男サカマネージャー完結型恋愛
青葉える
男サカマネージャー完結型恋愛
「男子サッカー部のマネージャーって、ほぼ百パーでオトコ目当てだよね」
高校に入学して早々に陰口をたたかれたけど事実だし、トイレの個室にいる間に洗面所で言われるという漫画でもベタなシチュエーションだったのでパンツを履きながら笑っちゃいそうだった。陰口を言っていた二人は私個人に悪感情があるというより、あくまでイッパンロンを通じて親睦を深めたいという口調だったので、何食わぬ顔で数分遅れて教室に戻った。寧ろ、二人の声色には「オトコ目当てで男サカマネになるのを客観的に許される女子」とつるめるようになれた安堵も混ざっていたので、もはや清々しくお弁当を食べられた。
五時限目の現代文の授業中、ノートの端に「佐野諒香=つよい◎ かわいい◎」と書く。だってつよつよ女子になりたいじゃん。進学校の女子高生で男サカマネで男サカの彼氏がいるって、年齢性別すべて包含しても日本で上位の存在じゃん。元の素材はわりと良い方だし、その上でちょっと努力をすればそんな存在になれるかもしれないんだから、踏み出さない方がバカじゃん。そのためなら、女子サッカー部にマネージャーがいないキモさとかぜんぜん無視できる。ちゃんと計画を立てれば、私は一年後、男サカの彼氏を連れて別学年の廊下すら闊歩出来ているだろう。
*
そう思っていたのが一年前で、高二春の私はというと同じ女子マネージャーのふーみんをめちゃくちゃ好きになってしまっていた。本名は佐原史美という。
つよつよ女子でいたいって気持ちは変わらない。メイクして、髪は茶色に染めてきちんと巻き、スカートは太ももが見えるほどに短くして、学校指定のブレザーではなくサイズオーバーのカーディガンを羽織って、廊下は背筋を伸ばして歩く。文系の期末テストは上位成績者の常連だし、体育祭実行委員もやった。そして思惑通り、男サカマネという肩書きはやはり自然と「学年の上位女子」というイメージを持たれ、私は「あの諒香ちゃん」と言われるポジションを手に入れた。あとは男サカの彼氏を作るだけ――だったのだけど、これがもうガタガタ。どの男子にしようか目を付ける前からガッタガタ。
計画が崩れ始めたのは入部届を出した翌日、つまり初めて部活に参加した日からだ。自分でもウソでしょと思う。つまり私はいくら日々自分をブランディングしても、その日々をふーみんと過ごせば過ごすほど最終目標から遠ざかっていっているのだ。
頭では、男サカの彼氏がほしい。いた方がいい。
心では、ふーみんと離れたくない。一緒にいたい。
毎朝起きた瞬間に頭と心が二又の道を「じゃね」と別れて歩き出すのを感じつつ、スマホを見て午前七時を知る。どうしろっていうの。
*
入学して一週間後、晴れたグラウンドの隅でもう一人の新入生女子マネージャーとして佐原史美が隣に並んだとき、「余裕だわ」と思った。瞼が重そうな目、立体感のない鼻梁、形は綺麗だけど色が良くない唇。髪は切りっぱなしのセミロングで、背丈は私より五センチ以上は低いうえに若干の猫背だった。「一年の女マネの可愛い方」と呼ばれるのは私の方だと確信できた。
先日最終回を迎えたアイドルオーディション番組の第四次選考で落ちていた子に似ていなくもない部長に「二人とも、何て呼べばいいかな」と訊かれた。私はすかさず「諒香でお願いします」と、入部が嬉しくて仕方ないといった声色で言った。一方、佐原史美は「えっと」と一拍置いたのち、「ふーみん、か、ふみでお願いします」と答えた。私は春の青空に相応しくない感情とわかりながらキモ、と思った。あだ名があるならそれでいいじゃん、下の名前で呼ばせようとするなんて見た目に似合わず姑息なのか。
「諒香と、ふーみんね。佐野と佐原って名字似てるね」
「あはは、確かにー」
部長の言葉には無意味百パーセントの笑いを返した。
その日はボール磨きをしながら練習を見学する運びとなった。先輩マネージャーにグラウンド脇の専用倉庫まで連れて行ってもらい、仕舞われている備品やボール磨きの方法についての説明を受けた。先輩たちは練習中の記録取りに行ったので、佐原史美と二人になった。ボールの泥を使い古されたタオルで落としにかかると同時に、私は口火を切った。
「これからよろしくね」
男サカ部員に好印象を持たれ続けるためには、女マネ同士の平穏な関係性は必須だった。佐原史美――ふーみんは恥ずかしそうに唇を結んで顔を上げ、しかしその態度とは裏腹に「よろしくお願いしますっ」と声を張り上げた。容姿から出るオーラがコミュニケーションを円滑化してくれない女子が自力で頑張るときの特徴だった。
「ふーみんは何で男サカマネになったの?」
おおかた「人を支えたいから」という回答が来ると予想していた。その理由だったらボランティア部に入ればいいのに、そうせず男サカマネになっている時点で、こいつもオトコ目当てだと判断し、この存在感でそれを企める神経がわからんと内心笑ってやるつもりだった。
だけどふーみんは言った。
「サッカーが好きなんです!」
パアッという効果音が相応しい笑顔だった。眼圧検査でいきなりフラッシュ焚かれたみたいに面食らった。用意していた嘲笑は吹き飛び、頭も体も真っ白になった。一軍女子たるためにSNSを見漁り身にまとう情報をアップデートし続けるという懸命で情けない努力をしていた中学時代の記憶までが飛び掛けた。
「でも運動音痴だから女サカに入る勇気はなくて。それにやるより観る方が好きで……言い訳に聞こえるかもしれませんが……マネージャーになれば間近でサッカーが観られるし、最前列で試合の応援も出来るでしょう。私にとっては日本代表もサッカー部員も同じく『応援したい』人たちなんです。だからマネージャーになれて嬉しいです」
「へ、へえ」
真っ白になった頭と体に、あまりにも純粋な動機が消毒液みたいに染み渡っていった。私はボールクリーナーのスプレー缶を必要以上に振ることしかできず、しばし黙ってしまうと、ふーみんは焦った様子を見せて「ごめんね、喋りすぎたよね。佐野さんは何でなんですか?」と私の顔を覗き込んだ。意外にもふーみんは人を見据える人だった。
純粋性を塗り込まれてひりひりする頭が、さすがに真意を言ったらマズいとシグナルを出してきた。オトコ目当てだと思われても仕方ないと割り切っていたけど、それは男サカに無関係の人間に言われる場合に限りだった。比較対象がいたら、私の品位が落ちるのはわかっていた。
「私も、サッカー好きだから……」
オフサイドのルールも理解していないまま答えた。
「ほんと! どこサポとかありますか?」
ふーみんは力が入ったのか、握っていたスプレー缶を宙に噴射させていた。ドコサポって何だと思いながら私は曖昧に答えた。
「最近好きになったばかりだからわからないことが多くて、色々教えてもらえたら嬉しいー。あと敬語じゃなくていいよ」
「私で良ければ何でも喋りま、喋るよ」
真っ白の頭と体が、ふーみんに嫌われてはいけないという欲求でいっぱいになっていた。女マネ同士のいざこざは部員に嫌がられるし、単に人間関係で悩みを持つのは面倒だった。だから話を合わせた――その、片隅に、いっさいの他意なく歩み寄ろうとしてくれている彼女の笑顔を曇らせたくないという小さな欲求もあった。つよつよ女子になる予定の私がこんな地味な子に気を遣わなきゃいけない理由もないため、つまりはただ自然と生まれた欲求なのだった。そもそもつよつよ女子は誰かを落とさなくてもなれるものなのだ。
「これからよろしくお願いします、佐野さん」
ふーみんがしゃがんだまま深々と礼をしたので私もスプレーを噴射させつつぺこりと返し、「諒香でいいから」と答えた。
「諒香ちゃん、良い名前だね。ふーみんって私には可愛すぎると思ったでしょう。ふみの方がいいかなと思ったけど、でもクラスの子が付けてくれたのが嬉しくて」
先ほど言い淀んでいた理由がわかった。そして、呼び捨てで良かったのにちゃん付けされたのが少し気になったけれど、すぐ気にならなくなるはずだと思い直した。
男サカのパス練習の掛け声と、新入部員がやっているトレーニングの号令が聞こえた。どの人を彼氏にするかさっそくウォッチを始めるべきなのに、私はサッカーボールを拭きながら、ふーみんのサッカー話を聞いていた。彼女の口調はだんだんと熱が籠もって早口になっていった。「可愛くて推しがいるのは良し、地味でオタクなのはキモ」という定義で生きてきたのでふーみんはキモに入るはずだけど、JリーグがJ1からJ3まであるという基礎知識すら知らなかった私に呆れもせず、終始解説を挟んでくれたり、「喋りすぎちゃった」としきりに反省してくれたりしていて、私は「大丈夫だよ」と返すたびに心の内で「キモくないよ」とも返していた。ボール磨きが終わり、自分の顔が綻んでいたのに気が付いた。
それから私はサッカーについての知識を頭に入れ始めた。ルールや効果的な練習法、トレーニング法はもちろん、Jリーグの動向やW杯予選も追うようになった。六月頃には各クラブの監督の名前も言えるようになっていたし、強豪国がどこだかもわかっていた。
ただし男サカ部員と話すのは部活内容や練習内容、練習終わりには課題や配信ドラマの話であって、プロサッカーの知識はほぼ、ふーみんと同じ目線でサッカーを観るために頭に入れているようなものだった。マネージャーには練習を眺めているだけの時間もあり、その間にサッカーと無関係の雑談をしていたらさすがに職務怠慢なのはわかっていた。ひいてはひたすら黙っていてもいいし、沈黙の気まずさに耐えかねたふーみんが話しかけてきたら相槌を打つくらいのコミュニケーションでもいいはずだったけど、想像上の、顔を青くしたり赤くしたりしてだんだんと口数が減りしょんぼりしてしまうふーみんが可哀想だったので、彼女をそんなふうにさせる人間にはなりたくないなと思ったのだった。だからサッカーに関する様々な話をした。ふーみんの、私の知らないことを教えてくれる熱くも柔らかい空気感も、私がギリギリで仕入れた知識で同意や共感を示したときの「だよねえ!」という破顔も、どちらも心地が良かった。私がJ3に格好良い選手がいてと話を振ったら「知らない選手だ、諒香ちゃんすごいねえ」と尊敬の眼差しをもらった。プレーがどうとかではなくルックスだけの、軽蔑されてもおかしくない観点なのに笑顔をくれたのだ。一方で、帰り道に私が「友だちが彼氏いるのに別の人とやっちゃったんだって、さすがにないよね」と軽く言ったらふーみんは硬直した顔で「そ……そういう話……なんて言ったらいいかわからなくて」と言った。それで私は、彼女が「高校生活を平和に送るには佐野諒香を肯定していればいい」と短絡的に考えているわけではないと確信でき、そのまま同意されなかったことに寧ろ安心したのだった。「ごめんね、止めるね」と言ったら「こちらこそごめんね」と言いつつホッとしていた。その頃の私はどの部員を彼氏候補にするかウォッチしてはいたけど、その日以降、誰とだったらやってもいいかを考えるのは止めた。万が一ふーみんがテレパシー能力を持っていて、その思考がバレたらがっかりされそうだったから。
七月下旬、一ヶ月後の夏大会に向けて地区や市の競合校の練習試合を二人で偵察しに行った。どこの高校かバレないよう私服だったので、普段はクローゼットの奥にある、目立たないカーキ色のトップスを着た。初めて訪れる駅前で待ち合わせしたふーみんも似たような色の半袖シャツを着ていた。首元がよれていて、たぶん普段からこれを着ているのが窺えた。名前も知らない男子たちの保護者がずらずらと並ぶグラウンド脇まで行く途中、ふーみんがぽそりと言った。
「私服デートみたいだね」
その瞬間、入念に塗った日焼け止めは全く意味なかったんじゃないかというくらい汗が噴き出た。
これ、デート?
確かに、平日は制服着用が義務付けられていた中学時代に、誰かと二人で私服で並ぶ日はいつだってデートだった。友だちと出かけるときは三人以上だったから。
これ、デートじゃん。
そう思ったとき、過去に二人いた彼氏がしてきたようにふーみんの手を取って指を絡ませた方がいい気がしたけど、手汗を分け与える気色悪い事象を起こすのが目に見えていたので止めた。かわりに「双子コーデみたいだしね」と言ったら、ふーみんは顔をくしゃりとさせ、「諒香ちゃんのシャツは良いやつでしょ。私のは中二から着てるやつだから。というかデートとか調子乗ったよね、ごめんね」と謙遜した。
競合校の男サカのプレーの特徴を、周りに怪しまれないようメモしながら、私は手帳の端に「デート◎」と書き込んだ。
八月上旬には合宿があり、最終日の夜という僅かな休息時間に、民宿の畳の大部屋に集まって団らんしていた。男子は数えるのも面倒なほどいて、女子は先輩マネ二人と一年マネ二人だけ。この光景を見たら「オトコ目当て」と言われても仕方ないと笑いそうになったし、実際、こういう気の抜けた場面での態度に本質は現れるので、男子勢の気遣いの仕方や目線の行先を確認するのには良い機会だった。
男くさく籠もり切りの練習にさすがに疲弊していたのか、男子勢は女マネ四人に話を振り出した。
「諒香って彼氏いないよね?」
「いなーい、好きな人ほしーい」
「ふーみんは?」
「そりゃいないよ」
この頃、ふーみんは私と同じくらいに部員と打ち解けていたけど、こうして部屋着や寝間着の男子に囲まれる場には臆していたのか、小さくなって私の斜め後ろにいた。ここで「いるよ」と言われていたら私は誰よりも「うそっ」と大声をあげていただろう。
そのとき、康太先輩がふーみんに半笑いを向けて訊いた。
「じゃあさ、俺らの中で一人選ぶとしたら誰がいい?」
私は、訊くなら私じゃないのかよという苛立ちも忘れ、反射的にふーみんの前に腕を出した。
「ふーみん困っちゃうので止めて下さーい」
「え、そう? ふーみんどう?」
食い下がるんかいと思いながらふーみんをちらと見やると、やっぱり口元に戸惑いを浮かべていた。私は、いやそれを言うなら私を彼女にしたい人だーれでしょと冗談を言おうとした、のだけど、いつの間にかこう言っていた。
「ふーみん、選ぶとしたら私だよねー」
だって私がいつも一番近くにいるもんね、と純然たる事実を思えば自然と口角が上がった。ふーみんはパッと顔を明るくして私を見つめ、並びの良い歯を見せて「うん!」と答えた。
そのとき、それなりに走り回って重いものを持って立ったりしゃがんだりした四日間の疲れが吹っ飛んだ。その証拠に、だんだんと寝落ちしていく部員のうち、私が最後まで起きていて、夜でも一匹だけ元気に鳴いている蝉の声を聞いていた。
十月の文化祭で男サカは毎年お好み焼き屋を出店しており、マネージャー陣で看板を作ることになった。グラウンドの隅にビニールシートを敷き、ジャージ姿で四つん這いになって、刷毛で木材にペンキを塗っていたら、落ちてきた髪を耳に掛ける際に付いてしまったのかふーみんの頬に水色が付いていた。
「ふーみん、ペンキ付いているよ」
「あら」
ふーみんは手の甲で頬を拭った。ガサガサした感触でわかったのか、「まだ落ちてないよね」と言った。
「うん、落ちてな――」
「えいっ」
ふーみんは不意に人差し指を刷毛に付け、手を伸ばしてきて私の頬を触った。ぷにっとした感触があり、頬の一点が少しだけ冷たくなった。私の頬にも水色が付いたのだとわかったとき、ふーみんは照れくさそうに、でもとびきり無邪気に笑った。
「おそろい」
ペンキを頭から被って一緒に水色まみれになって空に飛んでいこうと言われたらすぐにそうする、と思った。つまり決定打であり、自覚だった。
*
そして高二の五月、今年もふーみんと違うクラスになって落ち込んだ日から一ヶ月が経った。
男サカの練習が終わって二人で帰路につき、今日配られた進路調査票についての話題になった。いちおう進学校なので進学を前提に、「ふーみんは志望校決まってる?」と訊く。
「必死に頑張らないといけないけど、W大かなあ」
「W大か。チャラい人も多いだろうし心配だな」
言ってから、ふーみんの志望校を即座に貶すような形になったのに気が付いて「ごめん」と謝ったら、ふーみんはふにゃりと「やっぱりそのイメージあるよね。心配してもらえて嬉しい」と笑った。可愛い。
「そりゃ心配するよ」
だって私の志望校にはW大、入ってないもん。変なやつが付きまとわないか見ていられないもん。今は、男サカ部員や他の男子がふーみんに変な言動をしてはいないとウォッチしてられるけれど。
「諒香ちゃんはきっと推薦取れるよね。一緒の大学には行けないなあ」
曲がり角のカーブミラーを見ながらふーみんが言う。顔を見せてよ、と思う。寂しそうに言ってくれてるけど、本当は離れたくて口元が緩んでいない? 本当に寂しい?
「寂しいよ」
心の声に返事をされて、今までの「好き」も全部知られていたのかと思って一瞬世界の滅亡を願いかけたけど、どうも気づかずに私が「本当に寂しい?」と声に出していたらしい。
「でもあと二年もあるから。一緒に過ごせる日が」
ふーみんはまたふにゃりと笑った。私も、まだまだたくさんのふーみんを見られるのだと考えれば、それだけで十分――とは言えなくて、もう離れ離れになるのが辛くなってしまうくらいに、もしふーみんが男サカの誰かを好きになったらあと二年地獄じゃんと思うくらいには、ここにいる四十八キロの質量を持った彼女が大事なのだった。
「ふーみんはいつもニコニコしてくれてるよね。でもほんとは辛いってこと、ない?」
もっと彼女の内を知ってみたくて訊いてみる。ふーみんは正面のコンビニの看板に視線をやった。目尻は垂れたままだけど、口元が少しだけ、たぶん私しか気づかないくらい少しだけ下がったようだった。
「それがねえ、ないんだ。一年間、ずっと不思議だよ。ふーみんってあだ名をもらえて、諒香ちゃんみたいな子とこんなに仲良くなれて。私なんて……ね……なのに。反動が来ないか心配になるくらい楽しいよ」
角を曲がって駅が見え、ふーみんは自嘲気味に小さく息を吹いた。今すぐふーみんの手を取って走りだし駅にちらほらと流れていく人たちの合間を縫って知らない地名が終点になっている電車に飛び乗りたくなった。でもふーみんが困っちゃうから堪えて、歩きながら彼女の顔を覗き込む。
「反動なんて来ないよ。万が一来ても、私が押し返す」
ふーみんは鈍色の黒目を丸くした。それから私を見据える。
「ありがとう、諒香ちゃん」
この、少し見上げる形になる首の角度がいつも可愛い。
しかし反動は私に来たのだった。
男サカの三年生、康太先輩がふーみんに告白した。過去の行いとか一族の呪いとかの告白じゃなくて、恋愛感情を向けているという告白だ。康太先輩は男サカ部長だし校内でもそれなりに目立つ人物で、その彼が同学年の人間ですら「あー、あの子か」と思い出すのに時間がかかるような人物――失礼な話だ――であるふーみんに告白したというのは大きなニュースになった。もちろんふーみんが口外するはずもなく、噂は康太先輩の友だちから広がった形で、私は男サカ部員から「返事は保留になってるらしいよ」という情報と共に聞いた。その日の部活は手指の先に血が行っていなくて、いつもより浮かない顔をしているふーみんを気が気でなくちらちら窺っていた。浮かないといっても時おり視線が落ちたり表情筋から力が抜けたりするくらいで、グラウンドには康太先輩もいるから気張っているのか、いつも通りニコニコはしている。
元々、男サカの彼氏を作りたくて入った部活だ。だから一年前の私なら「何で私より先にふーみんが告られるわけ」と憤慨するか、「どうせあっちも女マネの彼女がほしくて告白してみただけでしょ」と理由をでっちあげていたかもしれない。けれど今は、私の心の二割を「康太先輩、見る目あるじゃん」が、八割を「絶対に付き合ってほしくない」が占めていた。
いつも通り二人で帰路につき、校門を出てすぐの横断歩道の待ち時間に、ふーみんがもごもごと切り出しづらそうにしていたので、私の方から「康太先輩のこと聞いたよ。保留にしてるんだよね。考えてみて、しっくり来たら付き合ってみる感じ?」と訊いてみた。下手したら私が康太先輩を狙っているか、現状部内恋愛のない男サカの治安を保ちたいという使命感があるかどちらかに取られそうだったけど杞憂で、ふーみんは今まで見たことないくらい俯いてしまった。
「実は、付き合う可能性はほぼないんだ」
両腕の筋肉に電流が走ったような感覚がしたあと、ガッツポーズをしそうな衝動だったと気づく。中学でバレー部に入っていたとき以来の感覚だ。
「好きじゃないのに付き合ったら康太先輩の時間を浪費させるだけだしね。でも私なんかがすぐに『ごめんなさい』って言ったら先輩を傷つけるでしょう。だから一度考えさせてくださいって言っただけなんだ……」
そっかそっか、という相槌に喜びが滲まないよう気を付けつつ、「ふーみんの、人に正直なところ、僅かでも傷つけたくないと心掛けているところ、素敵だよね」と言う。信号が青になり一歩を踏み出したふーみんは「そう言ってもらえるのは嬉しいなあ」と呟き、吹いた風に細い髪を靡かせながら、「でも私は素敵じゃないよ。もしかすると好きじゃなくても付き合ってみる方が康太先輩は嬉しいんじゃないかとわかりながらも、それよりも諒香ちゃんたちといたいって思っちゃってるから。つまり私も時間を浪費したくないんだよ。わがままだよね」
それがわがままではなく友情の象徴だというのは、康太先輩の知らないふーみんの髪の柔らかさを私が知っているという事実が物語っている。
そして翌日、ふーみんが康太先輩に返事をする隙も与えられないうちに、事件は起こった。
「諒香、ふーみんが三年に絡まれてる」
教室に飛び込んできた友だちと入れ違いの勢いで席を立って廊下へ飛び出した。その子は該当の場所も訊かずおそらく血相を変えて廊下を駆けていった私を見てどう思っただろう。たいへんな友だち想いだと考えたか、鋭い子だから私の気持ちに気づいたか。気づかれていてもいい、と頭の隅で叫びながらざわついている廊下を行くと、トイレの前に、三年の女子三人と、しょんぼりと小さくなっているふーみんが向き合っていた。心配そうな二年が集まってきていて、わざわざ一階から来ている三年の野次馬たちもいた。三人の先輩の先頭にいるのは以前から康太先輩を好きだと公言している藍子先輩だった。それこそつよつよ女子である。ふーみんが康太先輩に告白されたと聞いたとき、藍子先輩が何らかのモーションを掛けてこないか懸念していたけど、まさかこんな大っぴらに。
「あのさ、康太のこと好きじゃないなら早く断ってくれない? 時間がもったいないから」
既に何度か康太先輩にフラれているというのにこの口調でそう言えるのはすごい。
「すみません……」
「それか本当に付き合おうとしてるの?」
謝らなくてもいいのに頑張って謝ったふーみんを遮るかのように藍子先輩は続ける。
「はー……それなら本望だろうね。どうせオトコ目当てで男サカマネになったんでしょ? 私を押しのけて康太を手に入れられて計画通りじゃん。でも身の程はわかった方がいいからね」
ふーみんに彼氏が出来るのは嫌だ。
でも何も知らないやつにふーみんがそんなふうに言われるのはもっと嫌だ。私は知っている。あの純粋さも、優しさも、可愛さも。
気が付けば人を押しのけて、私は藍子先輩と対峙していた。背中に「諒香ちゃ」と消え入りそうな声が投げかけられる。
「選択する権利はふーみんにありますし、康太先輩が好きになった人を貶めるような言い方は康太先輩も傷つけると思うんですが」
「ああ……男サカマネの。関係ないのに入って来ないでくれる?」
私のこともリサーチ済みだったらしい藍子先輩は、私のつむじからつま先までを見て、鼻で笑った。
「なるほど、近くで見るとやっぱりね。あんたこそオトコ目当てに男サカマネになったでしょ。残念だったね、先に佐原さんに取られて」
「ええそうですよ」
間髪入れずに放った言葉に藍子先輩は意表を突かれたような顔をした。
「男サカの誰かを彼氏にしてつよい女子になるために入部しました。でも今はサッカーが好きだし、ふーみんが好きだし、ふーみんと楽しくマネージャーやりたいんですよ。ふーみんと康太先輩に付き合ってほしくないけど、ふーみんの選択は尊重したいんですよ。だからほっといてくれませんか。あなたの方が関係ないでしょ」
藍子先輩も、後ろの二人も怪訝な顔をした。周囲のみんなからも「え?」という空気を感じ取ったけれどもう今の私は向こうで何かしらの爆発音が聞こえても動じないくらいフローリングの床にしっかりと立っている。私の発言がふーみんにショックを与えていたとしても、今は彼女を守りたかった。
「それ、レズ?」
「そうだろうがそうでなかろうがどうでもいいです、ふーみんが好きなのは事実なので。というか初対面の人間にそんなふうに軽く訊けるような人間に何と言われても傷つきませんよ。藍子先輩がふーみんを傷つけてる方がよっぽど許せないです」
ちゃんと先輩を睨めてるし、声もぐらぐらせずはっきりしているのに、涙だけがぼたぼたと溢れてきた。ぐちゃぐちゃに泣いていて、こんなの全くつよつよ女子じゃない。人を本当に好きになるだけで泣く人間もいるんだなと他人事のように思う。
「諒香ちゃん」
またふーみんが名前を呼んでくれた。
「ごめんふーみん、サッカーが好きだから入部したって言ってたけどウソ。男サカの彼氏作るためだった。幻滅したよね。でもさっき言ったのはホント。今はサッカーが好きだし、ふーみんが大好き」
「わ、私がどんくさいからかもしれないけど、そんなの全くわからなかった」
振り向けなかった。でも、ふーみんの声色からは拒絶を感じない。
「諒香ちゃんは最初から私のサッカー話をたくさん聞いてくれたし、どんどん一緒に喋れるようになったし……それに諒香ちゃん、誰を彼氏にしたいみたいな話、一回もしなかったじゃない。幻滅する理由がないよっ」
ひときわ大きく言ってくれたのがトリガーになって、私はメイクがべちゃべちゃに落ちているだろう顔で振り向く。ふーみんは一生懸命にこちらを見てくれていて、それだけでなく、両腕を広げてくれていた。私はもう遠慮も戸惑いもなくその腕と腕の間に体を滑り込ませ、ふーみんの柔らかい髪に、涙と落ちたマスカラやシャドウが付くのを申し訳ないと思うのも忘れて力いっぱい抱き着いた。
「ふーみん、超優しい、超好き」
ふーみんが抱きしめ返してくれる。怒りが幸福感に塗り替えられていく。私はこの子が好きだ。大好きだ。
「藍子先輩、私、康太先輩とは付き合いません。ちゃんと返事します。だから安心してください」
私の顔の隙間からかろうじて藍子先輩たちが見えているのか、ふーみんは声の震えを抑えながらといった調子で言った。
「なんなの、これ。もういいよ」
捨て台詞を吐きながら藍子先輩たちが去って行った気配がする。二年のみんなや三年の野次馬はまだ私たちを囲んでいるみたいだけど、そこと隔絶された空間にふーみんと二人で存在しているような気分だった。
「ふーみん、私のこと好きになってとは言わない。でも、これから、ふみって呼んでいい? ふーみんってみんなに呼ばれてるふーみんは可愛いけど、私は誰よりも超可愛いと思ってるって伝えたいから、ふみって呼びたい」
「うん、うん。私も諒香って呼ぶ?」
「ううん、みんな諒香って呼んでるから、ふーみん……ふみからは諒香ちゃんがいい」
「へへ。あのね、まだ諒香ちゃんのことが好きなのかとかはわからないけれど……」
「そういう正直なところ、大好き」
「ふふ、ありがとう。でも、これだけは今、わかった。私はサッカーが好きな人に出会うために男サカに入部したけど、本当は諒香ちゃんに会うためだったのかも」
「……可愛すぎる!」
ふみをひときわ大きく抱きしめた。どこかから拍手が聞こえて、二人で笑ってしまった。
男サカのことは好きだ。部の雰囲気も良いし、同学年は話しやすいし先輩は良い人たちだしこの前入部してきた後輩たちも健気そうだ。応援したいし、どこまでも勝ち上がって行ってほしい。そのためにマネージャーとしてやれることは全部やりたい。私の高校生活に彩りをくれて、感謝している。
だけど一番感謝しているのは、ふみに会わせてくれたことだ。男サカが試合に負けても、ふみと一緒に泣けるなら明日も頑張れる気がする。なんて部員のみんなには失礼か。でもふみがいればそれでいいっていうのが本音なのだ。いつかふみもそう思ってくれれば、この上なく嬉しい。なんて贅沢か。
十年後、ワールドカップの中継を見終わった午前二時のベランダで、クラフトビールを飲む私たちを瞬く星が見下ろしている日が来ることを、高校二年生の私たちはまだ知らない。
〈終〉
男サカマネージャー完結型恋愛 青葉える @matanelemon
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