Telephone Number Y•M•D (Year•Month •Day)
旭
1971年4月3日の声
会社帰りの凛は、雨上がりの商店街を歩いていた。
本屋の横にある古い電話ボックスが、ふと目に入った。
“行きたい西暦日付をダイヤルし、電話をかけると
24時間だけ、その日に行ける。”
学生時代、友人から聞いた馬鹿げた噂だ。
だが、今日の凛の胸には奇妙な確信があった。
(もし、本当に行けるなら──)
凛はバッグから“父の日記”を取り出す。
ボロボロの表紙を開くと、何度も上書きするようにして書かれた日付がある。
「1971年4月3日」
そして、たった一行の走り書き。
──もし戻れるなら、この日をやり直したい。
凛は震える指で、電話ボックスの扉を押し開けた。
受話器を取ると、湿った空気が耳元を撫でた。
ダイヤルには「0〜9」の数字。
西暦日付を八桁で入力するらしい。
凛はゆっくりとダイヤルを押す。
1…9…7…1…0…4…0…3
最後のダイヤルを押すと同時に、胸が強く締めつけられた。
電話番号のように“呼び出し音”が鳴り始める。
トゥルルル……
誰もいないはずのその向こうから、
「もしもし?」
若い男の声がした。
世界が反転したように明滅した。
凛の足元から風が巻き上がり、強い光が視界を満たした。
気づけば、凛は灰色の路地に立っていた。
湿った土の匂い。看板の字体。走り去る車。すべてが古い。
「……嘘でしょ」
凛の震える声の前に、一人の青年が立っていた。
白いワイシャツに折りたたんだ傘。
どこか優しい目をした、見知らぬ青年。
その顔を見て、凛は息を呑む。
(若い頃の……お父さんだ。)
青年が不思議そうに眉を寄せた。
「大丈夫ですか? 迷ってるみたいだったから」
凛は必死に平静を装った。
「す、すみません。土地勘がなくて」
「よければ駅まで案内しますよ」
青年はそう言って微笑んだ。その自然な笑みが、凛の胸を締めつけた。
青年の名は 黒江達也。
凛の父。
彼は凛を不審がりもせず、雨上がりの街を案内してくれた。
喫茶店で、凛はコーヒーを飲みながらそっと会話を引き出す。
「今日は、特別な予定でも?」
「ええ。大切な人に会うんです」
「恋人……ですか?」
凛の声は震えていた。
達也は少し照れたように笑った。
「恋人とは言えないです。困ってる人がいて…助けたいんです」
日記の内容が脳裏によみがえる。
──4月3日、俺は彼女を助けられなかった。
凛の胸に冷たいものが落ちた。
それでも彼と過ごす時間は、奇跡のように温かかった。
達也は話すたびに、凛の知らなかった“父の若き日の姿”を見せてくれた。
やさしくて、少し不器用で、でも真っすぐな青年。
(どうしてこんな人が、あの日後悔したの?)
凛は答えを求めて、達也に付き従うことにした。
夕方。達也はある路地裏へ向かった。
そこは日記に描かれていた事故現場だった。
「この時間、あの人がここに来るんです。危険なんですが、理由があって……」
達也は説明しようとしたが、その時、女性の叫び声が響いた。
「危ない!」
凛は条件反射で走り出した。
路地の奥で、トラックが急カーブを曲がろうとしていた。
その先に、一人の若い女性が立ち尽くしている。
達也が飛び込む。
だが、間に合わない。
(歴史は変えられないの……!?)
凛は必死に女性の腕を掴み、後ろへ引き倒した。
金属音が響き、トラックはすぐそばをかすめて通過していった。
女性は無事だった。
達也が震える声で言った。
「ありがとう……あなたがいなければ、また……」
その瞬間、凛の体に強い引力のようなものが働いた。
(戻る時間……!)
目を開けると、凛は元の商店街の電話ボックスにいた。
服は濡れていない。だが、心臓の鼓動はまだ1971年にあった。
凛は急いで家に戻り、父の日記を開いた。
そこには、新しい文字が書き足されていた。
「1971年4月3日。
未来から来た娘に会った。
彼女は何も名乗らなかったが、分かった。
あんなに必死に人を助けようとする姿、見間違えるはずがない。
娘よ、ありがとう。
これで後悔せずに生きていける。」
凛は日記を胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。
“歴史を変えた”のだ。
それでも自分は消えていない。
(この電話ボックスは……何のためにあるの?)
凛は思う。
人が後悔と向き合うため。
取り戻せないものを、24時間だけ許すため。
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