マジティスト 〜魔法を科学する原初の観測者〜

ショウ=ヘイ

マジティスト 〜魔法を科学する原初の観測者〜

「はあーあ」


 アストリッド・カランは机に額を押しつけため息を吐いた。


『一時間での嘆息数52回、身体負荷指数が通常の1.3倍です。内科疾患か感染症の可能性があります』


 端末横の小型デバイスから低音が響く。

 ARC支給の研究補助AI、リプトだ。


「いや、これはただのストレス」

『そうですか。では、ストレス緩和モードAを実行します』

「なにそれ?」

『「大丈夫です。あなたならできます、アスタ」』

「棒読み!」

『感情音声モデルを導入していませんので』

「……まあ、気持ちだけ貰っておくよ」

『AIに感情はありません』

「私の感謝を返せ」


 再び机に額を押しつけ53回目のため息を吐く。

 冷たい机の感触が心地よい。


 端末に表示されているのは、ARC査読ネットワークからの無慈悲な通知。


『論文ID:AR-2250-08』

『判定:棄却』


 論文内容は、ラット実験で一度だけ観測された異様な魔素マソ波形について考察したもの。

 これで棄却された論文誌は四誌目。

 何度やってもすり抜けていく感触が、掌に残り続けている。

 "棄却"の文字が、わずかに濁って見えた。


「で、査読結果に対するあなたの見解は?」

『至極妥当な結論です。統計的有意性が0.127と再現性不足。人間査読も、生体—魔素共鳴は倫理規格M-12に抵触するため公表は非推奨。誰でも同じ結論に達するでしょう』

「うん、知ってた」


 ただし、とリプトは一拍置いて続けた。


『恐怖刺激直後に観測された2.31秒間の脳波と魔素波形の高位相同期現象については、興味深いとも思います』

「……あれ、前は論外って言ってなかった?」


 想定外の返答にアスタは顔を上げた。


『あなたが頻用する評価語”綺麗”や”面白い”を、新たに補助指標として統合した上での見解です』

「それ褒めてないよね」

『あなたに最適化した結果です』

「つまり褒めてないんでしょ」

『ノーコメント』


 ジト目を向けてやるが、それが通じる相手でもない。

 諦めてリプトに解析結果を表示させた。

 60本の波形中、ひとつだけ異様な反応を示す個体。


 ID#47。

 この個体だけ、脳波と魔素波形の周期が完全に同期していた。


「やっぱり、おかしい」

『試行中、唯一の共鳴反応です』


 アスタは腕を組んで画面を見つめた。

 何度分析しても、周囲の者には外れ値扱いされたデータ。

 だがどうしても、このデータを捨てきれなかった。


「リプト。今のあなたなら、これをどう分類する?」

『外れ値です』

「それだけ?」

『美しい外れ値です』

「さすが、私に最適化しただけある」

『あなたとの対話効率が、この1週間で12%向上しました』


 と、端末に新しい通知が入った。

 ウィンドウが展開し、学部時代からの友人、相原星璃亜セリアの顔が浮かぶ。


『アスタ、今日も徹夜?』

「論文、棄却された」

『やっぱり。あのラット実験でしょ? ずっと再現性が取れないって言ってたやつ』

「そう。せめて人間査読の方だけでもって思ったんだけど」

『AIだと容赦ないもんね。ほら、"2秒で心を折るスピード採点"』

「今回は長考してくれたよ、3秒も」


 同時に二人は笑みを浮かべた。

 少しだけアスタの肩の力が抜ける。


『でもさ、少しでも可能性のあるデータって、現場の人間としては捨てたくないんだよ』

「ならもっと拾えばいいのに」

『それはそれ。説明できない反応ほど扱いが難しくなるの。患者の命に関わるから』


 アスタの言い分も分かるけどね、というセリアの言葉が、どこか遠くに聞こえた。

 思わず唇を噛む。


「説明できないものを脳死で外れ値扱いされるのが嫌なんだよ」

『ほんと、理屈より感覚で動くタイプね。研究者のくせに』

「うるさい」


 そう言いながらも、セリアの眼差しはどこまでも優しかった。


『でも、それでいいんじゃない。あんたらしいしさ』


 数分後、セリアからの通話が終わると、部屋に静けさが戻る。

 さっきよりも少しだけ、気が楽になった気がした。


「さて、こっちも再開しますか」


 ID#47の再解析を始めようとしたその時、ポンッと通知音が鳴った。

 差出人は指導教員のリャン教授。

 内容は、論文に対する短いコメントだった。


『魔素と情動を結びつける研究は危うい。もっと堅実に』


 小さく息を吐いてから、アスタはメッセージを閉じた。

 否定の言葉ばかりが胸に積もる。

 数日前に同期のカイル・モローが言った言葉を思い出す。


『再現できない現象は、科学じゃなく芸術の領分だろ』


「……どっちも、正しいんだよね」


 胸の奥がわずかに重い。

 立ち上がったアスタが、窓の光透過率を100%にした。

 魔素照明に照らされたキャンパスが一望できる。


 魔素は200年前に発見され、動力源として文明を大きく発展させた。

 だがその実態は今も不明。

 100年前には人体実験で悲劇が起き、以降"生体と魔素の共鳴"は国際的に禁じられた。


「ねえ、リプト。人間が魔素と直接共鳴できたら、どうなると思う?」

『倫理規格E-32に抵触します』

「仮定の話だよ。100年前の実験とは関係ない」

『回答権限がありません。国際魔素規制法I-MRの違反リスクがあります』

「……共鳴自体が悪いわけじゃないのに」


 夜の歩道を小さな影が走っていた。

 5歳くらいの子供だ。

 その子は何かに躓いたのか、道端で転んでしまう。

 すぐに救護ドローンが滑降し、駆けつけた母親がその手を握った。

 自然と、自分の手を握るアスタ。

 その温もりが、そっと優しく体を包み込んだ。


「分からないまま放置する方が、私は怖い」


 数秒の沈黙の後、リプトが低く応じる。


『あなたは科学者には向いていません』

「ひどっ」

『ですが、探求者には向いています』

「……褒め言葉と受け取っておく」


 解析画面を閉じ、端末を休息モードに変更する。


『よろしいのですか?』

「うん、なんか疲れちゃって」

『必要ならストレス緩和モードBも実行できます』

「興味ない」


 と、画面の光がわずかに滲んだ。


「……今の、ラグ?」

『異常は検出されません。知覚側の遅延である確率が99%です』

「……気のせいか」


 そう呟いて、部屋を出た。

 扉が閉まる瞬間、室内の灯りが通常時よりも僅かに遅れて消えた。



 数日後の深夜二時過ぎ。

 アスタは机に突っ伏した姿勢のまま目を覚ました。

 端末にはID#47の波形が表示されている。

 また、データを見ながら寝落ちしたらしい。


「……スライド、やんなきゃ」


 本日参加する技術フォーラム。

 ここで追加データを一つでも示せれば、少しは認められるかもしれない。

 そう思い実験を重ねたが、ID#47のような反応は、一度も再現できなかった。


 しかし、いつも以上に静寂さを感じる。

 消灯した照明がそう感じさせるのだろうか。

 研究棟の空気は冷えていて、耳の奥がやけに静かだ。

 疲労のせいか、鼓動ばかりがよく聞こえる。


 これだけ纏めたら帰ろうと自身を鼓舞する。

 眠気覚ましにコーヒーを挽こうと椅子から立ち上がった、その時。


 実験室からかすかな金属音がした。

 ラットのケージが揺れるような、細い音。

 アスタは眉をひそめた。


 ——掃除ロボ?


 だが、いまは正規の清掃時間ではない。

 小さく首を傾げ、アスタは実験室へと向かった。

 タッチパネルに触れると、やわらかな駆動音とともに扉が開く。

 だが、自動照明は落ちたまま。

 廊下の光が、手前の台の縁だけを薄く浮かび上がらせる。

 暗い室内。

 その奥に——いた。


 無機質な仮面。

 黒い作業服。

 しかしその輪郭は、肩の線が異常に盛り上がっていた。

 どこか人体の作りから外れている。

 指先が宙に触れ、そこに浮かぶはずのウィンドウを操作している。

 作業に集中しているのか、こちらに気づく気配がない。


 一瞬、状況が理解できなかった。


「……あの」


 声をかけた瞬間、影が振り返る。

 仮面の奥に隠れた目が、一瞬震えたような気がした。

 影は何も言わず、右手に持ったデバイスをアスタへと向ける。

 黒く重いデバイスが青い光を収束させていく。

 そのデバイスの名を理解した途端、背筋が冷たくなった。


 ——魔弾銃。


 反射的にしゃがみ込む。

 視界の端で弾ける光。

 背後の壁が、内部から焼けたように黒くひび割れ、近くの照明パネルがふっと消える。

 頭で理解するより早く、アスタは廊下へと飛び出していた。


「セ、セキュリティ起動! 侵入者、魔弾銃を所持!」


 走りながらAIセキュリティに向けて叫ぶ。

 息がすぐに上がる。

 喉が焼けるように痛い。

 AIセキュリティが応じかけ──

 途中で、声が途切れた。


『外部アクセスを検出。セキュリティシステム、停止中』

「う、嘘でしょ⁉︎」


 これでは全ての出入口が動かない。

 逃げ場が、ない。


 背後から迫る重い足音。

 歩く音の間隔が、ほんのわずかに乱れている。

 速度は遅い。

 だが、確実に接近してきている。


 魔弾銃に魔素が集約される音が響く。

 廊下の角を曲がった瞬間、背後で魔弾が弾けた。

 熱風が頬をかすめる。

 と、目の前の壁面ロックが青白く光り、静かな破裂音がした。

 実験機材室だ。

 電子ロックが焼き切れ、扉が勝手に開く。

 咄嗟にその扉へ体を滑り込ませる。

 近くの重い棚に体当たり。

 即席のバリケードを作る。

 鉄とガラスが床で跳ねる音が、やけに遠く聞こえた。


「おち、落ち着け」


 心臓が暴れている。

 息がうまく入らない。

 手足が細かく震えている。


「状況、状況の……整理、を……」


 声を出さないと、パニックで思考がちぎれそうだった。


「敵は……ひとり。目的、は……ローカルデータ……の奪取。あとは……あとは……ああもう、落ち着けってば!」


 声に出すたびに喉が震える。

 足を何度も叩くが、震えは一向に収まらない。


 と、爆音とともに、扉が弾き飛ばされた。

 即席のバリケードが崩れていく。

 棚の残骸を乗り越え、あの影が姿を現した。

 慌てて後退るも、すぐに壁にぶつかってしまう。

 冷たいコンクリートの感触が背中に張り付く。


『動くな』


 くぐもった声。

 銃口が真っ直ぐにアスタを捉える。


『データ……消去……しろ。魔素……生体の共鳴……全て』


 暗闇の中、仮面の下の輪郭がわずかに歪んで見える。

 呼吸音は異様に静か。

 生きているのに、機械のよう。


「な、なんで……私、の……研究……?」


 銃を持つ手に力が込められる。


『お前の研究……兵器の種』

「わ、私……そんなつもり……ない」

『黙れ』


 その声には痛みと怒りが滲んでいた。


『100年前……お前達……平和のため……人、魔素の器……した。失敗したら……殺した。……皆……皆』


 言葉が途切れる。

 銃を構える手は僅かに震えていた。


『もう……終わらせる』


 侵入者の震える声が胸に刺さる。

 ここでデータを消せば、助かるかもしれない。

 相手の言い分も、断片的になら理解はできる。

 喉がひりつくほど怖い。

 脚も震えて動かない。


 ……でも。


「ごめんなさい。それは……出来ない」

『……残念』


 侵入者の指が引き金にかかる。


 その瞬間——空間がわずかにねじれた。


 音が遠のき、光の縁が滲む。

 銃口の奥で青白い光が渦を巻き、細い流れとなって染み出していた。


 ——なに、これ?


 粒でも波でもない。

 空気の隙間で、光の筋が揺れる。

 脈拍と視界の流れが、同じ周期で揺れる。


 ——この同期、知ってる。


 ID#47。

 恐怖刺激の直後に一度だけ現れた高位相同期。

 今も、体の奥と外の流れが不自然に重なっている。


 ——もしかして……魔素?


 思考がまとまる前に、魔弾が放たれた。

 青白い光が一直線に走る。

 逃げ場はない。

 避けられない。


「やだ!」


 反射的に両手を突き出した。


 ——胸の奥で、何かが弾けた。


 周囲の光の流れが渦を巻き、空間が押し広がる。

 侵入者の銃が悲鳴のような高音を上げ、内部から破裂した。

 衝撃波が身体を吹き飛ばし、背中が壁に叩きつけられる。

 視界が白く塗りつぶされ、音が消えた。

 そこで、意識が途切れた——


「——っ、は……」


 焦げた匂い。

 青い警告灯。

 視界の先で、仮面の侵入者が警備ロボに押さえつけられていた。


「気が付いたか」


 声が、少し遅れて耳に届いた。

 見上げると、刑事らしき男が立っている。


「魔弾銃が暴発したらしい。命に別状はない。運が良かったな」


 ——運。


 アスタは震える手を見る。

 光り輝くあの渦は、もうどこにもなかった。


 ——本当に、暴発……?


 と、耳元のAR端末からアラームが鳴った。

 8時23分。

 何の知らせだったか、すぐに思い出せない。

 震え指先でスケジュールを開く。

 濁った意識に、一つの文字が刺さった。


「あ……」

「どうした?」

「……行かないと……」

「行くってどこへ? 君の場合まずは病院へ——」


 そのとき刑事の端末が鳴った。

 確認する刑事の顔がみるみる険しくなる。


「あの侵入者、どうやらノウスの構成員らしい」

「……ノウス!」


 ——ノウス。

 100年前の魔素人体実験で異形化した被験者が結成した組織。

 魔素の人体利用に激しく反対し、研究施設への襲撃を繰り返す過激派だ。

 ニュースで何度も目にしている。


「君をARC管理区域から出すな、だとさ。証人の保護が理由だそうだが、釈然としないな」


 ARCの管理区域という言葉が、胸の内にひっかかる。

 けれど同時に、別の感情が押し上げた。


「……私、発表があるんです……。一時間後、魔素技術フォーラムで……」

「ARC主催のあれか?」

「はい」

「だが」

「お願いします」


 頭を下げるアスタに、刑事が動きを止める。


「今日しか……発表できないと思うので。だから……」


 刑事の視線が、一瞬止まった気がした。


「……病院は一般客が多いし、大学は論外。だがフォーラム会場なら……」


 刑事の呟きに、アスタは瞬きを忘れた。


「体に違和感は?」

「……ありません」


 刑事は深く息を吐き、額を押さえた。


「わかった、俺が同行する。ただし、勝手な行動だけは絶対にするな」

「……努力します」


 アスタはゆっくり立ち上がり、待機していた自動走行車へ向かった。

 恐怖も、痛みも完全には消えていない。

 耳の奥に、魔弾の破裂音がまだ薄く残っている。

 それでも……。


 ——ここで逃げたら、あのデータは2度と表に出せない。


 そう直感していた。


 ARC主催の魔素技術フォーラム。

 企業、大学、行政が一堂に会する一大イベントだ。

 会場の至る所で〈AIによる安全な魔素管理〉のスローガンが流れている。

 と、ステージからカイルの声が響いてきた。


「——このように、魔素センサーの出力から外れ値を捨てることで、より高効率・高精度な学習が可能となります」


 スライドの上で、外れ値が無造作に消されていく。

 相変わらず、私とは真逆の発想だ。

 アスタは視線を手元の端末へ落とし、教授からのメッセージをもう一度読む。


『発表は止めない。ただし、終わり次第すぐに警察の保護下に入りなさい』


 静かな叱責と、隠しきれない心配が滲んでいた。


『次の発表者は、アストリッド・カランさんです』


 呼び出しが響く。

 胸がざわつき、足の震えが伝ってくる。


「本当に大丈夫か?」


 同行していた刑事が小声で問いかける。


「……はい」


 アスタは息を整え、足を前へと押し出した。

 通路の光が照らすたび、背後の気配が纏わりついてくる。

 それでも足を止めず、ステージへ向かった——


『——こちらが異常値を発生させたラットの脳波と魔素波形の相関図です』


 スポットライトがアスタを照らす。

 囲む無数の視線。

 スクリーン上に、ID#47の波形が表示される。

 LIVE配信用撮影デバイスの焦点が、スクリーンに合わせられた。


『ご覧の通り、恐怖刺激直後に高位相同期が観測されました』


 静寂。

 誰かのペンが止まる音。

 別の誰かが、小声で批判する気配。

 分かっていた。

 再現性のない観測値への反応など、こんなものである。


『この一例を外れ値として処理するのは容易です。しかし——』


 その時、床を跳ねる硬い音が響いた。


「伏せろ!」


 突然の声にアスタが反射的に身を縮め——


 爆音と共に、視界が一気に白く染まった。

 暗がりから現れる黒いローブの男。


 刑事がアスタの前に躍り出る。


「何者!?」


 男のローブがバサッとはためく。

 次の瞬間、刑事の身体は支柱へ叩きつけられていた。

 崩れ落ちる衝撃が、床越しに伝わる。


 声が出ない。

 足が地面に縫いつけられたように動かない。


 ——逃げなきゃ。


 そう思うのに、膝が勝手に崩れ、アスタは舞台に倒れ込んだ。


『警戒モード。脅威度ステージ4に移行』


 警備ロボがステージに急行する。

 直後、別の黒装束が飛び掛かり、金属音とともにロボを蹴り倒す。

 機体が床に転がり、赤い光が消えた。


 霞む視界の端で、人々が出口へ殺到する。

 悲鳴と怒声が混ざり合い、会場全体が揺れる。


 ——ガチン。


 出入口が閉鎖され、赤いランプが点滅する。

 逃げ場を断たれた会場にざわめきが広がる。


 通路の影から黒装束が数人現れた。

 舞台袖、客席の奥。

 暗がりにいた全員が一斉に動く。

 装甲の青い紋章が薄く光り、円を描くようにアスタ達を囲む。


 そして——


 円の中心に、ローブの男が進み出た。

 裂けた袖から覗く灰色の鱗。

 関節が二重に折れ曲がり、人の形から外れている。


 空気が急速に冷えていく。

 声が吸い込まれるように静かになる。


 ローブの男は舞台のマイクに手を伸ばし、ゆっくりと掴んだ。


『——我々はノウス』


 機械のように冷たい声。


 会場中の撮影デバイスが一斉に赤く点灯する。

 逃げ惑う観客と怯える研究者達の姿が無慈悲に中継されていく。


『見よ。この映像を見る全ての人々よ』


 ローブ男の声が会場全体に響く。


『科学はまた、人を道具にしようとしている!』


 銃を構えた異形の腕が、アスタの方をまっすぐに指した。


『アストリッド・カラン』


 名前を呼ばれた瞬間、心臓がひどく跳ねた。


『この者は、100年前と同じ過ちを繰り返そうとしている。我々はそれを決して許さない』


 群衆が息を呑む気配だけが、やけに鮮明に届く。


 視界は戻っている。

 だが、肝心の手足が言うことを聞かない。

 立ち上がるだけで精一杯だ。

 呼吸が浅い。


『警告はした。だが、この者は聞かなかった。よって——』


 一斉に、複数の銃口がアスタに向けられる。

 照明の反射が銃身を閃かせる。


 全部分かっていた。

 危険で、無茶で、愚かだと。

 刑事さんも教授も、すごく心配してくれていた。

 止められていたのに、それでも来た。


「……ほんと、外れ値って引けないものね」


 震えながら、苦笑にもならない声が漏れた。


『この者を見せしめとする』


 ローブの男が腕を上げ、複数の魔弾が火を噴いた。


 ——避けなければ死ぬ。


 分かっていても、足は動かず膝が砕けるように沈む。


 青白い閃光が視界を裂き、右腕、次いで左脚を撃ち抜かれた。


 熱い。

 いや、感覚がない。


 床が迫り、肺が軋む。

 息が途切れ、世界が滲む。


 死にたくない。

 まだ、何も分かっていない。

 まだ、何も証明できていない。


 ——まだ、死ねない。


 視界が揺れ、呼吸が乱れ、胸の奥がざわりと震る。

 その震えに触れた瞬間、襲撃時の感覚がかすかに蘇った。

 魔弾が放たれる直前、身体の奥で走ったあの妙な震え。

 あれと同じだ。

 理由は分からない。

 ただ、今も同じ軋みが胸の内側に潜んでいる。


 ——今なら、見えるかもしれない。


 そんな考えが小さく灯った。

 恐怖と激痛で思考がちぎれそうになる。

 少しでも平静を保とうとアスタは目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。

 喉が震え、肺が軋むように膨らみ、胸の奥の震えがわずかに強く脈を打つ。

 ゆっくりと目を開けたとき——


 世界の輪郭がほどけていた。


 ——見えた。


 魔素が、見えている。

 空気中にも、客席にも、自分の身体にも。

 さっきまで霧のように滲んでいたものが、線を描くように流れていく。

 美しい、とさえ思うほどに。

 左手で右腕を押さえると、周囲の流れが微かに震える。

 乱れた呼吸を意識的に整えると、魔素の軌跡が安定していく。


 ——私の状態に合わせて、魔素の流れが変化している?


 床が軋む音がした。

 ローブの男が、ゆっくりとステージに上がる。

 銃口が、アスタの額に向けられた。


『見ろ、この者の末路を。科学が再び人を道具にしようとした時、世界がどう応えるかを!』

「……待っ……て」


 声は掠れていた。

 だがアスタは、折れそうな膝をゆっくり持ち上げる。

 激痛。震え。恐怖。

 すべて残っている。

 それでも、立ち上がった。


「あなた達の痛みは……分からない」


 空気がわずかに震えた。

 魔素の流れが乱れ、ざわめいた。


「でも……だから調べるの。壊すためじゃない……助かるかもしれない誰かのために!」


 言葉が零れた瞬間、空気の膜がずれ、魔素の流れがざわりと震えた。

 ステージ上に散っていた青白い流れが、鼓動に合わせて脈を打つ。


 ——今なら、再現できそう。


 アスタは倒れそうになる身体を抱きとめるように、両腕を交差させた。


「動くな」


 魔弾銃の銃口が額に突きつけられる。

 それでも、アスタは止まらなかった。


 1回だけでいい。

 お願い、成功して。


 激痛が脳を突き抜ける。

 青白い流体が加速し、光の糸が渦を巻く。


「もういい。戦争抑止のための礎となれ!」


 引き金が引かれた。


 ——ここ!


 交差していた腕を、一気に左右へ払った。

 魔弾銃へ吸われていた魔素の流れに、周囲の渦が一気に合流した。

 銃身内部の光が膨れあがる。

 次の瞬間、デバイスが過負荷を起こし暴発した。


「なっ——!」


 爆風が会場を駆け抜け、火花が降る。

 ローブの男は吹き飛び、アスタも壁に叩きつけられた。

 音が消え、世界が遠ざかる。


 ——再現、できた。


 アスタの意識が、闇に沈んだ。



 目を覚ますと、右腕と左脚には包帯が巻かれていた。

 夕暮れのオレンジが点滴のチューブを透かし、機械の駆動音が静かに揺れている。

 どうやらここは病院らしい。

 ぼんやり瞬きをしたところで、扉の向こうから足音が近づいた。

 花束を抱えたセリアが顔を覗かせる。


「よかった、ようやく起きたのね」

「悪夢のあとみたい」


 乾いた喉を鳴らし、かすかに笑う。

 セリアは病室の端末を操作し、ニュース映像を見せた。

 フォーラム会場の映像。

 そして拘束されるローブの男と黒装束達。


『ノウス幹部を拘束。魔素研究フォーラム襲撃——死者ゼロ』


「あんた、よく生きてたね」

「運が、良かっただけ」


 口角をあげ笑みを浮かべようとする。

 だが、うまく動かせず引き攣った顔になってしまった。


「ま、生きてるならそれで十分」


 セリアは花を置き、少し声を落とす。


「刑事さんが言ってた。あの人達、ずっと変異と偏見を抱えて生きてきたんだって」

「だから、私の研究を止めに来たのか」

「うん。もう誰も道具にされたくなかったんだよ、きっと」


 短い沈黙のあと、セリアは微笑む。

 と、廊下の方で声が響いた。


『再現性がないのに称賛されるなんて、おかしい!』


 カイルの声だ。

 続いて教授の落ち着いた声が返る。


『彼女は外れ値を無視しなかった。ただ、それだけのことだ』

『外れ値なんてただのノイズじゃないですか!』

「賑やかな人ね」


 セリアが苦笑を浮かべる。

 アスタも肩を揺らして笑うしかなかった。


「で……研究は? どうせやめないでしょ?」


 アスタは照れたように笑う。


「……まあ。死なない程度にね」

「冗談で済まなそうなところが恐ろしいわ」


 セリアの声は、いつもより少しだけあたたかかった。


 退院の日。

 研究室に戻ると、リプトの端末が小さく光った。


『おかえりなさい。外部からの通信が多数到着しています』

「どうせフォーラムの話でしょ」

『はい。内訳は称賛11%、否定・誹謗中傷89%です』

「上等」


 少し間を置き、リプトが続けた。


『……ただ、一件だけ異常に熱量が高いものがあります』

「異常にってなに?」

『通常比3.4倍の反応強度です』

「え、怖いんだけど」


 リプトが開いたメールは、丁寧な書式のくせにどこか情緒がおかしかった。


『件名:フォーラムでのご発表について(至急)

アストリッド・カラン様


突然のご連絡を失礼いたします。

Aether Dynamics CTOのトーレン・キャッセルと申します。


先日の魔素研究フォーラムでのご発表と映像を拝見しました。

特にラットの脳波と魔素波形の共鳴現象について、

当社主任研究員が

「今年で最も理解不能だが、今年で最も価値がある」

と涙ながらに報告しております。


つきましては、一度1時間ほどお話の機会を頂けないでしょうか。

1時間が難しければ30分、5分でも構いません。

その際はこちらの情報密度を圧縮いたします。

なお、対面をご希望の場合は日本まで伺います。

航空チケットはすでに仮予約済みです。


ご検討いただけましたら幸いです。


Aether Dynamics CTO

トーレン・キャッセル』


「……なんだろう、この人」

『採用意欲が非常に高いと推定されます』

「いやそういう問題じゃなくて」

『あなたに興味があると解釈しました』


 アスタは苦笑する。


「そうかもね」


 リプトが静かに告げる。


『フォーラム実測値を統合した結果、査読システムが再評価を開始。あなたの仮説は否定困難に更新されました』

「あれ、天下のAI様がついに白旗?」

『そのように理解しても構いません。私は、あなたの判断を学習しました』


 アスタはふっと微笑んだ。


「ありがとう、リプト。……少しだけ報われた気がする」


 窓の外を見た。

 街路灯が正確なリズムで点いていく。

 そのうちひとつだけ、わずかに遅れて光った。

 アスタは静かに笑う。


「完璧じゃないから、面白いんだよね」


 白衣の袖を整え、彼女は歩き出した。

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