第4話 冷徹な希望
翌朝。
オフィスの窓から差し込む朝日が、残酷なほど明るくフロアを照らしていた。
会社の周囲には、まだメディアの喧騒が残響のようにこびりついている。
鍵谷が開けてしまった「箱」から飛び出した災厄は、完全に消えたわけではない。企業のイメージは地に落ち、論理的には無罪でも、道義的責任を問う批判の嵐は止まない。
だが――株価の暴落は止まった。
鍵谷が市場に叩きつけた「論理と条文の防壁(ファイアウォール)」によって、会社の生命線は首の皮一枚で繋がったのだ。
鍵谷は、徹夜明けにもかかわらず、疲労を一切感じていなかった。
彼はコンプライアンス部長の席を占領し、ぬるくなったコーヒーを啜っている。その視線の先、応接ソファには、魂が抜けたようにぐったりと横たわる部長の姿があった。
「鍵谷……君は、会社を救ったのか」
部長が、死人のような顔で呟く。
「いいえ。私はただ、組織が即死しないための止血処置をしただけです」
鍵谷は表情一つ変えずに答えた。
「不法投棄の事実は消えません。法的にシロでも、道義的にはブラックだ。我々はこれから、『感情論』という名のウイルスと戦わなければならない。むしろ、本当の地獄はこれからです」
鍵谷は理解していた。
自分が開けた箱から飛び出した災厄は、数字や法律では割り切れない領域で、今も増殖し続けている。
部長は、力なく乾いた笑い声を漏らした。
「君は、本当にブレないな……。君の言っていた『希望』とは、そういう冷たいものだったのか」
「はい」
鍵谷は即答した。
「パンドラの箱の底に残っていたのは、『安堵』や『夢』といった温かいものではありません。すべての災厄が飛び出した後に残る、『事実』という名の底板。つまり、冷徹な論理そのものです」
彼は椅子を回転させ、自分のデスクへと戻った。
スリープから復帰したモニターが、青白く彼の顔を照らす。そこには既に、新たなタスクの山が表示されていた。
【新規タスク:企業再生に向けた道義的リスクの解消(論理的デバッグ)】
鍵谷は、口元をわずかに歪めた。笑っているようにも、気合を入れているようにも見えた。
このタスクこそが、箱を開けてしまった自分への、「真の罰(ペナルティ)」であり、同時に「存在意義」なのだ。
(……開けてしまった箱は、もう閉じられない)
ならば、箱から飛び出した災厄を、一つ一つ論理で無力化し続けるまで。
彼はデータ入力の鬼から、「企業の道徳的矛盾を解体する、冷血な外科医」へと変貌していた。
タタン、と軽快な音が響く。
鍵谷はキーボードを叩き始めた。
その指先から、感情は生まれない。
ただ、矛盾のない冷徹な論理のコードだけが、世界に広がるカオスを、一つ、また一つと、管理可能な秩序へと書き換えていった。
(完)
蓋をされた10年分の企業秘密。誤送信ボタン一つで世界が地獄に落ちた件 DONOMASA @DONOMASA
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