カルテの遺言 暴獣ジェノ・ケルベロス

瑠里

第1話 襲撃 1


 東京郊外・多摩丘陵。


 都心のネオンから、すっぱりと隔離された丘の上に、埼京医科大学・美多摩キャンパスは沈んでいる。


 その夜霧に沈んだ台地に、研究棟だけが浮かび上がっていた。


 現代の人間の知恵と欲望を、コンクリートで固めた墓標のように聳えていた。


 地下三階。


 優生医学教室研究棟。


 誰も来ない、遺棄された、学舎の盲腸部分。


 その奥の実験室では、湿り気を含んだ蛍光灯の光が、錆びついた金属棚を照らしていた。


 御子神龍雅みこがみりょうがは、冷たい光の下で、小さく息を吐いた。


 白衣は皺だらけで、袖には複数の血痕がこびりついていた。乾き、褪せ、やや黄色味を帯びている。人の血ではない。


 ここで創られては破棄され、数日の命で終わった人工生命体たちの残骸だ。


 机の上では、小型の電子レンジほどの装置が、信号機のように明滅していた。


 携帯型遺伝子統合器ゲノム・オルガナイザーx2000。


 蛋白質素材BSAから生体分子を組み上げ、遺伝子配列を編み直す。


 龍雅が博士号を賭けて作り上げた「神の模造品」。


 本家は別にある。


 陸自技術幹部だった父・御子神剛が開発した大型機 x2500。


 剛は、御子神が十二歳の時、山形・旧日本軍遺構調査中に失踪・焼死体で発見された。


 公には事故とされたが、陸自と敵対する組織に内通していたことに対する粛清だったとも囁かれている。


 x2000は、その軍事仕様を基にした「簡易版」──のはずだった。


 だが、


「こいつがあれば、致死性のウイルスも、毒性強化型耐性菌も作れる」


 龍雅はすぐにその結論にたどり着いた。


 余りにも危険な発想であった。


 それ故に、このx2000の研究論文は、学位審査以前に、生命倫理規定違反で却下された。


 カルタヘナ法、「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律」への抵触、それが理由だと、大学は言った。


 そして、有無を言わせず、龍雅は、この地下三階に押し込まれた。


 幽閉の名目は「倫理的側面を考慮しての更なる研究継続」。


 実質は監視付きの軟禁だ。


 龍雅は知っていた。


 それは建前にすぎない。


 彼の研究──「人工生命の創造」は、学会や国家が手綱を握れなくなる領域に足を踏み込みすぎていた。


 審査委員会の席で、主任教授、早乙女は一言だけ告げた。


「龍雅よ。貴様の研究は、もううちの大学の管理能力を超えている」


 それは忠告ではない。


 排除の宣告だ。


 こうして龍雅は、優生医学教室・地下三階の研究室へ"配置換え"となった。


 配置換え──表向きはそうだ。


 実際には違う。


 実験室のドアには二重ロックがかけられ、夜間は赤外線監視カメラの赤い点が龍雅の動きをなめるように追った。


 通行証を使って出入りは可能だが、人の動きは常に記録される。


「閉じ込めている」と言えば問題になる。だから大学は丁寧に装った。


 ──自由はある。ただし監視つきでの……。


 名目は研究続行。


 実態は大学式の事実上の"幽閉"。


 龍雅は最初こそ反発した。


 だが、抗議の文書には、一通も応えられることなく、やがて彼の怒りは別の方向へと昇華に転じていった。


 彼は、黙り、そして、その沈黙の中で、当てどのない創造だけを続けた。


 大学が彼を閉じ込めたのか。


 それとも彼自身が地下へ降りたのか。


 答えは簡単だ。


 龍雅には、そもそも陽の当たる地上で、非業の死を父に強いた社会の中で生きるつもりなど初めからなかったといえる。


 彼には、父の残した機械 x2000 があり、


 自分の手で組み上げた遺伝子配列ゲノムシークェンスがあった。


 研究の封印は、彼にとって罰ではない。


 むしろ免罪符だった。


 社会から隔絶された場所で、


 誰にも邪魔されず、


 神の真似事を続ける。


 世界からの孤立は、龍雅にとっての"自由"だった。


 彼の内側に巣くう創造衝動──それは、社会の倫理や法などでは規制することはできない。


 だから彼は、地下の暗がりで、無表情にモンスターを創り、そして破壊した。


 静かな、狂気の日々の繰り返し。


 一年が経った。


 父の残した設計図と、x2000と、生まれ、死にゆく人工生命体の山。


 暇潰しに「暴獣」と名付けた人工生命体をいくつか産み出し、飽きたら潰す。


 今夜も、そんな日々の延長線の一夜のはずだった……。


 ケージの奥から、龍雅のその様子をじっと見ている影がひとつ。


 暴獣ケイ。


 柴犬と見紛う小柄な身体に、人間並みの高次脳機能と、狼の脚力を詰め込んだ生体兵器。


 御子神家の「番犬」。


 肩書きはそんなものでいい。


 だが、実際には──もっと厄介だ。


「……見てんじゃねえよ」


 龍雅がぼそりと言うと、ケイは首をかしげて、ほんの少し尾を振った。


 言葉は通じない。だが、感情は伝わる。


「落ち着かないよ」


「ここじゃない、だけど、どこかに、異物がいる」


 そんな感じだ。


 x2000のログ画面が、自動学習プロセスの増加を示していた。


 抑制フラグを立ててあるはずなのに、勝手に遺伝子合成のシミュレーションが回っている。


「器械のくせに、生き物みてぇに呼吸しやがって」


 ケーブル束を引き寄せて画面を覗き込んだ時だ。


 背後の静寂に、ささやかな『異物』が混ざった。


 柔らかい靴底の足音。


 獣の爪ではなく、人間の歩き方。


「御子神さん」


 振り向く前から、誰かはわかっていた。


 岬紅音みさきあかね


 研究室付きの技術補助員。


 黒髪を耳にかけ、無表情のままタブレットを操作している。


 感情の色は、眼差しの奥にしかない。


 言葉は少なく、龍雅にも距離を保っていた。


 ただし──ケイにだけは、別だった。


 ケイが鼻先をすり寄せれば、紅音は小さく微笑む。


 野犬に似た暴獣のその眼に、彼女は恐れを見せたことがない。


 それどころか、共に呼吸するように静かに寄り添う。


 御子神龍雅は、それを横目に眺めながら、吐き捨てるように言う。


「……お前には懐くのかよ。御子神さんが創ったってのに」


 紅音のその瞳だけは、無機、無情、無慈悲な、この地下の冷気とは違う温度を持っている。


 ケイにはそれがわかるようであった。


 だが、紅音は黙っていた。


 ただその沈黙が、何よりも多くを語っていた。


 更には、龍雅の裡に残った「人間性」に、彼女は手を触れず、守っていた。


 それが彼に自覚されることはない。


 だが、もし彼女がいなければ、彼はとうに人をやめていただろう。


 x2000は、静かに呼吸するように点滅を繰り返していた。


 人工の神経網が、自律的に遺伝子構成を学習している。


 まるで、神に抗う準備をしているかのように。


「ケイが……落ち着きません。さっきからずっと、外を嫌がってます」


「またかよ」


 口では悪態をつきながら、龍雅もそれを感じていた。


 ケイの嗅覚は「犬の延長」程度のものではない。


 臭覚強化遺伝子を叩き込まれた結果、もはや第六感に近い何かになっている。


「……上の階に、誰かいるみたいです」


 紅音は言いづらそうに続けた。


「非常口の鍵が、内側からじゃなくて……外側から、こじ開けられていました」


 このキャンパスの夜間を知る人間なら、誰でもわかる違和感だ。


早乙女教授クソジジイじゃねえのか?」


「教授は合鍵を持ってますから。あれは……部外者アウトサイダーの仕業です」


 部外者。


 この研究棟に用がある「外部の人間」は、そう多くない。


 龍雅はx2000の電源ボタンに指を伸ばし──そこで止めた。


 ──こいつが狙いなのか。


 この世に二台とない遺伝子統合器。


 正規ルートで触れられないなら、裏からでも欲しがる連中は、山ほどいる。


 大学の外。


 国境の外。


 地球の裏側。


 静まり返った地下に、金属の擦れる微かな音が紛れ込んできた。


 扉を「外側からこじ開ける」音。


 ケイが牙を剥き、低く唸る。


 突然、x2000のランプが、一斉に赤へと変わった。


 環境感知センサーが、未知の接近を拾った合図だ。


 龍雅はゆっくりと息を吸い込んだ。


「……来たな」


 誰の差し金か。中国の科学マフィアか。旧ナチの亡霊か。アメリカの情報屋か。


 あるいは、もっと近いところ──政府、軍、企業。


 どれであっても、ここに来た時点で「交渉の余地」はない。


「紅音、非常用の鍵、持ってこい」


「逃げるんですか?」


「違う。戦う準備だ。俺らと、こいつと──」


 ケイの首輪の金具に手をかける。


 冷えた蛍光灯がじわりと明滅した。


 上階で、何かが爆ぜた。


 コンクリートの粉塵が天井から舞い落ちる。


 紅音が囁いた。


「……御子神さん。来ます」


 龍雅はケージの錠を外し、闇の向こうを睨んだ。


「――上等だ」


 殺意を帯びた足音が、階段を降りてくる。


 ここから先は、御子神龍雅と暴獣ケイの「カルテ」に記される戦場になる。



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