第九話:二年間で、失われたもの

(…はぁ…っ、はぁ…っ!)

魔力のほぼ全てを使い果たし、わたくしは、完成したそれの前に座り込んでいました。

洞穴の壁際に、粘土で作られた、いびつで不格好な、しかし機能的なかまどが完成していました。


『《…フン。見た目は最悪だが、理論ロジックは完璧だ。》』

先生が、厳しくも満足げに評価を下します。

(ありがとうございます、先生。)

『《かまどができたなら、次は薪と火口だ!》』

(…はい!)


わたくしは、ふらつく身体で、再び洞穴の外へ出ました。

『《遠くへ行くな!》』

という先生の叱咤に従い、入り口のすぐそば、先生が解析で安全(魔物の痕跡なし)と判断した茂みだけを漁ります。


[対象:落ちている枝(湿)] → [燃料:不可]

[対象:落ちている枝(乾)] → [燃料:最適]

[対象:乾いた苔] → [火口:最適]


わたくしは、乾いた枝を両腕で抱えられるだけ集め、火口となる乾いた苔を持って拠点に戻りました。

かまどの火床に、乾いた苔と細い枝を慎重に組み上げる。


(…やります。)

(術式起動—【発火イグニッション】!)


指先から、小さな、小さな火花が散る。

それが、苔に引火した瞬間。


——ボッ!


乾いた苔が、勢いよく燃え上がりました!

わたくしは、慌てず、しかし急いで、太い枝をかまどにくべていきます。


(…火が…)

パチパチと、木がはぜる音。

洞穴の中が、オレンジ色の暖かい光で満たされます。

二年間、幽閉されていた北の塔では、決して得られなかった暖かさ。


『《…呆けている暇があるか、愚か者!》』

先生の叱咤が、わたくしを現実に引き戻します。

(…!はい!)


わたくしは、慌てて石の器をかまどの五徳に乗せました。

粘土の五徳は、いびつな器の形にぴったりと合い、安定しています。

炎が、石の器の底を舐め始めました。


あとは、待つだけ。

わたくしは、燃え盛る炎を、ただ、じっと見つめていました。

パチパチという音と、暖かさが、消耗しきった心身に染み渡ります。


やがて——。

石の器の中で、水が、コポコポと音を立て始めました。

小さな泡が、やがて大きな泡となり、水面が激しく沸騰します。


(…あ…)

湯気が、立ち上る。わたくしは、その湯気に、そっと手をかざしました。温かい。


(…温かい、です…先生。)

声が、震えました。涙が、勝手に溢れてきました。


先生が、短く、鼻を鳴らしたのが分かりました。

『《…それが、貴様の勝利だ。》』


パチパチとはぜる薪の音と、コポコポと沸騰する水の音。

オレンジ色の光に照らされた洞穴の中で、わたくしは、立ち上る湯気をただ見つめていました。


『《…フン。いつまで見とれている、この大馬鹿者!》』

先生の叱咤が、わたくしの感傷を打ち破りました。

『《沸騰したぞ!これ以上火にかけても、貴重な水分が蒸発するだけだ!早く火から降ろせ!》』


(あ…!は、はい!)

わたくしは、慌てて、粗末なワンピースの袖を何重にも手に巻き付け、熱くなった石の器を掴み、五徳から、土の上へと下ろします。

器の中では、まだ湯が、グツグツと静かに煮立っています。


『《飲める温度になるまで待て。》』

先生が、冷静に命じます。

『《貴様のその痩せこけた喉では、熱湯を飲めば火傷で終わりだ。》』


(…はい。)

わたくしは、逸る気持ちを抑え、目の前の白湯が冷めるのを待ちました。

公爵令嬢としての礼法が、ここで焦ることは無作法だと教えてくれます。

たとえ、それが泥にまみれた洞穴の中であったとしても。


やがて、湯気が穏やかになり、器の縁に、恐る恐る唇を近づけました。


(…あたたかい…)

わたくしは、器をゆっくりと傾け、その温かい水を一口、口に含みました。味など、ありません。

わずかな石の匂いと、燻った煙の匂いがするだけ。


けれど。

その温かい液体が、乾ききった喉を通り、食道を経て、冷え切っていた胃袋へと流れ込んだ瞬間。


(…あ…)

ふわり、と。

身体の芯から、熱が、全身へと広がっていくのが分かりました。

凍っていた生命が、解かされていくような感覚。


わたくしは、もう一口、またもう一口と、確かめるように、その白湯を飲み干しました。


『《…フン。どうやら人間に戻れたようだな。》』

先生が、どこか満足げに言いました。


『《だが、小娘。忘れるな。》』

『《脱水の次は、飢餓だ!》』


(…!はい。)

温かい白湯を飲んだことで、胃が刺激され、空腹感が、先ほどよりも強く、鋭く、わたくしを襲っていました。


『《貴様の身体は、今しがた飲んだ水分を、生命活動に変えるための燃料を、猛烈に欲している!》』

『《魔力も、体力も、全ては食料から作られる!》』


わたくしは、先ほど、ほんの少し口にした、あの甘い実を思い出しました。

(…月雫の実。)


(先生。)

わたくしは、石の器を置き、痩せこけた身体に力を込め、立ち上がりました。

まだ、日は高い。

暗くなるまで、時間があります。


(もう一度、行きます。)

わたくしの瞳に、先ほどまでの弱々しさは、もうありませんでした。


(あの『月雫の実』を、採れるだけ採って、拠点に備蓄します。)

わたくしは、そう宣言し、先ほど水を運んできた石の器に手を伸ばしかけ…そして、止めました。

(…これでは、重すぎますわ。もっと軽い袋で、一度に多くを運ばなければ。)


『《フン。ではどうする?籠でもあるというのか?》』

先生が、わたくしの思考を読み取ったかのように、皮肉を飛ばします。


わたくしは、自分の身体を見下ろしました。

身にまとっているのは、塔で与えられた、粗末な麻のワンピース一枚だけ。

一瞬、何かがわたくしをためらわせました。


(…いいえ。)

生きるためです。


わたくしは、決意を固め、そのワンピースの肩口に手をかけました。

(——これを、袋にします。)


ためらいなく、ワンピースを脱ぎ捨てる。

二年間の虐待で痩せこけ、あばら骨の浮き出た、最低限の薄い肌着だけの姿が、火の光に照らされます。


『《…ハッ!》』

先生が、心の底から楽しそうに、短く笑いました。

『《ようやく、家畜の思考から、狩人の思考になったな、小娘!》』

『《なりふり構わんその覚悟、良し!ワガハイが、最短かつ安全なルートをナビゲートしてやる!》』

『《——行くぞ、小娘!暗くなる前に、今日の晩餐を確保するぞ!》』


わたくしは、脱いだワンピースを、しっかりと抱え直しました。

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