったから。


 人生を捧げてきたものが実らないと知った時、完全にそれを捨てることができず、他に利用できないだろうか。「平井」にとってそれが「モテ」だったように。


 そして黒瀬さんは。


「確かめたかった、みたいな?」

「うーん。言われてみると確かに、それもあったかも。あの人が戻れたら、私も戻れるかも、みたいな気持ちも、まー言われてみれば?」

「……ごめん、なんか」

「ううん。ってーことはつまり……そーいうこと、なんだよね」


 戻りたい気持ちがほんの少しでも残っていなければ、そんな発想は生まれない。


「元々テニス辞めるつもりはなかったよ。部活もね。でも今の「楽しいテニス」が私には合ってるのかなーって、もう思っちゃった時点で……」

「誰でも」

「うん?」


 遮るような僕の言葉は咎められることなく、黒瀬さんはその続きを静かに待ってくれている。ゆっくりと穏やかな吐息。小さく衣擦れの音が聞こえる。


「僕も、ずっとコーヒーのことばかり考えてるわけじゃないよ」


 比べることすらおこがましい、僕の「努力」。それしかなかった。


「それでも、憧れの人・・・・に「おいしい」って言ってもらえた」

「……ほぉ」


 また身動ぎの音。「憧れの人」に反応して、でもそれが自分だとは思ってないんだろうなぁ。


「それ以来、もっと頑張りたいって思った。だからその、つまり」

「……うん。大丈夫。伝わってる伝わってる」


 自分でもまだ言葉の整理がついていないんだけど、まぁ、それならいいか。黒瀬さんが電話越しに何かを飲む。「ぷはー」と豪快に息をつけば、なんだか耳に当たるようでくすぐったい。ぞわぞわする。


 これで話は終わり。用事は済んで、なんとなくひと段落の空気感。電話をかけた時の「ドキドキ感」はだいぶ落ち着いたけれど、やっぱり声は近くて音を感じる。


 言葉はなく、けれどなんとなく通話を切る雰囲気でもない。


「ちなみに」

「ちなみに?」

「どうして、僕に?」

「正直に言おう。いい意味で、って感じで聞いて欲しい」


 それは、ネガティブな前置きだと思う。なんとなく緊張する僕の耳に、くすぐるような淡い声。



「近くて遠い人、だからかな」



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