第2話 拡散するカオス

「ピポッ」

 間の抜けた電子音が、破滅の完了を告げた。

 鍵谷の指先から放たれたのは、環境汚染の動かぬ証拠。

 宛先は上層部だけではない。『全社員一斉送信リスト』、そして『外部メディア広報リスト』。

 かつてない規模の爆弾が、たった今のワンクリックで投下されたのだ。

 オフィスを包んでいた朝のまどろみは、一拍の静寂を挟んで、悲鳴を上げた。

「な、なんだこのメールは!」

「おい、サーバーから何が流出してる! 添付ファイルを見ろ!」

「全社一斉送信で機密情報だと!?」

 コンプライアンス部門の秩序が崩壊する。

 電話が一斉に鳴り響き、複数の部署から血相を変えたマネージャーたちが雪崩れ込んできた。

 向かいの同僚が弾かれたように立ち上がり、コーヒーカップをひっくり返す。床に広がる茶色の染みが、まるでこの会社が流すどす黒い血液のように見えた。

 阿鼻叫喚の嵐の中で、鍵谷だけが、石像のようにモニターを見つめていた。

 彼の脳内では、解き放たれた災厄の軌道計算(シミュレーション)だけが、冷徹に行われていた。


(……開始〇分。フェーズ1、社内パニック)

 社員の多くは「ウイルス」か「事故」だと疑う。だが、発信元はコンプライアンス部門であり、書式は正規の報告書だ。信憑性は高い。

 社内チャットのタイムラインが「不法投棄」「隠蔽」「倒産」という単語で埋め尽くされ、業務機能が停止するまで、あと数分。


(フェーズ2、メディア拡散)

 送信リストには国内主要メディアが含まれている。記者が裏取りを終え、速報テロップを打つまで三十分とかからない。見出しは「環境テロ」か、あるいは「腐った企業」


(そしてフェーズ3、市場反応)

 鍵谷はブラウザで株価チャートを開いた。

 企業のティッカーシンボルが、一瞬で警告色の赤に変わる。売り注文が殺到し、チャートは断崖絶壁のように垂直落下を始めていた。


「生存確率は、限りなくゼロに近い」

 鍵谷の口から漏れたのは、恐怖ではなく、ただの分析結果だった。

 彼が開けた「箱」から飛び出したデジタル情報の洪水は、もはや誰にも止められない。

「おい、鍵谷! お前だろ、このメールを送ったのは!」

 怒号と共に、肩を激しく揺さぶられた。顔を真っ赤にしたコンプライアンス部長が、唾を飛ばして叫んでいる。

「何をしたか分かっているのか! 今すぐシステムを止めろ! メールを取り消せ!」

 鍵谷は、焦点の合わない目で部長を見上げた。

「部長、システムは正常に作動しました。メールはすでに相手のサーバーに到達しています」

「だから、それを何とかしろと言っているんだ!」

「部長、システムはもう作動しています。誤送信メールはすでに相手のサーバーに届いています。一度開いたパンドラの箱を閉じる機能(コマンド)は、この世に存在しません」

「ば、馬鹿な……終わりだ、何もかも終わりだ!」

 部長はその場に崩れ落ち、頭を抱えた。

 周囲では怒号と電話のベルが鳴り止まない。だが、鍵谷の目には、そのカオスの底に、奇妙な「残りもの」が見えていた。

 パンドラの箱には、すべての災厄が飛び出した後、ただ一つ、「希望」が残ったとされる。

 目の前のモニターでは、株価が底なしの落下を続けている。

 信用、名誉、利益。企業の全てが剥がれ落ちていく。

 その焼け野原に、ポツンと残るもの。

「私に、この混沌から『希望』を見つけるタスクをください」

 鍵谷の声は静かだった。

「それが、箱を開けてしまった私の、最後の責任です」

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