徒花のワルツ

ナビ・フィオレトーヴィ

徒花のワルツ

  プロレスという興行には、ひとつの役割がある。ジョバー――負け役。


 アメリカのプロレス団体では、主にヒールの強さや悪さを強調するため、テレビのプロレスショーにおいて、ジョパーが対戦相手として登場し、何の抵抗もできずに一方的に痛めつけらる。これにより、ヒールがいかに強いか、そしていかに悪い奴かを、視聴者に短時間で強烈に印象付ける。

 そして、ジョパーの何度もの敗北により、視聴者のヒールへの怒りや憎悪を最大限に蓄積させ、月末のメインイベントのベビーフェースとの対戦につなげる。


 最終的には、ほぼベビーフェイスの勝利になり、観客は大満足する。


 日本では事情がやや異なる。敗者の役割を担うのは、多くの場合、新人選手が担うことが多い。敗北を背負うことが、若手の通過儀礼となっている。


 中堅選手がジョパーになる場合は、「こんな実力者でも負けるほど強いのか」という印象付けを行う場合が多い。


 しかし日米ともに、従来のような「スカッシュマッチ」(ジョバーが一方的に敗北する短い試合)や「ジョバー=一方的な敗者」という構図は古くなりはじめ、男女全体の物語を重視する傾向が強まり、負け役が必要ではなくなってきている。


 女子プロレス団体「アイリスレガシー」に、渚美咲というレスラーがいる。


彼女はここ二年、シングルマッチで一度も勝っていない。いや、勝とうとしていない


 美咲は、勝ち星を意図的に放棄し敗北を通じて勝者を輝かせ、興行全体を影から支えるという役割だった。


               ◇◇◇

              

  会場入り後、美咲はいつも通りのルーティンを淡々とこなした。


簡単なロードワークを終え、彼女は寝念入りにストレッチを続けた。その動作が終われば、ひとり黙々とテーピングを巻き直していた。


美咲のコスチュームは、バーガンディ(暗めの赤)を基調とし、白いシューズとサポーターを合わせた、そして、肩口に使われた黒いエナメルの生地は、照明を浴びると、一瞬だけ鈍い光を放つ。


「負けが多いですね、でも、美咲さんは職人だって、業界では言われてますよね?

それは相手を輝かせた戦いをしているからですよね?」


美咲は記者に、そう聞かれた。


「わたしだって、負けるつもりで試合はしてないですよ……私の試合で相手が輝く? それは、相手がいい選手だからでしょ? 私の実力不足を、美談にしないでくださいお願いしますよ!」


美咲は、困ったように苦笑いを浮かべて否定した。


美咲が「職人」という評価を頑なに拒むのは、その言葉が持つある種の危うさへの警戒からだろう。


「職人」という響きは、しばしば「本当は強いが、自分の役割のために負けに徹している」という、美咲がきっと隠そうとしている核心への深読みを誘発してしまう。


だからこそ美咲は、記者に対して、常にこう釘を刺していた。


「わたしを職人レスラー、なんていう肩書で記事にするの、ほんとうにやめてくださいね。」


              ◇◇◇ 


 美咲が所属する老舗団体「アイリスレガシー」では、エースの速水明日香の座は揺るがないものの、次期エースと目されていた諸星ハルカが全米のメジャー団体NWLに移籍して以来、エース候補の育成が停滞していた。会社がいくら押しても、本当に支持するのは観客である。この世代交代の遅れが、団体全体の重い閉塞感につながっていた。


 現在、売り出し中の若手、峰ゆうか(みね ゆうか)と佐々木千秋(ささき ちあき)は、会社が期待をかける次世代の双璧だ。


 峰ゆうかには、生まれ持った観客を惹きつける華と、粗削りながらも爆発的なパワーがある。


 対する佐々木千秋は、アマチュアレスリング仕込みの堅実で高い技術を持ち、新人とは思えない試合運びをする。


 会社は速水明日香の牙城を脅かすライバルとして二人のどちらか、もしくは両方がトップ戦線に躍り出てほしいと願っていた。しかし、何かが決定的に足りないのか、二人は観客の心を掴みきれず、伸び悩んでいるのが現状だった。


「第3試合、シングルマッチ15分一本勝負を行います!」


 大歓声の中、まずは青コーナーから、峰ゆうかが入場する。


「新時代のパワー、その片鱗を今ここで見せつける! 団体の未来を背負う、期待の大型新人! 峰ぇー、ゆうかーッ!!」


 場内は割れんばかりの歓声に包まれた。峰は、自信に満ちた笑みを浮かべた。


 対照的に、赤コーナーから入場した渚美咲への声援はまばらだった。


本来、美咲の肉体は峰に見劣りしない。170センチ近い長身と、鍛え上げられた均整の取れた体。


しかし、彼女はリングインの瞬間から背を丸め、視線を足元に落とすことで、対戦相手より「わずかに」見劣りするよう、その立ち姿をコントロールしていた。


美咲は、その姿勢と地味な装いで、自身の持つ「華」を消し去り、観客にそのポテンシャルを悟らせないよう、細心の注意を払っていた。


 ゴングが鋭く打ち鳴らされた。


「よっしゃあああッ!」


 峰のラリアットからスタートした。


 ラリアットが、美咲の首元をなぎ払った。 フォームは崩れ、打点も定まっていない、腕力だけに頼った荒っぽい一撃だ。


だが、美咲はその不格好な軌道を、あえて首に力を込めて正面から受け止め、観客に見せつけた。


美咲が大きくよろめく、客席から「うわっ、重そう……」というどよめいた。

間髪入れず、二発目。 ただ力任せに振り回された腕が、美咲の胸板を叩く。


そして三発目。 美咲は、軌道の定まらない峰の腕に対し、咲は衝撃に一切逆らわず、トップロープを背中から飛び越え、場外へと吹き飛んでみせた。


リング上では、峰が両腕を広げ、肩で息をしながら猛々しくアピールしている。


美咲はリングを半周し、たっぷりと時間をかけてエプロンに足をかけた。

そして美咲がロープを跨ぎ、リング内に戻ったその瞬間。


峰が、再び爆発的なスピードで突進してきた。美咲の体が、場外の薄いマットの上へ転がった。


 峰は、ダウンした美咲を追って自らリングを降りた。 フェンス際まで美咲を引きずると、その長身を軽々と抱え上げる。


ドォン!!


薄い場外マットの上へ、容赦のないボディスラム。コンクリートに近い硬い衝撃が美咲の背中を襲う。観客がどよめいた。


そして、峰は倒れた美咲を見下ろしたまま、何もしなかった……


次の技を考えているのか?、観客にアピールすることもなく、ただ棒立ちになってしまったのだ。


「……あれ? どうした?」 観客の声が聞こえた。


美咲は、「間の悪さ」を埋めるため、反射的に動いた。 峰の無防備な足首に、自らの両脚を絡ませる。


レッグシザース。


視界がいきなり地面になり、峰がうつ伏せに倒れる。 美咲はすかさず峰の背中に馬乗りになると、その顎(あご)を捕らえ、グイと反り上げた。


キャメルクラッチ(ラクダ固め)。


美咲は、激しく絞め上げた。


  「ぐ、うう……!」


峰のうめき声に重なるように、レフェリーの場外カウントが響き渡る。


「ナイン! テン(10)! イレブン(11)!」


美咲は、「12」のカウントを聞き届けるや否や、パッと技を解いた。


美咲は立ち上がりざま、峰の無防備な背中を、思い切り蹴り上げた。


美咲は、峰を振り返りもせず、サードロープをくぐり、涼しい顔でリングへと戻った。


「くっそぉ!」


峰は起き上がり叫びながら、サードロープをくぐり、転がり込むようにしてリングへ


咲は、即座に峰の首を脇に抱え込んだ。ブレーンバスターの体勢。 一気に引っこ抜こうと力を込める。


だが、峰は動かない。

美咲は、歯を食いしばり、一度、二度と反動をつけて持ち上げようとする。


その挑発に、峰が吠えた。


「なめんじゃ、ねええッ!」


峰は、自分の首が固められていることなどお構いなしに、雄叫びと共に強引に腰を落とした。 技術的な切り返しではない。峰は、美咲の体を純粋な腕力だけで、逆に空中へと引っこ抜いたのだ。


強烈なブレーンバスター。豪快な一撃が、美咲の背中をマットに叩きつけた。


強烈なブレーンバスターで美咲を投げきった峰は、勢いに乗り、勝利を確信したように咆哮した。


「よーし、きめるぞ!」


峰は観客にそう宣言し、美咲を抱え上げ、得意のパワーボムの体勢に持ち込む。


だが、美咲の汗や、直前の攻防による疲労で、抱え方が不安定になった。峰は持ち上げる体勢でバランスを崩し、投げの威力が完全に失われた不恰好な姿勢になってしまう。


その瞬間、峰の口から「あ、失敗した!」という、思わず本音の、リング上では決して発してはならない言葉が漏れた。


美咲は、腹部に、ボディーブローを突き刺さった。


峰の全身の動きが止まり、呼吸が詰まる。 美咲は流れるように峰の背後に回り込み、スリーパーホールド。


「がぁ……!」

峰は唸り声を上げると、背中にへばりついた美咲ごと、その場で強引に身体をひねった。それは柔道の一本背負いとはほど遠い。 フォームもへったくれもない、純粋な腕力と怒りだけによる、荒々しい投げ捨てだ。


 観客のどよめき。


 美咲はマットに叩きつけられるが、すぐに体を起こすが、立ち上がりざまの峰はドロップキックを美咲に打つ。


  峰は、倒れた美咲を抱え上げ、今度こそ完全に「パワー・ボム」の体勢へと移行し美咲を肩の上で一瞬静止させた。観客は一斉に息を呑む。


 そして、美咲をマットへ垂直に叩きつけた。


  レフェリーの手が、キャンバスを叩く。


「ワン! ツー! スリー!」


ゴングが、場内の熱狂を切り裂くように鳴り響いた。試合時間、5分45秒。



「いやあ、峰、強くなったな。パワーでねじ伏せたね」


「粗削りだけど。すごいパワーだね!やっぱり峰はつよいや」


「この勢いなら、いよいよ明日香に対抗できる?」


最後まで試合のペースをコントロールし、峰の粗さを「規格外の強さ」へと昇華させた渚美咲の名前は、その熱狂的な会話の中に、どこにもなかった。


             ◇◇◇


  勝利したばかりの峰ゆうかが、美咲の控室にやってきた。


「あの……美咲さん」


 峰は、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


 美咲は、テーピングを巻いたままの右腕を見つめながら、淡々と言葉を返した。


「わるくはなかったね、いい試合かどうかは、なんとも言えないけど」


 その言葉に、峰は少しだけ安堵の表情を見せた。


「ただ」


 美咲は顔を上げ、峰の目をまっすぐ見た。


「うまくいかなかった時、不安な顔するんの、 あれはだめだよ」


 美咲は、再び視線を腕に戻した。


「まあ、経験だけどね。次の攻撃に繋げなきゃ。」


 渚美咲は、対戦した若手レスラーに対し、常に適切なアドバイスをする姿勢を持っていた。


とはいえ、彼女が道場でコーチのように積極的に指導するわけではない。あくまで聞かれれば、その場ではしっかりと的確なアドバイスはした。


 マスコミも、レスラーたちも、そして団体を運営する会社も、渚美咲を「興行を支えてくれる、信頼のおけるジョバー」として捉えていた。彼女の存在は、誰もが納得する役割だった。


しかし、その美咲の行動や言動を、冷めた目で見つめている選手が、アイリスレガシーにはただ一人いた。


団体のエースレスラー、速水明日香だ。


明日香には「負け役」を甘んじて受け入れる美咲の姿は、ひどく異質に映っていた。


「ジョバーだけの役割なんて、今のアイリスレガシーにいらない!」


 会社に美咲にそんな役割をさせるなと訴えたこともある。


 速水は、美咲がなぜジョバー的な役割を率先して担い続けているのか、その真意が理解できなかった。


たしかに興行には、観客が心から熱狂し、納得できるような、明確な「勝ち」と「負け」が不可欠だ。引き分けばかりでは、熱は生まれない。


しかし、ただ単に自分の個性まで消し去り、相手を輝かせるだけのレスラーなど、速水にとっては不要な存在だった。


速水は、アイリスレガシーのリングに上がる全選手に、たとえ敗北しても、そこから這い上がろうとする野心と闘志を求めていた。しかし、美咲の姿にはその片鱗すら見えず、速水はそこに決定的な違和感を覚えていた。




 速水は、美咲がデビューしてからの数年間をもちろん知っている。デビューして2、3年の美咲は、猛々しいほど向こう気が強く、感情をむき出しにして戦う、ギラギラした向上心を持つ選手だった。

 そして、同期だった諸星ハルカと共に次期エース候補だと見られていた。


 しかし、今の美咲には、あの猛々しかった過去の片鱗が全くなかった。


その冷めた眼差しは、向上心を剥き出しにしていた頃の彼女とは、完全に別人のものだった。


(ただ単に、プロレスを職業として、それなりのギャラをもらえるから、負け役を淡々とこなしているだけなのか)


速水の脳裏にそんな考えが浮かぶ。だが、彼女のプロとしての直感は、それを否定していた。


(……いや、本当にそれだけなのだろうか?)


               ◇◇◇    


 その日の午後、取材を終えて事務所に戻ろうとしていた速水明日香は、道の角から現れた人影とばったり視線がぶつかった。


 渚美咲だ。


 美咲は、団体の練習とは別に通っている柔術のジムから、出てきたところだった。


 美咲は、一瞬息を呑んだ。彼女が、リング外で速水と個人的に顔を合わせることは滅多になかった。


「あ……明日香さん」


 美咲の声は、驚きでわずかに上擦った。


「柔術?」速水が問いかけた。


「そうですね……いやあ」

美咲は、一瞬だけ視線を泳がせた後、声を潜めて不自然なほどの謙遜を見せた。


「……お願いですから、内緒にしてくださいね。ただのフィットネス感覚で通ってるだけなんで」


「フィットネス?」 速水の眉がピクリと動く。


「プロレスラーがフィットネスするかね?しかも柔術?」


「したいんですよ。恥ずかしいから言わないで欲しい」


速水は、美咲の目をじっと見据えた。


「……わかったわ。あなたのジム通いの話は、見なかったことにする。」


「どうも」


「その代わり」 速水は、美咲の退路を断つように一歩踏み込んだ。


「今夜、付き合って。少し、腹を割って話したいことがあるの」


それは、誘いというよりは、エースとしての命令に近い響きだった。


美咲は数秒間、沈黙した。断る理由を探しているのか、それとも観念したのか。やがて、彼女は諦めたようにふっと力を抜くと、小さく苦笑した。


「……エースのお誘いを断る権利なんて、私にはありませんよ」


美咲は、頭を下げた。



               ◇◇◇ 

             

 美咲と速水は、団体の事務所からほど近い、速水明日香がよく使う、小さいながらもおしゃれなバーへと向かった。


 照明を落としたバーカウンターは、静かな緊張に満ちていた。


 美咲はウイスキーのストレートを、速水はジントニックを注文した。


 速水は美咲の注文に目を細めた。


「……ウイスキー、ストレートなのね?」


「明日香さんが、なんでもいいっていうから、注文したの高すぎました?」

 美咲は、速水の前では、素でいるかのように、リラックスした表情で話した。


美咲は、ふと思い出したように言った。


「明日香さんとの初めてのシングル戦。あの時、ボロボロに負けたけど、今思い出しても、すごくおもしろかったんですよ!」


それは三年前、たった一度きりの対戦だった。


試合時間は、たったの二分。しかし、その短い時間に凝縮された二人の攻防は、今も観客の記憶に焼き付いているほど壮絶なものだった。


明日香はグラスを置き、美咲の目をまっすぐに見据えた。


「渚。……あなたは、本当に満足なの? 今のポジションに」


「満足?満足……はは、正直、よくわかんないですね」


美咲は淡々と答えた。


「とぼけないで、峰も、千秋も、他の若手たちもあなたのおかげで、輝いて見える。相手を輝かす……だからなに?」


「だからなに?だめですか?私は与えられた役割を全うしているだけですけど」

 美咲は、表情を変えなかった。


「あたえられた役割ねえ……陳腐な返答ね。一体なにが楽しいの?」


速水は、苛立ちを隠そうともせず、静かに、しかし強く言った。


「あなたには、向上心というものがないの?」


速水はカウンターに身を乗り出し、美咲との距離を詰めた。


「あなたの実力なら……私と戦ったあの時の、あんな戦い方ができるなら。 トップとは言わないまでも、あなたは十分、私とメインイベントで戦える選手よ!」


その言葉を聞いた瞬間、美咲の口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。


「……馬鹿にしているんですか? わたしに、そんな力はありません!」


「ジョパーなんて、ただ、負けるだけの選手なんて、今のプロレスには基本いらないのよ。プロレスはね、お互いが良い技を出し、切磋琢磨して、観客を熱狂させるためにある」


速水は、美咲の試合運びを強く批判した。


「どうせ負けるんでしょ?なんて思われる試合に、何の価値があるの?相手を引き立てる?それだけの選手なんて、わたしには意味が見いだせない」


美咲は、ウイスキーを一気に飲み干し、空になったグラスをカウンターに置いた。


「へー、明日香さんは、そう思ってるんだ、トップの人間には、わからな……」


 美咲は、そこで意図的に反論を止め、諦めたような態度を見せた。


 すこし沈黙が続いたあと。



「……諸星ハルカとのスパーリングが原因なの?」


 速水は、自分の推測をぶつけてみた。


 その瞬間、美咲の顔から完全に血の気が引いた。


 美咲は、再び注文したウイスキーをいっきに飲み、 「なんのことやらさっぱり」と、平静を装っているように速水は感じた。


          ◇◇◇


 諸星ハルカと渚美咲は同期だった。

 ハルカは、もともと学生の頃から柔術を学んでいた。グラウンドでの極め合いには無類の強さがあった。対して美咲には、格闘技経験というバックボーンはなかった。


 当時、血気盛んだった美咲は、同期であり、諸星ハルカに対しライバル心をもちろん燃やしていたが、試合では2勝8敗と負けの数の方が多かった。しかし


「ガチなら勝てるんじゃないか」という無謀な自信を抱いていた。


スパーリングの最中、美咲はその自信に突き動かされ、ハルカにシュートを仕掛けた。美咲の放った肘が、ハルカの顔面にクリーンヒットする。ハルカの動きが止まる。


そこから、美咲は腕を決めようとした……しかし


ハルカは、反射的に柔術の技でマウントを取り、美咲を何度も何度も殴った。


異様な雰囲気を察した選手たちが止めに入った時、美咲は血だらけになり、すでに気も失っていた。

      


……速水は、その時の話を思い出しながら話し、目の前の美咲をじっと見つめた。


「あなたは、『こんな凄惨な事、決してお客さんに見せちゃいけない、これはプロレスじゃない』……そう思って、自ら進んで『ジョパー』に徹してる。……違う?」


美咲は、黙って手を挙げ、ウイスキーを注文した。


「……それは違いますね、と言いたいところですけど」


美咲は、空になったグラスをカウンターに乱暴に置くと、誤魔化すのをやめた。


「……図星、かもしれませんね」


美咲は、自嘲気味に笑った。


「明日香さん、潰し合いの先に見えるのは……そこにあるのは泥沼だけです」


美咲は酒が回っているせいか、「本音」が、せきを切ったように溢れ出してくる。


「あの日のスパーリングが……もし、客前での本当の試合だったとしたらと思うと、ぞっとします。誰も楽しくない……」


速水は、美咲がまだ言葉を飲み込んでいるのを感じ取り、バーテンダーに合図を送ってウイスキーのボトルを一本、テーブルに置かせた。


「わたしわかったんです。プロレスは勝つ『光』がいるなら、その光を際立たせるために、しっかり負ける『闇』がいなきゃダメなんですよ! ……私は、この団体の誰かを輝かせるための、影でいいんです」


「それは違うんじゃないか?」


速水は美咲に問いただした。


「あなたはハルカにガチで負けたから、ジョパーに徹するって、わたしにはその感情がやっぱりわからない。勝つ光、負ける闇、そうかもしれないけれど、ずっと闇である必要はない」


速水は、静かに、しかし強く美咲を射抜いた。


美咲は、ふと遠い目をして、つぶやいた。


「よくわかんないですね、なんだか、そう言われると……ただ無理だろうけど……いつか、ハルカと戦えるなら、いろんな意味で全力でお客さんの前で戦いたいな」


「いろんな意味で?」


美咲は、ハッと我に返ったように口元を片手で覆った。


「……やだ、少し酔いましたね。べらべら喋りすぎです、私」


 それ以降、速水がどんな質問を投げかけても、美咲の返答は「さあ」「そうですね」というような、感情も情報も含まない、返答に終始した。速水は、それ以上はもう追及しなかった。

 

              ◇◇◇   

      


  季節は春に変わる。速水と美咲は、社長に事務所へと呼び出された。


「クビとか、いやなんですけど、明日香さん」


冗談交じりに、美咲は明日香に聞いてみた。


「この時期に、クビはありえない」

なぜ二人が同時に呼ばれたのか、理由が思い当たらない。


社長は妙に上機嫌だった。

「二人とも朗報だ!なんと、諸星ハルカのブッキングに成功した!あのNWLがOKを出したよ!」


「契約は三試合だ。1万規模のホールを押さえ、明日香との2連戦。その前哨戦を美咲、お前にまかせた!ハルカを輝かせてくれ!」


美咲は、深々と頭を下げた。


「はい、全力でがんばります」


速水は、その言葉に思わず息を飲んだ。


美咲の「全力」とはなんなのか。


美咲は、ハルカを輝かせることなく、ガチの試合をするのではないか

それとも

会社が求めるようなジョパーになるのだろうか?

 

 速水は、社長から説明される自身の2連戦の契約内容を耳にしていた。エースとして、自身の試合こそ会社にとっても、自分にとっても重要な仕事であるはずなのに、なぜか、美咲対ハルカの前哨戦のことばかりが、頭の中で渦巻いていた。。


               ◇◇◇   


 諸星ハルカの凱旋帰国シリーズは、全三試合という構成だった。


 会社の演出の核は、後の二戦、エース・速水明日香との2連戦(大勝負)にある。対して、シリーズ第一戦となる美咲との試合は、ハルカをいかに強く、圧倒的なスターとして観客にみせるかという、完全にジョバー戦としての位置づけだった。


 そして、いよいよ迎えた後楽園ホール大会。


 超メジャーの諸星ハルカを一目見ようと集まった観客で、立ち見が出るほどの超満員だった。フロア全体がハルカの入場を待ちわびる熱狂的な期待に包まれている。


 先に、渚美咲が入場する。歓声は、彼女の普段の試合と変わらない、礼儀正しい拍手と、まばらな声援だった。


 そして、場内の照明が落ち、大音量の入場曲が鳴り響いた瞬間、後楽園ホールの熱気は爆発した。


 諸星ハルカの入場だ。


 彼女の身体を包むオーラは、二年前、国内で活動していた頃の比ではない。NWLのトップで磨き上げられた、華やかさと威圧感が混ざり合い、美咲の立っているリングにまで、そのとんでもないオーラが押し寄せてくるようだった。


 ハルカは、リングに上がると、満面の笑みで四方の観客に手を振った後、まっすぐ美咲に向き直った。


「いい試合しようね、美咲」


 ハルカは、二年前と変わらない親しげな同期の呼びかけで、美咲に笑顔を向けた。


 しかし、美咲の顔は動かない。ただ一言を返した。


「さあ」


 ハルカの表情が、一瞬固まった。


「さあ?」


 美咲の返答は、感情も情報も含まない、無色透明な拒絶だった。


 ハルカの顔から笑顔が消える。


 ゴングが鳴った。 試合は、プロレスの基本である手四つの体勢から始まった。

 ハルカは余裕をもって組み合う姿勢を見せる。


 その瞬間、


 美咲の瞳の色が、一瞬にして変わった。


美咲は、グイっとハルカの左手を取った。


ハルカの指の関節、ひじの関節、そして肩の関節を一瞬で連鎖的に決め、角度によっては骨が折れる、プロレスではない極め(きめ)の体勢へと持ち込んだ。


ハルカは、思い出した。道場で美咲の気を失わせた、あの時の事を。


「やばい、ガチかよ!凱旋帰国の試合が!」


そして、通路にいた速水明日香も、ついに声を上げた。


「仕掛けたよ!!」


ハルカの顔が、恐怖に変わった。


しかし、美咲はそのまま、ハルカをロープに押しつけると、何事もなかったかのように手を離した。


そして、ハルカの顔を見て、微笑んだ。それはスター選手に敬意を払うように見えた。


それ以降の試合内容は、世界最高峰の舞台で磨き上げられた諸星ハルカの力量が発揮され、観客の期待通りに彼女を輝かせる展開となった。


速水は、小さくつぶやくと、興奮と戦慄を抱えたまま、控室へと戻った。


「恐ろしい子・・・・」


       5分16秒 体固め 勝者 諸星ハルカ


ゴングが鳴り響き、割れんばかりの喝采がハルカを包む。世界一のメジャー団体でトップを張るスターにふさわしい、堂々たる勝利だった。


しかし、試合中も試合後も、ハルカの心臓だけは、いまだに激しく高鳴り続けていた。美咲に勝利したにも関わらず、その内面の震えは止められなかった。


美咲が覗かせたあの一瞬の「本気の牙」が、ハルカの脳裏に焼き付いて離れなかった。

                                (終わり)

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