『AI企業の「エモさ」を追求する俺が、ブラック企業の神々を論破した話。~報われない努力は罰である~』

DONOMASA

シーシュポスと進捗報告書



午前10時30分。社内は昨日から張り詰めたままの疲労臭と、安物エナジードリンクの甘ったるい匂いが混じり合っている。


広告代理店に勤める思習(シシュウ)は、一晩かけて作り上げた「クライアント向け進捗報告書」(全180ページ)を片手に、デスクに向かった。その足元は、徹夜のせいでフツクと揺れている。


「鬼川さん。例のAI企業の件、進捗報告書、置かせていただきます。……なんとか、今朝方、理論的には完成しました」


思習の目の前には、直属の上司である鬼川が座っている。彼のデスクの上には、昨日提出したばかりの「市場調査分析資料」(全90ページ)が、まるでゴミのように脇に積み上げられていた。思習の努力が読まれることなく終わることを、その山が静かに主張していた。


「おう、シシュウ。ご苦労さん」


鬼川は、思習の顔も見ずに、スマホを操作しながら返事をした。思習が報告書を山の上に置いた瞬間、鬼川は初めて顔を上げた。


「……で、どうなの?この報告書ってさ」


「はい。前回のご指摘を踏まえ、顧客体験(CX)の『共創』を軸に、DX時代の新たなブランディングがどうあるべきか、データと論理で固めました。もう修正は……ないはずです」


思習は疲労からくる眩暈を無視して力を込めた。これで岩は頂上だ。この瞬間だけは、勝利が許される。


しかし、鬼川は報告書に触れることなく、顎に手を当てて静かに言った。


「うーん。シシュウさ。俺はさ、もう一つ上の次元の話がしたいんだよね。この報告書、ぶっちゃけ『エモさ』が足りなくない?」


思習の視界が白く光った。


『エモさ』。それは、徹夜でデータと論理を固めた思習にとって、世界で最も曖昧で、世界で最も具体的な「シーシュポスの岩」を頂上から突き落とす呪文だった。


「え……しかし、鬼川さん。クライアントは感情論よりロジックを……」


「ロジックはいいんだよ。ロジックは。ロジックは空気だから。空気は大事だけど、空気だけじゃ人は動かないでしょ?つまり、この企画書、『空気』で終わってるんだよ」


鬼川はそう言うと、満足げにコーヒーを啜った。彼の得意な戦術は、曖昧な言葉で部下の努力を無に帰し、自分の権威を再構築することだった。


「えーと、つまり……全部、やり直し、で、よろしいでしょうか?」


思習が絞り出すように尋ねると、鬼川は手をひらひらと振った。彼は、賽の河原の鬼のように、無表情で不条理な罰を与える。


「そうだなあ。悪いけど、一旦ゼロベースで、空気じゃない、エモい報告書を、今日中によろしく」


思習の目の前で、徹夜の労苦が巨大な岩となって、地響きを立てながら谷底へと転がり落ちた。


「おや、シシュウさん。まだ帰ってなかったんですか?」


背後から、爽やかな声がした。定時より遅い出社にもかかわらず、リフレッシュした顔の同僚、相原だった。思習のデスクの上で、相原のスマホから「今週末はキャンプ!」というLINE通知の音が響いた。


相原は、打ちひしがれている思習を一瞥し、いつものように冷静に言った。


「シシュウさん、頑張る方向が違いますよ。せっかく作った進捗報告書なんて、誰も読みませんって。あんなもの、データが合ってれば、あとは『やる気』の『ふり』をするためのものですから」


相原はそう言い残し、自分の席でクライアントに提出する報告書に、まるで遊んでいるかのように肉球のスタンプを押し始めた。思習は、相原が先に完成させた「効率的な勝利」の結晶を、口を開けずに見つめた。

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