ねるまえ短編集

@cotonoha-garden

明日を少しだけ好きになった、夜のファミレス。

「私じゃなくてもいい仕事」ばかりだと思っていた夜。

たまたま入ったファミレスで、私は少しだけ、自分のことを話してしまった――。




 「お前じゃなくてもできる仕事なんだから、せめてミスするなよ」


 蛍光灯の白い光の下で、早川さんの声がやけにクリアに響いた。


 ――お前じゃなくてもできる。


 分かってる。自分でも、薄々そう思ってた。


 会議室の空気が一瞬だけ重くなって、すぐに誰かのキーボードを叩く音にかき消される。

 私は「すみません」と頭を下げて、そのまま資料を抱えて席に戻った。


 心の中に刺さった言葉は、そのまま抜けないままだけど。



 ***



 終電の一本前。

 駅のホームに吹き込む風が、春なのにやけに冷たく感じる。


 今日のミスは、完全に私の確認不足だった。

 入稿データのバージョンを間違えて送ってしまって、クライアントは激怒。

 神谷さんが冷静にリカバリー案を出してくれなかったら、もっと大惨事になっていた。


 「……はぁ」


 ため息を飲み込んだつもりが、空気と一緒に漏れ出た。


 スマホを取り出すと、同期の沙耶から「大丈夫?」とだけ書かれたLINEが来ている。

 返信画面を開いて、しばらく指を止めたまま、結局「大丈夫。ごめん、また明日話すね」とだけ打って送信した。


 「大丈夫」なんて、全然大丈夫じゃないのに。


 改札を抜けて、いつものコンビニの前まで来たところで、足が止まる。

 お弁当を選ぶ気力もない。何を食べたいのかも分からない。

 ただお腹のあたりがスカスカしているのに、何も入れたくない。


 ふと顔を上げると、少し先に、黄色いネオンがにじむファミレスの看板が見えた。


 「……」


 気づいたときには、私はそっちに歩き出していた。



 店内は、思ったよりも人がいた。

 家族連れ、学生っぽいグループ、スーツ姿のサラリーマン。

 それぞれのテーブルに、それぞれの会話と疲れがある。


 「おひとりさまですか?」


 店員さんにそう聞かれて、私はこくりと頷く。

 案内されたのは、窓際の二人掛けのテーブルだった。


 メニューを開いても、文字が頭に入ってこない。

 とりあえず、一番上に載っていたハンバーグセットを指さして頼んだ。


 水を一口飲んで、ぼんやりと外を眺める。

 窓ガラスに映る自分の顔は、予想以上に疲れていて、思わず目をそらした。


 「……橘さん?」


 不意に名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。


 顔を上げると、少し離れた席から、神谷さんが立ち上がったところだった。

 黒いパーカーにデニム、ノートPCの開いたテーブル。

 仕事の合間なのか、画面にはデザインソフトのカラフルな画面が映っている。


 「え、あ……」


 言葉がうまく出てこない私を見て、神谷さんは少しだけ目を細める。


 「こんなところで会うとは。……隣、いいですか?」


 「あ、はい。どうぞ」


 断る、という選択肢が頭に浮かぶ前に、口が勝手に返事をしていた。



 ***



 向かい合って座ると、さっきまでの空腹感も疲れも、どこかへ行ったような気がした。


 「橘さん、ちゃんと食べてます?」


 開口一番、神谷さんはそう言った。

 いつものクールな声なのに、少しだけ柔らかい。


 「え……いちおう、食べてますよ?」


 「本当に?」


 じっと見つめられて、視線を泳がせてしまう。


 「今日、顔色悪かったですよ。会議室でも。……まあ、怒られてたら誰でもそうなるかもしれないですけど」


 「見てたんですね」


 思わず苦笑いが漏れる。

 見られたくなかったところほど、ちゃんと見られている。


 「見ないようにはしてたんですけど。あの空気で、完全にスルーするのは無理です」


 神谷さんは、テーブルの上の水のグラスを指でくるくると回しながら言う。


 「さっきのは……私のミスなので。仕方ないです」


 「そうですね。ミスはミスです」


 あっさりと言われて、胸の奥がちくりとする。

 でもすぐに、彼は付け足した。


 「でも、橘さん一人の問題じゃないですよ。あのスケジュール組んだの、早川さんでしょう」


 「……まあ、そうですけど」


 「人はミスする前提で、仕組みを作るべきなんです。ミスした人だけ責めても、仕組みが変わらなきゃ、また同じことが起こるだけですよ」


 さらっと言うその言葉に、思わず顔を上げる。


 「……神谷さん、そういうの、はっきり言いますよね」


 「職業病です」


 少しだけ口元をゆるめて、彼は肩をすくめる。


 「フリーになってから、言わないと自分が潰れるって学びました。会社に守ってもらえない分、自分で線引きしないと」


 「線引き……」


 その言葉を、口の中でそっと転がしてみる。

 私の毎日は、線引きとは真逆だ。

 どこまでも相手に合わせて、気づいたら自分の領域がどこか分からなくなっている。


 「橘さんは、なんでそんなに何でも引き受けるんですか?」


 昼間、会議室で言われたのと同じ質問が、別のトーンで投げかけられる。


 私は少し考えてから、ゆっくりと答えた。


 「……迷惑、かけたくないから、だと思います」


 「誰に?」


 「みんなに、です。クライアントにも、社内にも、外部の方にも。私が断ったら、誰かが大変になるから」


 言葉にしてみると、自分でも少し滑稽に聞こえた。


 「だから、つい『大丈夫です』って言っちゃって。で、全然大丈夫じゃなくなって、ミスして……怒られて。ほんと、バカですよね」


 笑おうとしたけれど、喉の奥がつまって、うまく笑えなかった。


 神谷さんは、しばらく黙って私を見ていた。

 責めるでも、慰めるでもない、静かなまなざしだった。


 「……その結果、一番迷惑してるの、橘さんじゃないですか」


 昼間と同じ言葉。

 でも今は、それが責めではなく、心配から来ていることが分かる。


 「自分に迷惑かけるのは、いいんですよ」


 私は、テーブルの端を指でなぞりながら言った。


 「私なんて、代わりはいくらでもいるし。私がちょっとくらいしんどくても、回るなら、その方がいいかなって」


 言った瞬間、自分で自分の言葉に驚いた。

 こんなこと、誰にも言ったことがなかった。


 神谷さんは、ふっと息を吐いた。


 「……それ、本気で言ってます?」


 「え?」


 「橘さんの代わりが、いくらでもいるって」


 まっすぐな視線に、思わず目をそらす。


 「だって、私、たいしたことしてないし。資料まとめたり、スケジュール調整したり、進行管理したり……別に誰でもできることばっかりで」


 「誰でもできることを、誰でもできるレベルでやるのと」


 神谷さんは、少し身を乗り出した。


 「誰でもできることを、ちゃんとやるのは、全然違いますよ」


 「……」


 「今日だって、ミスはあったけど、それまでの段取りはスムーズでした。クライアントとのやり取りも、情報共有も。俺、橘さん以外と組んでたら、もっとぐちゃぐちゃになってたと思います」


 そんなふうに言われるなんて、思ってもみなかった。


 「でも、ミスしたら意味ないですよ」


 やっと出てきた反論は、情けないくらい小さな声だった。


 「ミスしない人なんて、いないですよ」


 即答だった。


 「大事なのは、ミスしたときにどうするかと、ミスしないように普段からどれだけ整えてるか、です」


 神谷さんは、水を一口飲んでから、少しだけ笑った。


 「俺、橘さんの進行、けっこう信頼してますよ」


 心臓が、ドクンと音を立てた気がした。


 「……からかってます?」


 「からかうメリット、俺にあります?」


 淡々とした声なのに、その言葉が妙に可笑しくて、やっと少し笑えた。


 ちょうどそのタイミングで、私のハンバーグが運ばれてくる。

 湯気の立つソースの匂いが、急にお腹を刺激した。


 「……いただきます」


 フォークを持ち上げて、一口食べる。

 さっきまで何も入れたくなかったはずなのに、びっくりするくらいおいしく感じた。


 「よかった。ちゃんと食べられて」


 神谷さんが、ほっとしたように言う。


 「そんなに、私、ひどい顔してました?」


 「してました」


 きっぱりと言われて、思わずむくれる。


 「ひどいなあ」


 「褒めてますよ。……ちゃんと疲れてる顔してる人の方が、安心します」


 「安心?」


 「ムリして『大丈夫です』って笑ってる人、見てる方が怖いですから」


 図星を刺されて、ハンバーグを切る手が止まる。


 私は、いつも「大丈夫です」と言ってきた。

 仕事でも、恋愛でも。


 元彼に「ひよりは何でも抱え込みすぎて重い」と言われてから、余計に。

 本音を見せたら、迷惑をかけると思っていた。


 「……私、重いって言われたことがあって」


 自分でも驚くくらい自然に、その言葉が口をついて出た。


 「重い?」


 「前の彼氏に。何でも一人で抱え込むくせに、最後に爆発させるから、重いって。もっと軽く生きればいいのにって」


 ハンバーグを見つめたまま、ぽつぽつと話す。


 「それから、人に本音を言うのが怖くなって。嫌われたくなくて、何でも『大丈夫』って言うのが、クセになっちゃったというか」


 言ってから、しまったと思った。

 こんなプライベートな話、仕事相手にすることじゃない。


 「ごめんなさい、変な話して」


 慌ててそう言うと、神谷さんは首を横に振った。


「変じゃないですよ」


 そして少し間を置いてから、静かに続ける。


 「俺は、その元彼の人とは違うので、勝手なこと言いますけど」


 「はい……」


 「『重い』って、ちゃんと向き合おうとしてるってことじゃないですかね」


 「……向き合う?」


 「相手のこととか、自分の気持ちとか。ちゃんと考えてるから、重くなるんだと思いますよ。何も考えずに軽く投げ合う言葉より、よっぽどいいと思いますけど」


 胸の奥に、じんわりと何かが広がる。


 「でも、重いって言われたら、やっぱり怖くて」


 「怖いなら、軽く見せる練習をするんじゃなくて」


 神谷さんは、窓の外の街灯をちらりと見てから、私の方に視線を戻した。


 「重いって言われても大丈夫な相手を、探した方が早いですよ」


 「……そんな人、いますかね」


 気づけば、声が少し震えていた。


 「いるんじゃないですか。少なくとも、俺は『重い』って言葉、あんまり使いたくないです」


 「どうしてですか?」


 「相手のこと、大事にしようとしてる部分まで否定する言葉だから」


 その一言に、喉の奥まで上がってきた何かが、すっと引いていくのを感じた。


 ファミレスのざわめきの中で、私たちのテーブルだけ、少しだけ違う空気が流れている気がする。



 ***



 ハンバーグを半分ほど食べたところで、ようやくお腹が落ち着いてきた。

 神谷さんは、コーヒーだけをゆっくり飲んでいる。


 「……さっき、橘さん、自分のこと『代わりはいくらでもいる』って言ってましたよね」


 「はい」


 「じゃあ、ちょっと試してみていいですか」


 「試す?」


 何を、と思う間もなく、神谷さんは少しだけ真面目な顔になった。


 「橘さんじゃないと困ることを、俺が探してみてもいいですか」


 言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。


 「え?」


 「仕事の話ですよ」


 すぐにそう付け足すところが、いかにも神谷さんらしい。


 「今回の案件、まだ続きますし。進行も、クライアントとの調整も。橘さんじゃないと困ること、きっとたくさんあります」


 「そんなの……」


 反射的に否定しかけて、私は口をつぐんだ。


 「そんなの、ないですよ」と言いかけて、昼間のミスと、今こうして向かい合っている自分を思い出す。


 今日、私は初めて、自分の弱さを誰かに話した。

 それを聞いた相手は、引きもしなければ、笑いもしなかった。


 「……もし、あったら」


 自分でも驚くくらい小さな声で、私は言った。


 「もし、私じゃないと困ることがあったら、そのときは、ちゃんと信じていいですか」


 神谷さんは、少しだけ目を見開いて、それからゆっくりと頷いた。


 「はい。俺が保証します」


 その「保証します」が、仕事だけの話じゃないような気がして、心臓がまた忙しくなる。


 「じゃあ、私も一個、試してみていいですか」


 気づけば、私の方からも言葉が出ていた。


 「なんですか」


 「……『大丈夫です』って、無意識に言わない練習」


 神谷さんが、少しだけ笑う。


 「いいですね、それ」


 「今日みたいに、本当は大丈夫じゃないときは、『大丈夫じゃない』って言ってみる。……たぶん、すごく怖いですけど」


 「怖いときは、俺に先に言ってください」


 「え?」


 「『大丈夫じゃない』って」


 その言葉は、冗談みたいで、冗談じゃないトーンだった。


 「橘さんが『大丈夫じゃない』って言ってくれたら、俺もちゃんと線引きしますから。無茶なスケジュールは断るし、フォローできるところはフォローします」


 「そんな……」


 ありがたすぎて、もったいないような言葉だった。


 「仕事のパートナーって、そういうもんじゃないですか」


 さらりと言われて、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 パートナー。


 その響きが、こんなに心地いいものだとは思わなかった。



 ***



 店を出ると、さっきよりも風がやわらかくなっていた。

 街灯に照らされた歩道を、駅まで二人で並んで歩く。


 「さっきの……その、元彼さんの話」


 駅の手前で、神谷さんがぽつりと言った。


 「はい」


 「話してくれて、ありがとうございます」


 「え?」


 「俺の前で、あんまり『大丈夫です』って言わなくていいですよ、って意味です」


 その言い方が、なんだか少し照れくさそうで、私もつられて笑ってしまう。


 「じゃあ、神谷さんの前では……ちょっとだけ、本音を言う練習します」


 「はい。練習台には慣れてるので」


 「練習台?」


 「クライアントの前に、まず俺相手にプレゼンしてくる人、多いんで」


 ああ、そういう意味か、と分かってからも、胸の高鳴りはなかなか落ち着かなかった。


 改札の前で、自然と足が止まる。


 「今日は……ありがとうございました」


 「いえ。俺も、たまたま立ち寄っただけなので」


 「でも、助かりました。ちゃんと、ごはん食べられたし」


 「よかったです」


 少しの沈黙が流れる。

 その沈黙が、前よりも怖くない。


 「じゃあ、また、明日」


 そう言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。


 明日もまた、同じように仕事に追われて、同じように自分を責めるのかもしれない。

 でも、さっき自分で言った「練習」を、さっそくやってみてもいいのかもしれない。


 「……また、明日も、よろしくお願いします」


 ほんの少しだけ、言い方を変えてみる。


 「はい。こちらこそ」


 神谷さんの返事は、いつも通り淡々としているのに、どこかあたたかかった。


 改札を抜けて振り返ると、彼はまだそこに立っていて、軽く手を上げた。

 私も、小さく手を振り返す。


 ホームに向かう階段を上りながら、ふと気づく。


 今日の私は、ちゃんと「大丈夫じゃない」と言えたわけじゃない。

 まだ、自分を「代わりはいくらでもいる」なんて思っている。


 それでも。


 ファミレスでハンバーグを食べながら、自分のことを少しだけ話して。

 「橘さんの進行、信頼してますよ」と言ってくれた人がいて。


 そのことを思い出すと、胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなった。


 完璧に変わるなんて、きっと無理だ。

 でも、練習なら、できるかもしれない。


 「明日を好きになる練習」なんて、ちょっと気恥ずかしいタイトルを頭の中でつけてみて、ひとりで笑ってしまう。


 電車の風が頬をかすめた。

 その風は、さっきまでより、少しだけやさしく感じた。


 ――明日もきっと不安だけど。

 それでも、少しだけ楽しみだと思える夜が、たしかにここにあった。

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