第2話 鏡の盾

「……石に、なる」

 パーテーションの中で、鏡見盾の体は完全に硬直していた。

 極度の恐怖が、神経回路を焼き切っている。

 網膜に焼き付いたログ。それは単なるコードの誤りではない。この会社の創業者自身が設計した「データ管理の哲学」そのものに刻まれた、絶対に触れてはならない論理矛盾だった。

 修正すれば、創業者の否定。放置すれば、システムの崩壊。

 どちらに転んでも破滅。その絶望的な二律背反が、見る者の思考をフリーズさせる「呪い」の正体だ。

(……動け)

 鏡見は、氷のように固まった指先に意識を集中させる。

 恐怖を乗り越える必要はない。回避すればいい。

 彼には、対人恐怖症ゆえに開発した、とっておきの安全装置がある。

(鏡の……盾だ)

 震える指先が、わずか数ミリ動いた。

 ショートカットキーへの入力。それが、対メデューサ用ツール「Medusa Viewer(メデューサ・ビューア)」の起動トリガーだ。

 ッターン。

 乾いた打鍵音が、静寂を破った。

 画面が一瞬で暗転し、色彩を失う。

 鏡見の視界から、「意味」が消滅した。

 創業者の思想も、絶望的な責任問題も、すべてがフィルタリングされ、モニターには無感情な幾何学模様だけが映し出される。

 致命的なエラーは「濃い赤のブロック」。

 論理的な矛盾は「不規則な緑のライン」。

 恐怖の呪文は、感情を完全に剥ぎ取られ、ただの冷たい「論理の模様」へと変換された。

「……これなら、直視できる」

 鏡見の体から、すうっと硬直が解けていく。

 彼は怪物の顔を直接見るのではなく、鏡の盾に映った「構造」だけを見ていた。これなら石にはならない。

 彼は冷静に、赤と緑のパターンを解析し始めた。

(赤のブロックはデータベースの呼び出しエラーじゃない。これは……排他的論理和の記述ミスか?)

 鏡見は目を疑った。

 メデューサの呪いは、見る者に絶望的な解釈を強要していたが、その論理的な正体は拍子抜けするほど単純だった。

 創業者が、初期設計段階で論理学の初歩を勘違いしていただけだ。

「は……」

 鏡見の口から、乾いた笑いが漏れた。

 誰もが恐れ、部長を嘔吐させた怪物の正体。それは、大学一年生がプログラミング演習でやるような、初歩的なロジックミスだったのだ。

 指が走る。もう震えはない。

 彼は「創業者の崇高なメッセージ」をただの欠陥データとして処理し、感情を一切挟まずに修正パッチを書き殴った。

 午後二時。

 死地と化した分析室に、恐る恐る人影が現れた。顔面蒼白のシステムマネージャーだ。

「か、鏡見さん……? まだ石になっていないのですか? バグは……」

 鏡見はキーボードから手を離し、チャットではなく、直接声を出して答えた。

「修正完了。コミットしました」

「え……?」

「バグの根本原因は、創業者の設計思想にありました。ですが、論理的に翻訳すれば、ただの『排他的論理和の勘違い』です」

 マネージャーが口をあんぐりと開けた。

「なんですって……? 会社の根幹を揺るがす呪いが、そんな馬鹿な理由で……?」

「論理的には、馬鹿げているほど単純です。恐怖という感情が、あなたたちの目を曇らせていただけです」

 鏡見は、メデューサの首を切り落としたのだ。

 彼はパーテーションの隙間から顔を出し、呆然とするマネージャーに向かって、淡々と言った。

「システムは正常です。ご心配なく。……やはり論理は、感情よりもずっと頼りになりますから」

 その日、鏡見盾という引きこもりのエンジニアは、恐怖を直視せず、鏡越しに真実を射抜く「論理の英雄」として、密かに伝説となった。

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エラーコードを見た人間が石化するバグと、それを論理の鏡で直視した男 DONOMASA @DONOMASA

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