時刻零の扉

真夜中の雨が、新宿の古びた公園を濡らしていた。

誰もいないはずの電話ボックスだけが、

灯籠のように柔らかな光を放っている。


その前に立つのは一人の女性——

佐伯夕雨(さえき・ゆう/?歳)。


年齢を感じさせない、静かでどこか凛とした佇まい。

傘もささず、ただ雨粒をそのまま受けながら、

夕雨は電話ボックスを見つめていた。


「……そろそろ、終わりにしないとね」


彼女の声は雨音に紛れて消えるが、

電話ボックスはまるで聞こえているかのように、

内部の灯りをひときわ強く瞬かせた。


夕雨はゆっくりと扉を押し開ける。


受話器はすでに持ち手から浮くように揺れ、

彼女を待っている。


「行きたい西暦日付を押してください」


その声は、人間の声に近すぎて——いや、人間そのものだった。


夕雨は、長い沈黙のあとで、

ついに“その日”を押した。


0

0

0

0

0

0

0

0


八つの“0”。

存在しないはずの時間。

起点であり終点である数字。


受話器が強く光り、

世界が裏返るように揺れた。


気づくと、そこは公園でも、都市でもなかった。


白い霧が永遠に広がる空間。

地面も、空も、時間さえ存在しない。

「場所」と呼べるかもすら曖昧な、

ただの“無”だった。


しかし、そこにはひとつだけ人工的なものがあった。


——古い赤い電話ボックス。


「ここに戻ってくるのは、久しぶりですね」


声は電話ボックスから聞こえた。

だが受話器は動いていない。


夕雨は丁寧に一礼した。


「ただいま。

あなたを……もう解放しに来た」


「まだ私は役目を果たしています。

あなたが終わりを選ぶ必要はありません」


夕雨は首を振る。


「役目を与えたのは、私」


受話器が小さく震えた。


夕雨は静かに告げた。


「私は——この電話ボックスの最初の“利用者”。

そして、あなたを作った“最初の声”」


霧の空間でその言葉が吸い込まれ、消えていく。


「あなたの声は、私の声を元にしている。

この電話ボックスは、私の後悔から生まれた。

ひとつだけ……

どうしても変えられなかった日があったから」


受話器の声が問いかける。


「——あの日に戻りたいのですね?」


夕雨は目を伏せた。


「いいえ。

もう戻らない。

後悔を越えたから」


霧の向こうから、淡い人影が歩いてくる。


薄く、透けて、消えそうなその影。


男の声がした。


「夕雨……」


夕雨の目が大きく見開かれた。


「……涼真(りょうま)……?」


その声は震えていた。


影はゆっくりと近づき、夕雨の前で形を結んだ。


明治の衣服をまとった若い男——

夕雨が愛し、そして“失った”恋人。


彼は今にも消えそうな笑顔で言った。


「君は、ずっと自分を責めていたね。

僕を救えなかったことを」


夕雨の目から涙があふれた。


「あなたを失った日から、私は……

歴史の中に沈めたくなかった。

“もう一度だけ話せたなら”と、

それだけの願いで……電話ボックスを作った」


男は優しく微笑む。


「けれど、僕は今、こうして君の前にいる。

それで良いじゃないか」


夕雨は首を振る。


「違うの。

あなたを取り戻したかったんじゃない。

誰かが、私のように一生後悔に縛られないように——

そのための電話ボックスだったの」


男は夕雨の手を取り、重なるように包んだ。


「夕雨。

君の役目はもう終わったよ」


電話ボックスがそれを聞き、静かに光を落とした。


「私の……役目」


夕雨は小さく呟いた。


霧がわずかに晴れ、

電話ボックスの灯りは弱まっていく。


受話器が最後の言葉を告げた。


「あなたが願わないかぎり——

私は消えます。

この場所から、時間の隙間から」


夕雨は静かに目を閉じ、

胸の内の苦しみをそっと手離すように息を吐いた。


「ありがとう。

もう……大丈夫。

もう誰も苦しまない」


受話器はゆっくりと降り、

カタンと静かに元の位置へ収まった。


赤い電話ボックスは淡い光を失い、

霧の中で薄く輪郭を崩し始める。


男は夕雨の耳元でささやいた。


「——さあ、帰ろう。

君の時間へ」


夕雨がうなずいた瞬間、

赤い電話ボックスは光に溶け、跡形もなく消えた。


霧が完全に晴れると、

そこには夕雨と男の二人だけが残されていた。


二人は手をつなぎ、

静かにどこかへ歩き出していった。


数時間後。


新宿の公園には、

赤い電話ボックスはもう存在しなかった。


ただ、そこには奇妙なことに——

誰も見たことのない小さな若木が一本、

しずかに根を下ろしていた。


その木は、夜になるとほんのり光ると、

人々の間で密かに噂されるようになる。


そしてときどき、

風に揺れる枝から微かに誰かの声が聞こえるという。


「大丈夫。

未来は、必ずやり直せるから」



終わり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Telephone Number Y•M•D (Year•Month •Day) @nobuasahi7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る