第2話 師匠の道斎

【潮騒の師弟】


 潮の匂いがまだ微かに残る、山裾の庵。深い竹林を抜けた先に、その小さな家はあった。瓦は苔に覆われ、庭には朝露を吸う薬草が静かに揺れている。この庵に住むのは、道斎という老修仙者と、弟子の常盤正雪であった。


 道斎はかつて、揚羽家という修仙の名門に連なる者だった。もっとも宗家ではなく、枝葉に過ぎぬ傍流の出である。


 幾代も続いたその一脈は、栄光から遠く離れ、道斎の代にはほとんど忘れ去られた。それでも彼は心を折らず、修行に励み、やがて霧獣法流の門を叩くことを許された。霧を纏い、霊獣を駆使して戦うその流派は、東海でも屈指の武闘宗門である。


 幾十年の苦行の果て、道斎は参階の武闘師へと至った。しかしその先の肆階──王者の座は遠かった。霊脈は老い、肉体は枯れ、もはや突破は望めぬと悟ったとき、彼は静かに山を下りた。


 「もう修仙はよい。わしは静かに死を待つ。」


 そう呟き、世を離れたのは、幽世と現世の境が揺らぎ始めた頃である。妖も鬼も、かつて伝説の彼方にいたものが、次々と人の世へと溢れ出していた。


 多くの修仙者が宗門に戻り、結界を張り、群れを成して身を守ったが、道斎だけは逆を選んだ。


 孤独に、山の奥で、静かに己の残り火を燃やす道を選んだ。


 そんな老仙に、再び“生きる”意味を与えたのが、少年・正雪だった。


 ある日、海辺に打ち上げられた少年を、道斎は拾い上げた。その名を正雪と名乗った。故郷は焼かれ、家族も失い、記憶の半分を夢の底に沈めたまま、


 ただ生きていることだけが奇跡のような少年だった。


 「行くあてもないのなら、ここにいろ。」


 道斎はそう言い、弟子として迎えた。彼の中に、久しく忘れていたもの──他者を導く“希望”が灯ったのだ。



【胸の痛み】


 正雪の修行は、朝の霞のように緩やかに始まった。火弾の術、水弾の術。かつて修行塾で何度試みても理解できなかった術が、道斎の教えでは、嘘のように体に沁みこんでいった。


 「霊力は流れだ。堰を作るな。流せ。流れが火を生み、水を呼ぶ。」


 道斎の声は、静かな波のように優しかった。正雪は草庵の裏で火を灯し、川辺で水弾を放ち、少しずつ、己の中に巡る霊の脈を感じ始めた。


 やがて、霊力が体内を巡る感覚を覚えたとき、彼の目に映る世界は変わった。風に色があり、石にも声があり、月には息があった。修仙とは、人を超える道ではなく、“万物と共に在る道”だと、道斎は教えた。


 しかし、その平穏には、ひとつの影があった。


 それは、満月の夜に訪れる胸の痛みである。まるで心臓を握り潰されるような激痛が、月が昇るたびに正雪を襲った。彼は最初、これを病と考えた。だが原因は分からなかった。


 「師匠……俺、満月のたびに胸が痛むんだ。」


 道斎は眉を寄せ、静かにその胸に掌を当てた。温かな霊気が、正雪の身体を包む。


 「これは……封印の痛みかもしれん。」


 「封印?」


 「うむ。お前の中に、異なる力が眠っておる。人の霊力とは違う、獣のような、氷のような気だ。


 ……まさか。」


 道斎の瞳が一瞬だけ震えた。が、彼はすぐには続けるのをやめ、あの憎らしいほどの笑みが浮かんだ。


 「まあよい。命に別状はない。だが、満月の日は無理をするな。」


 「はい、昔はこんな病気がなかった。師匠に会ってからだ。師匠のせいだ」


 「はいはい、師匠のせいだよ。横になって、見させて」


 道斎は苦笑しながら、優しく正雪を寝かせた。この笑い合う二人の姿は、親子のようでもあった。道斎の口調にはいつも冗談が混じっていて、正雪の痛みを、笑いで薄めるのが常であった。


 「ねぇ、師匠。俺は偉大な仙人になれるかな。」


 痛みに耐えながら、正雪が作り笑いで尋ねた。


 「なれる。なれるとも。隣の村の結界が完成したら、霧獣法流に戻ろう。そこには、わしよりも強い仙人がいる。肆階の王者だ。お前のことを見せてもらう」


 「母ちゃんみたいに、何回も同じことを言うなあ」


 正雪は、無意識に口をついて出た言葉にハッとした。母の言葉や姿を思い出し、胸に悲しみの記憶が呼び出される。だが、正雪はすぐに気持ちを切り替えた。強くなって、母さんを探す。


 「師匠。でも、そう言ってもらえると……うれしい。」


 その時、正雪の胸にあった痛みは、師の温かい掌の霊気によって、少しだけ軽くなった気がした。



【鬼が狙うもの】


 胸の痛みが少し引いた頃、正雪は真剣な顔で尋ねた。


 「師匠。隣の村人たちは、なぜ引っ越ししないのか。鬼が来るよ」


 道斎は手を離し、正雪の横に座り直した。


 「鬼はな、正雪。霊力を求めている。修仙者や、お前のような力を持つ者を狙って襲うのだ。普通の人には興味がない」


 「じゃあ、普通の人たちは安全なのか?」


 「いいや、そうではない。鬼より弱い妖怪たちは普通の人を攻撃する。だから結界が必要なのだ。人はな、何百年も同じ土を踏みしめてきた。そこを離れるのは、死ぬより辛いものだ。」


 正雪は静かにうなずいた。


 「じゃあ俺、明日から手伝う。結界を張るんだろ。霊符も書けるようになったし。」


 「よし、いい子だ。」


 道斎は微笑んだが、その眼の奥には、深い翳りがあった。彼にはわかっていた──鬼が求めるのは霊力の強き者、つまり自分と、そして正雪であるということを。



【結界の作業】


 翌朝、正雪と道斎は隣村へ向かう山道を進んでいた。道斎は荷を背負い、正雪は昨日道斎から教わったばかりの仙術の型を何度も反復している。


 道斎の教えは、修行塾のものとは全く異なっていた。


 「火弾術とは、ただ霊力を圧縮して放つのではない。火とは、お前の内なる生命の熱。それを掌の中で、獣の咆哮のように凝縮するのだ」


 正雪は道斎の教え通りに両掌を合わせ、体内の霊力を意識して巡回させる。


 体内で霊力が回転し、温かい塊が凝縮されるのを感じる。修行塾では感じられなかった、この熱い感覚こそが、自分が仙術を使えている証拠だった。


 「すごいな、師匠の教え方は。俺にもできる」


 「当たり前だ。揚羽家は何代も落ちこぼれた傍系だが、その分、宗家の知らぬ裏技を研究し続けてきた。…まぁ、それでも参階止まりだがな」


 道斎は自嘲気味に笑ったが、正雪はそんな師の努力を誰よりも知っていた。


 村に着くと、人々は恐怖に怯えていた。夜中に森から何かの遠吠えが聞こえ、家畜が襲われる被害が出始めているという。


 道斎と正雪は早速、村の結界構築に取り掛かった。霊力石を地面に埋め込み、その上を道斎が符で描いた結界陣で繋いでいく。道斎の熟練した作業はまさに職人芸だった。


 「正雪、わしが霊脈を作る。お前は霊石を使って、霊力を流し込め。結界は力だけではなく、持続性も必要だ」


 正雪は師の指示に従い、霊石の霊力を静かに、しかし絶え間なく流し込み始めた。

 この夜も徹夜した作業だった。

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