~プロローグ~

日本某所。島国の中に在るある離島に在住する1人の男子高校生がいた。黒髪に黒目、中肉中背で顔つきもいたって平凡だ。成績は普通、運動神経は悪いが・・・それは、右足に取り付けてある『義足』が原因で——決して運動が苦手なわけではない。


「ありがとうございました!」

「また来るぞぃ!」


 バイト先の小さな商店でレジ打ちの仕事をしつつ、顔なじみのお爺さんを笑顔で見送り——漸く忙しかった時間帯を乗り越えた時だった。店の奥から年配の女性が顔を出し、レジ打ちをしていた男子に声を掛けた。


「空ちゃん。今日はもう店を閉めるから——上がって良いわよ」

「わかりました!じゃあ、何時もの奴、手早く会計しちゃいますね!」


 空と呼ばれた男子が嬉しそうにレジを離れ、店の奥に陳列してあった弁当を3つ選び、カゴに入れてレジへと向かう。懐からレモンマークのスマホを取り出し、決済アプリを使用して手早く買い物を済ませる。


「何時も済まないねぇ。破棄予定のお弁当を買ってくれて、助かっているよ!」

「おばちゃんの作る弁当は何時も美味しいから、助かっているのは僕の方だよ」


 リュックに3つの弁当を仕舞い、店内の清掃を軽く終えた空は、そのまま店主の女性に頭を下げて——この日のバイトを終えた。

 外は夕日が海岸線に沈み始めた時間帯。夏のジメジメとした熱気に顔を顰めつつ、店の裏に止めて置いた自伝者に跨る。島に3つ在る商店の周囲は街路灯も多く、そこまで困る事は無いが——折角の弁当が暑さでダメになるのは防ぎたい。仕方なく右脚の義足にあるダイヤルを回し、運動時用の状態に設定を変え・・・空は全速力で家に帰ったのであった・・・。


☆★☆


 築40年。2階建ての木造アパート。間取りは6畳1間。家賃2万円という都内では考えられない程の低価格の一室に帰宅した空は、荒い息を整えつつ——急いで部屋のエアコンを起動し、冷蔵庫へダッシュ。リュックを開けて弁当を全て仕舞い・・・一息を吐いた。

 汗だくになった身体が水分を欲している。先程まで無人だった部屋は、サウナの様に暑くなっておりとてもでは無いが長居はできない。


「風呂入るか・・・」


 汗で滑りやすくなった義足を動かし、キッチンに備え付けてある引き出しの取手を掴み、片足でバランスを取りながら何とか立ち上がる。着替えを取り洗面所に向かい、汗に濡れたシャツを脱いで義足を固定している革製のベルトを緩め、大腿を持ち上げでゆっくりと義足を外す。

 洗面台の上に置いてある除菌シートと乾いた手拭いを引っ掴み、汗や埃で汚れた義足を丁寧に拭いた後、タライにぬるま湯を張り中性洗剤で手洗い。松葉杖を持って、家の中で比較的に涼しい廊下のクローゼットに立て掛けて干し、ズボンと下着を脱いで洗濯にかけ——お風呂に入った。


「ふぅ・・・今日は一際暑かったなぁ」


 空の住む離島は、海に囲われており日中の最高気温は32度とやや低い。半年前まで住んでいた都心では、40度近い気温が連日続いている事が多く、離島よりも酷暑だ。

離島の方が自然溢れ、過ごしやすい環境であるのは間違いないのだが、やはり徒歩数分でコンビニや公共交通機関を利用出来る、という環境に慣れ親しんでいる空にとって、まだまだ島の環境には馴染そうも無い。


「半年か・・・。孤児院のみんなは元気かな?」


 半年前まで過ごしていた、八重桜の木が目印の孤児院。近年の異常気象により、稀に見る大雪が関東地方で降り、学校からの帰宅途中に雪道で制御不能になった自動車事故に巻き込まれて右脚を失った。中学3年の受験シーズンを病室で過ごした日々が、今も鮮明に記憶に残っている。

 世間では未知の病原菌による世界的なパンデミックが起こり、更には大国と隣接する国が戦争を始め——日に日に物価が上がっているらしい。義足を嵌める生活に戸惑い、片足の膝から下を喪失した哀しみに暮れるまもなく、義務教育の終了と共に孤児院を強制的に追い出され、空本人が預かり知らぬままに勝手に離島へと移住手続きが行われていた。

その離島で静養しつつ義足の生活に慣れてもらいながら、政府の推し進める『電脳空間型就学制度』を利用し、都内の新学校へと1ヶ月遅れで入学し早2ヶ月。

漸く授業の内容を理解し始め、来月の始めにある中間試験に向けて勉強を頑張っている空は、手早く全身を洗い、タオルで水気を拭き取った後——着替えてリビングへと戻った。

6畳1間のリビングには『全身投影型電脳空間箱』なる一台の箱が鎮座している。空は長いので『電脳箱』と呼んでいるが、幅、高さ2メートル、長さ3メートルの長方形の箱は幾つもの電源コードが刺さっており、停電時でも問題なく使える様にとアタッシュケース程の非常用バッテリーが付属されている。

 部屋の内装は至ってシンプル。セミダブルのベッドが1つ、1人掛けのソファと、長方形のつテーブル兼机が1つ、12インチの壁掛けTVが1台、壁面のクローゼット。窓は南向きに1つ存在し、カーテンは年代を感じさせる、くすんだ灰色のドレープカーテンだ。今は締め切られ洗濯物がカーテンレールに幾つも掛かっている。


「今日の宿題——結構量が多かったっけ。さっさと弁当食べて『いつもの場所』で勉強しないと・・・」


冷蔵庫から、持って帰って来たばかりの弁当を1つ取り出し、レンジに入れて手早く温めながら、電脳空間の箱に近づき電源を入れる。重低音が鳴り、青白い光が箱の縁を駆け巡るのを確認して窓際に干してある洗濯物の乾燥具合を確認。まだ少し湿っていたので、勉強が終わった夜にでも取り込めば良いと考えつつ・・・温め終わったレンジから弁当を取り出して、少し早い夕食を平らげたのであった。


◆◇◆


 意識が浮上する感覚。水面に虚脱した状態で漂う独特の感覚を感じた後——空の意識が覚醒する。目を開くと、そこは漸く見慣れつつある学校の校庭が広がっていた。等間隔に植えられた高木が敷地を囲い、広い土の校庭にはサッカー部の部員達が部活に忙しんでいる。振り返れば純白の校舎が目に飛び込んでくる。

 視界の右上に現在の時刻を知らせる17時55分という表示と、現在地を示す校舎入り口前の文字。右上には簡素な校舎内の地図が円形に表示されている。


「——急がないと」


ハッとした空が慌てて校舎に入り、『いつもの場所』に向けて走り出した。右脚を失ってから感じることはなかった、地を蹴る感覚を懐かしみ、乱れることのない息に戸惑いながら・・・階段を駆け上り、最上階に辿り着く。廊下を3度曲がり、辿り着いたのは『図書室』と書かれたプレートが表示された一室だった。


「交代の時間です」

「——チッ。やっと来たか。異常なしだ。俺はもう行くぜ」


空が通う『東京都立高等学校』は、優秀な生徒が幾人も在籍していた名門校である。在校生は684人。空と同じ『電脳科』に所属する300人と、生身の人間384人が通っている。偏差値が高く、全生徒には何らかの委員会や部活動に属さなければならないという、厳しい校則がある。

 苛々した様子の男子生徒を見送り、誰もいなくなった図書室は、夕焼けの光に照らされて——とても静かな空間となった。図書室という名目ではあるが——室内には、パイプ椅子と5人掛けの長机の上に、20台のタブレットが規則正しく並んでいるだけの殺風景な部屋だ。目隠し用の衝立も無く、見通しの良い室内に空ひとり。


「さて——今日の分の宿題をとっとと終わらせよう」


図書委員として活動している空の担当時間は18時から閉校する19時までの1時間。委員会に所属してかれこれ2か月経過するも、利用者が1人も居ないのではないかと思う程に、無人である。空はこの時間を勉学に勤しむ為の時間として活用し、退屈する事は無いが——どうやら、他の委員会に所属している生徒は違う様だ。大半がサボる為に私物を持ち込み、暇をつぶしている生徒達ばかりだった。

そんな中——空は『全国高校無償化制度』が導入された初年度の学生にして、日本全国で唯一の『電脳科』が導入された高等学校に通うという、とても珍しい学生の1人だ。中学校までの授業内容よりも、遥かに難しい授業と宿題量の多さに日々格闘しつつ——本日受けた、授業内容を含め過去2か月分に渡る、全ての授業をタブレット端末から『アーカイブ配信』にて見直し、授業内容に追い付いたのは、つい2日前の事だ。


『努力は報われない事の方が多い。されど身に付けた知識や技術は、決して無駄にはならない。最後まで努力し続ければ、いつか自分の力となって必ず帰ってくる』


 脳裏をよぎるのは、孤児院で保母をしていた女性の言葉。様々な職種に就き、10以上にも及ぶ資格を持った妙齢の女性が孤児院に在籍していた子供達に、口を酸っぱくして言い続けていた言葉だ。


「良い環境だし——しっかりと成績を残さないと」


 通学する必要が無く、日本全国の高校の中でも——特に進学校として有名な高校に入学したのだ。良い成績を納め、将来の生活を安定させる為にも・・・今の内から頑張らなければならない。国の補助制度だって高校卒業までという期限がある。良い成績を残し、少しでも条件の良い会社に勤める為に——努力を怠らないようにしなくてはいけないのだ。


(とは言え——離島の中じゃ同世代の人はいないし、住んでいるアパートは僕1人だ。大家さんの御厚意で卒業後もそのまま賃貸し続けられるし、住むところに困らないのはありがたいな)


 現代国語、地理歴史学、数学1・Aの3科目の宿題を終える事には——閉校時間が間近に迫りつつあった。


「『脳波測定検査』は今日の閉校後だっけ。遅れないようにしないと・・・」


『電脳科』として通学する空は、2日に1度『電脳世界』での体調報告を行い、脳波を計測する時間が設けられている。それは空以外の『電脳科』の生徒全員が必ず行わなければならない検査があった。『全身投影型電脳空間箱』の試験運用を兼ねた、この日本初の試みは——肉体的や精神的に重い障害を抱える子供達や、家庭の事情により通学が出来ない、遠方に住む子供達を対象に開かれた制度だ。

 機材の補助は国が出すとはいえ、負担額は一般家庭には重すぎる金額だ。高校無償化制度で入学金や授業料が無料になった事で、わざわざ高い機械を導入してまで高校に通うという選択肢は無い家庭が殆どだった。

よって『電脳科』に通う『殆ど』の生徒は、空の様に重度の障害を抱えた子供達が利用する制度として、世間に認識されつつある。その為——学校内での扱いは、どこか腫れ物に触るかのような恐々とした扱いを受けている。


「最後に見直しをして——よし。問題は無し。うわ、時間が後少ししかない!体育館に急がないと!」


 軽く見回りを終え、全てのタブレットの電源を落とし——宿題を全て鞄に詰める。消灯ボタンを押し、閉校を告げるチャイム音を聞きながら・・・空は体育館に向けて、再び全力疾走をしたのであった・・・。


☆★☆


「間に合った——」


 体育館に到着後、直ぐに列を成している生徒達の最後尾に並ぶ空。息が切れる心配はないという事と、右足の違和感に未だ慣れはしないが、この空間でなら五体満足で過ごす事が出来るという喜びに浸れる。

現実に戻った時の不自由な生活に不満が無い訳ではないが、身体を自由に動かせるという『当たり前』が、如何に大切なのか学びをくれる機械でもあるのだ。


「次!1年1組。『斎藤麗華』」

「はい」


 その名が呼ばれた瞬間——少しだけ騒がしかった体育館が、シンと静まり返った。涼やかな鈴の音をそのまま声にした様な、1人の少女が堂々たる足取りで教員に向かって歩みを進めていく。

 腰にまで届く長い黒髪、180センチはあろうかという高身長の少女は、姿勢をピンと正し、無駄のない足運びで歩いている。14歳で剣道の初段を取得し、昨年末に2段に段位が上がったという世間の噂は、どうやら本当の様だ。


(あれが——『斎藤財閥』の御令嬢。本物は初めて見るけど・・・電脳世界であっても尚、綺麗なんだな)


 日本を代表する『斎藤財閥』。古くは不動産業から始まり、3代に渡り当主を交代しつつも、着実に実績を伸ばし銀行業を開設。その後事業の幅を広げ、大手スーパーマーケットや自動車産業の筆頭株主も務め、日本国内に於いてその名を知らない者は居ないと称される財閥。

 その財閥の箱入り娘にして——次期当主として期待の掛かっているのが、『斎藤麗華』という少女なのだ。3歳の頃より茶道とピアノを嗜み、6歳の頃より剣道を始めたというニュースが流れる程、彼女の動向に関する報道が多い。


「脳波、及び体調に異常なし。違和感や異変といった類も無し。脈拍、血行共に良好——。よし、測定終了」

「ありがとうございました」


 3Dスキャナー技術を応用し、瞬時に計測を終えた教師が結果を伝える。深く頭を下げて礼を言った彼女が、体育館から出る為に踵を返す。黒く長い髪が靡き、その動きを追うかのように男子が一斉に首を振る。体育館に集まった生徒達の視線を一身に浴びながらも、その歩みは決して鈍る事も揺らぐ事も無かった。


「何よ。お高く止まっちゃってさ」

「金も、家柄も優秀であの美貌と健康な体だろう?いいよな——アイツは全部『持ってる』人間でさ」

「私達とは住む世界が違い過ぎるのよ」


 大半の男子生徒は、魂を奪われた様に彼女の挙動を——熱を籠った眼で見詰める中、一部の生徒はわざと本人に聞こえる声量で陰口を叩く者もいる。その声音に含まれる感情は『持たざる者』として烙印を押された故の嫉妬・・・いや、憎悪に近い言葉の暴力だった。

 女子生徒の大半が侮蔑や嫌悪を抱いた言葉を吐き、一部の男子が自らの欲望を剥き出しにした妄言や、己の無力さを象徴するかのような諦観の言葉を吐いている。


(確かに恵まれた家庭に育ったんだろう。けれど、彼女は幼少の頃から、周囲の期待に応えるために——必死に努力をしてきた。どうしてそんな心無い事が言えるんだ!)


 『斎藤財閥』には3人の兄弟がいる。その中で『斎藤麗華』と呼ばれる少女は、末娘にして斎藤家唯一の女児だ。待望の女の子という事もあり、世間は麗華の誕生で一世を風靡し、生後1ヶ月後には既にメディアに出演していた。成長記録として3ヵ月に1度雑誌特集が組まれる程の人気を博し、本人すら覚えていないであろう『初めてハイハイをした日』や、『言葉を始めて発した日』等多くの事柄でメディアを賑わせた。

 そんな彼女の人気は、年を重ねるにつれて徐々に高まり——初めて『茶道』で茶を点てた茶道具や、初めて弾いた『ピアノ』の音楽、更には初めての剣道の『試合の映像』等、数多くの記録が残っている。


(けれど、僕が此処で声を荒らげても、彼女には迷惑だろう。SNSであらぬ憶測が飛び交ってしまうかもしれない。僕に出来る事は、こんな心にもない声に負けないでほしいと、想いを籠めて応援するだけだ)


 歳を重ね、美しい美貌に磨きが掛かり——世界中の富豪や、大企業の御曹司から婚約の申し込みが絶えないという彼女だが、これまで一度も浮ついた話は無かったのだ。そんな彼女の『恋心を射止める男の予想ランキング』なる物まで世間に出回っている以上、下手に関わってしまっては——あらぬ騒動に発展するのは火を見るよりも明らかだ。

 空に出来る事は——陰湿な言葉の暴力をものともせず、堂々と歩き続ける彼女を応援する事のみ。芸能人を一目見れた事への感謝と、心からの応援の気持ちを籠めて・・・彼女の事を見るだけだ。


(ファンという訳でもないし、あまり人の顔をまじまじと見るのも不快だろう。人の視線に慣れているとはいえ、僕と同じ年の女の子なんだからね)


 空はなるべく彼女を視界に収めつつ——注視しないように気を付けて、空の真横を通り過ぎるほんの一瞬だけ、彼女の瞳に視線を向けた。黒く煌く黒曜石の様な瞳は、視る者の魂を奪い去ってしまう程に美しく輝いて見える。思わず見惚れてしまいそうになるのを堪え、感謝と応援の眼差しを向け——


「——」


 ほんの一瞬。瞬きすらも短い時間。時が永遠に停止したかと錯覚を覚える程の時の中で、確かに彼女の瞳が空を捉えた。瞳が僅かに揺らめき、戸惑いと驚愕が入り混じった——そんな複雑な感情を湛えた彼女の瞳が、空の脳裏を刺激し記憶に刻まれる。ほんの小さく、極僅かに唇の端が円弧を描き・・・消え入りそうな程小さな声で『有難う』という言葉を発し、間を置かずして横を通り過ぎていった。


(・・・今の、聞き間違いか?いや、それよりも目が合った?何かの偶然か?)


 そう思い、僅かに首を回して彼女の後頭部に視線を向けた時だった。電子音が辺り一斉に鳴り響き、視界の隅に1つのアプリケーションが自動ダウンロードを開始する。


「そっか。今日の20時に全世界同時配信が始まるのか」


 ポツリと言葉を残し、再び彼女の行方を目で追うと——彼女の視界の隅に、自分と同じアプリケーションのダウンロードを告げる通知マークを発見する。

 『エターナルワールドオンライン』。世界累計5臆8千万という、脅威的なダウンロード数と、ユーザー数を誇る日本が開発したVRMMORPGだ。通称『EOW』と呼ばれるメガヒットタイトルの最新作が、遂に今日の夜20時に世界同時配信を開始するという旨と、自動ダウンロードを開始するという告知が鳴り響いたのだ。


「お。EOW——遂に今日配信開始か!」

「楽しみだなぁ。俺はビーストで行くんだ!」

「私はドラゴニュートでプレイしようかしら」


 生徒達の9割以上が、一斉に盛り上がり——先程までの陰湿な空気が一掃されていく。その事に空は安堵しながらも・・・再び彼女の居た所に視線を向けた時には、既に彼女の姿は体育館から消えていた。

先程の偶然?は気になったものの・・・空もこの場の雰囲気に当てられて直ぐに疑問を霧散させ、今日の夜に配信を開始するというゲームについて思いをはせるのであった・・・。


◇◆◇


~麗華~


「ふぅ。戻りました」

「お疲れ様ですお嬢様」


 薄い青色で統一された室内。見慣れた天井と、幼少の頃から姉妹の様に育った使用人の声を聴いて——私はその身を起こす。朝の8時から夜の19時という長時間にわたっての『電脳生活』を終え、手早く身支度を整えた私は、使用人と共に部屋を後にし——家族達の集うリビングへと足を運んでいた。


「本日これからの予定は?」

「ご家族そろっての夕食後——茶道の稽古が30分ほど。その後は自由時間です」

「そう。なら20時までに入浴を済ませてしまうわ」

「畏まりました。湯の準備を整えておきます」


 リビングに通じるドアの前で一礼し、去っていく使用人を見送る。軽く深呼吸して扉をノックし——入室の合図を告げると、扉の向こうから家族の団欒の声が麗華の耳朶を打った。


「失礼します。本日の授業——並びに、検査を無事に終了しました」

「おぉ——麗華!今日も務めご苦労だった。椅子に掛けて夕食を食べなさい」


 ヒグマの様に大きな体躯を揺らし、歯願して野太い声を発するのは『斎藤家3代目当主の父』だ。一人娘である私に殊の外甘く、過保護であり——私のよき理解者でもある。


「麗華——お疲れ様。暖かい内に食べた方が料理人も喜ぶだろう」

「お疲れさん。今日は麗華の好物を用意したらしい。俺達もこれから食事なんだ。一緒に食べようぜ」


 そう話しかけてくるのは——4つ上の『京谷兄様』と、5つ上の『雅也兄様』だ。京谷兄様は眼鏡をかけた博識の兄で、雅也兄様は人を惹きつけるカリスマと、人の本質を見抜く力を持つ『斎藤家次期当主筆頭』だ。


「「「いただきます」」」


 兄様達に促され席に着いた途端に——次々と運び込まれてくる料理の数々。袋詰めされたカットサラダ、消費期限の近いバター入りロールパン、スーパーの特売品を使った肉料理、閉店間際まで残った鮮魚のムニエルなど色々な料理が並ぶ中で、麗華が一番好きな料理が食卓に並んだ。


「まぁ!肉じゃがね!」


 箸を軽く入れただけでホロリと崩れる位によく煮込んであるジャガイモ、プチプチとした歯ごたえの堪らないしらたき、蛸の形に切られたウィンナーが入った少し甘みの強い出し汁の肉じゃがだ。


「麗華は本当にコレが好きだよね」

「俺達も好きだぜ。料理の中じゃ、肉じゃがと卵焼き位しか甘味を食べられないからな」


 初代様が『斎藤家の家訓』に『質素倹約』を掲げ、3代目当主たる父もまた、その教えを是として取り組んでいる。


『使用する物は長く保てる良い物を使い、食事は庶民の感覚を忘れない為に出来る限り安い物を食べる。事業が拡大し、巨万の富を得たとしても——所詮金は金。使えば泡沫に消え去り、栄華は夢幻となる。大事なのは得たも物を、人を、金を如何に世と人の為に使うかという事だ』


 2代目当主の曽祖父が残した言葉に従い、1日に1度は庶民の生活に触れるべく、家の中の雑貨や食事をスーパーやコンビニに売っている市販の安い奴に買い替え、食事も清貧を心掛けている。


「うむ。本日の夕食も大変美味であった!」

「調理法1つで、こんなに味が奥深くなるなんてね」

「肩肘張らない、家の料理が一番美味い。料理長達には感謝だな」

「はい。私達はとても恵まれております」


 出された食事を平らげ、この後の茶道の事を考え腹8分目に抑えつつ、大満足の内に食事を終える。食後のコーヒーや紅茶を各自で楽しみながら、今日1日の報告を行うのが斎藤家の決まりだった。


「先ずは私から。本日D商社との会合を開き、予定通り買収する流れになりました。明日記者会見を開き、買収に向けて本格的に始動します」

「次は僕ですね。我が財閥が出資している『エターナルワールドオンライン』が本日20時より予定通り開始予定です。事前予約人数は前作を超える6億2千万人に達し、VRMMORPG史上最大級のコンテンツになります。既に大手企業からのコラボオファーが殺到しており、抽選の結果を反映次第、順次コラボを開始します」


 麗華専用の『全身投影型電脳空間箱』に本日夕方インストールされた最新のゲーム。恐らく日本のプレイ人口だけでも2億人は確実に居ると、統計データが取れているのだとか。


(そういえば・・・今日学校で見た『あの人』、とっても優しい感情を抱いていたわ)


 ふと蘇るのは、今日の『測定』の時のこと。最早人の目に晒されるのが当たり前の生活を送っている麗華にとって、学校で注目されている事は慣れていた。嫉妬、羨望、好意、強欲、侮蔑、嘲笑、時には性的な目線で撮られた写真や動画がインターネットに流布されたこともある。あらゆる感情が籠った視線と、陰口による言葉の暴力の嵐。自分の家柄や財産にばかり目を向けて、あわよくば『おこぼれ』に預かろうとする者達ばかりだった。

 その様な環境で育ったからか、麗華は自分に向けられる、視線に秘められた感情が読み取れる様になっていた。陰口には耳を貸さず、悪意ある視線には無視し、日常を過ごす。

 そんな負の感情が渦巻く視線の嵐の中、たった一人の視線だけは違っていた。暖かく優しい感情が籠った視線が、麗華に向けられたのだ。


(小さな子供やお年を召した方々は、概ね優しい感情が籠った視線が多いから良いのだけれど、同じ年の、それも男の人から向けられるとは思わなかったわ)


 金持ちの子息、子女とも知り合いが多い麗華ではあるが、決して優しい感情を抱いた視線を感じた事はない。子息達は、総じて面の皮が厚く、歯の浮く台詞やご機嫌取りを行う裏で、家の優劣を競う激しい罵り合いと蹴落とし合いを行い、子女達はブランド品で身を固め流行りの衣装を纏い、家の金を無心して美容整形に嵌り、美しさを競い合っている。麗華の美貌に嫉妬した子女達があらぬ噂をマスコミに垂れ流し、要らぬ騒動に発展しかけた事は枚挙に暇がない程だ。


(また、機会があれば——今度は話をしてみたいな)


 もしかしたら、自分の勘違いなのかもしれない。邪な感情を隠し、不用意に近づこうとしている人なのかもしれない。けれど・・・女子の顔を注視しない様に気を配り、横を通り過ぎる一瞬に瞳を見詰めるという配慮の出来る男子という、『珍獣』のような存在が、少しだけ気になる。

 友として、姉妹として育った使用人に相談するのは後日でもいいだろう。件の男の子の事は伏せて、今日の報告を終えた麗華は、茶道の稽古の為に部屋を出て——心を落ち着かせるのであった・・・。


☆★☆


~空~


「さて——もうすぐ20時だ!」


 視界の隅に映し出される時刻は19時55分。残り5分で『エターナルワールドオンライン』が世界同時配信を開始する。多くのVRマシンはヘルメット型のマシンが流通しているが、空が使うのは『電脳箱』だ。


「離島での暮らしもだいぶ慣れてきたとはいえ、娯楽が少なすぎるからな。試しに遊んでみて面白そうなら——続ければいいか」


 空がこの離島に来て半年。離島の隅々まで暇を見て探索し、どうやら同世代の人が誰も居ない事を把握した空は——土日もバイトと勉強に明け暮れる生活を送っていた。朝から夕方まで島の中にある3つの商店を掛け持ちバイトし、夜は授業に追い付く為に必死にアーカイブ配信を視聴しての勉強生活。

漸く授業内容に追い付き、交通事故を起こした相手の保険会社からの見舞金が振り込まれ、金銭的にも勉強にも『ゆとり』が生まれ始めた空は、暇つぶしを目的にゲームを始めてみようと思い立ったのだ。


「幸いにしてアプリは無料。VRの機材はこの『電脳箱』でも対応可能らしいからな。世界中にプレイする人がいる有名なゲームらしいし楽しみだ」


 この手のゲームを遊んだ事の無い空は、遠足の前日の様な子供の気持ちで、わくわくとしながら箱に入る。起動ランチャーからゲームのアプリをタップして目を閉じる。


『エターナルワールドオンラインへようこそ』という文字が浮かび上がり空の意識は電脳世界に溶けていった。


『プレイヤー名を記入して下さい』


 意識が浮上する感覚の後、目の前に半透明のウィンドウが出現。タップして『ソラ』と名前を入力した。


『プレイヤーの性別、種族を決めてください』


 目の前に『ヒューマン』、『ビースト』、『ドワーフ』、『エルフ』、『ドラゴニアン』の5つの種族と、それぞれ男女の姿が浮かび上がる。


「種族は『エルフ』。性別は『男』」


 ソラは迷う事無くエルフ族の男を選択し、容姿を細かく設定する画面に移行する。身長は現実よりも少し高い180センチにし、髪色を純白に変更し、容姿の設定を終了する。顔は恐ろしく整った美形だったため、弄らずに放置し、声は現実世界の声がそのまま反映されるらしいので変更できなかった。


『職業とスキルを選択してください』


 ソラの前に『戦士』、『武闘家』、『狩人』、『魔法使い』、『神官』の5つの選択肢とそれぞれの説明が表示される。


戦士   重厚な鎧を纏い、敵の攻撃を一身に引き受けて仲間を護る職業。高い耐久力を誇る。

武闘家  素早い身動きと、瞬間火力が最も高い職業。自らの肉体のみで敵を蹴散らす。

狩人   弓を背負い、罠を駆使して魔物を狩る職業。手先が器用で魔物の生態に詳しい。

魔法使い 様々な属性魔法を扱える職業。遠距離から圧倒的な火力で敵を殲滅する。

神官   女神を信仰する神殿に属する神官。人々を癒す【神聖魔法】を使い、長杖と楯を装備して戦う。


「職業は『神官』で、スキルの選択は——へぇ。4つも選べるんだ」


 『杖術』、『楯術』、『精霊魔法』、『神聖魔法』の他に4つの空欄がある。試しに空欄をタップすると『パッシブ』、『バトル』、『クリエイト』、『ギャザラー』のタブが表示され、膨大な数のスキルが表示された。


「かなりあるみたいだけど、僕は前もって有用そうなのを調べたんだよね」


 この手のゲームをプレイするにあたり、過去作の中からどんなスキルが有用なのか、前もって調べて置いた空。膨大なスキルの中からソラが快適に遊べるために選んだのは次の4つのスキルだった。

パッシブスキル  HP自動回復 5秒毎にHPを1回復する。

パッシブスキル  MP自動回復 5秒毎にMPを1回復する。

クリエイトスキル 調薬     体力を回復する薬や毒を作ることが出来る

クリエイトスキル 料理     様々な食材を料理する事で『空腹度』を回復する事が出来る。


 全ての項目を選択し終えたソラは、完了のボタンを押し白い光に包まれたのであった。 

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