第7話 鏡の中の男
ポストの白い封筒から滑り落ちた写真を、私はしばらく床の上で見つめていた。
昨日の私。美容室の前で、肩までになった髪を指で弾き、笑っている。
背景のガラスに、男が映っている。
背の高さ、立ち方、持ち方、視線の角度。
——悠真、だった。
喉がひゅっと狭くなる。
私は写真を拾い、封筒の口を指で撫でた。糊は綺麗に剥がれている。
差出人は、やはり書かれていない。
「おはよう」
声に顔を上げると、キッチンの入り口に悠真が立っていた。
私は写真を裏返し、胸の前で押さえた。
「おはよう」
「雨、上がったな。……何、見てた?」
「仕事の資料」
嘘を吐くと、心臓の鼓動が少しだけ速くなる。
輪が一つ締まる音がする。
私は写真をテーブルの奥へ滑らせ、マグカップを手に取った。
◇
出勤の支度をしながら、私は鏡台に写真を立てた。
ガラスの中の“彼”は、少しだけピントが甘い。
——似ているだけ、かもしれない。
きっと。
私は「きっと」を三回唱え、チークを指でぼかした。
玄関に向かうと、悠真が手首の白い革の輪を指でなぞった。
「昨日、夜にテストしたやつ。ちゃんと反応してた」
「反応?」
「玄関の解施錠。アプリのログ」
ログ、という単語が胸の奥で嫌な響きを立てる。
記録は、いつだって片側の正義だ。
私は頷いた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まる瞬間、視線を背中に感じた。
いつものこと。
見られていることが、日常になっていく。
◇
職場に着くと、まずプリンタの前に立った。
封筒の写真をスマホで撮り直し、A4に出力する。
紙になった“鏡の中の男”は、より粗く、より現実的だった。
プリンタの排紙トレイにそれを伏せ、私は給湯室で呼吸を整える。
昼休み、美沙が紙を手に首を傾げた。
「彼氏さん?」
「……ううん。違うと思う」
「こわ。最近、物騒だし。駅前でも盗撮あるって聞いたよ」
物騒、という言葉に、輪が一つ増えた気がする。
私は曖昧に笑って紙を鞄に戻した。
◇
帰り道、美容室の前で足が止まる。
店内の照明は暖かく、鏡がいくつも並ぶ。
ガラス戸を開けると、昨日の美容師が顔を上げた。
「あ、昨日の。調子どうです?」
「すごく軽いです。……昨日、外に、誰か、いました?」
彼は少しだけ目を細め、思い出すように天井を見た。
「ええと、店の向かいの自販機の前に、黒い傘の人が。写真、撮ってたかは分かりませんけど」
黒い傘。銀の留め具。
廊下の角に立てかけられていた、見知らぬ傘。
私は礼を言って店を出た。
風が頬の髪を持ち上げる。
その軽さの中で、胸の奥は重く沈んでいく。
◇
夜。
玄関を開けると、リビングのテーブルに白い小箱が増えていた。
四つ目。
「おかえり」
「ただいま」
「これ、渡したかった」
悠真は箱を手のひらに乗せ、笑った。
私は椅子に腰掛け、リボンを引く。
するり。
中から出てきたのは、耳の輪。
小さな白いイヤーカフ。左右で形が違い、光の角度で淡く色が変わる。
「可愛い」
素直にそう思った。
耳たぶに沿わせ、そっと挟む。
世界の音が、少し柔らかくなる。
「似合う」
悠真が、満足げに頷いた。
輪が増えるたび、彼は微笑む。
私は鏡の中で、自分の輪郭が少しずつ“整えられていく”のを見た。
食事を並べ、手を合わせる前に、私は写真をテーブルに置いた。
鏡の中の男。
「これ、ポストに入ってた」
悠真の表情が、ほんの少し止まった。
すぐに、いつもの柔らかな顔が戻る。
「……怖いな。誰が」
「ねぇ、これ——あなた?」
私の声は震えていない。
「違う」
即答。
「でも、映ってる」
「似てるやつなんていくらでもいる」
「美容師さんが、店の向かいに黒い傘の人がいたって」
「俺じゃない」
沈黙。
私は「謝らない」を思い出す。
そして、問う。
「昨日の昼、どこにいた?」
悠真はスマホを取り出し、『LifeLink』のログを開いて見せた。
青い線が、オフィスの位置で止まり、昼休みの時間帯は食堂の方角にわずか動き、また戻っている。
「ほら」
ログは正しい顔をしている。
私は画面に一瞬だけ光る通知を見逃さなかった。
『近くの機器から位置情報を補足』
(近くの機器——“俺のスマホ”以外が、俺の位置を補っている?)
ぞわり、と背中が波打つ。
私は視線を上げた。
「分かった。……気をつけよう」
それ以上、言葉は続かなかった。
正しさは、時々、会話を殺す。
◇
食後の皿を流しに運び、私は静かに息をそろえた。
「今日、家の中、見回してもいい?」
「何を?」
「カメラとか。……気のせいだと思う。でも、確認したい」
悠真はしばらく黙り、ソファに深く座った。
「疑ってるのか」
「私たちを、疑ってる」
「好きにしろ」
私は踏み台を持ち出し、天井の白い円を外した。
火災報知器。
埃を拭い、裏側に指を這わせる。
プラスチックの内側に、色の違う小さな丸。
光を当てると、鋭い点が一瞬、星みたいに返事をした。
私は手を止める。
「……何してる」
振り向くと、悠真が立っていた。
「埃。掃除」
「俺がやるよ」
「平気。——ほら、綺麗」
白い円を元の位置に戻す。
確かめたいという衝動は、喉の奥で言葉にならず、輪のように丸まって消えた。
◇
夜更け。
洗面所の鏡の前に立つ。
耳の輪を外すと、世界の音が戻ってくる。
蛇口の滴る音、冷蔵庫のモーター、遠くの走行音。
そのすべてが、**“今ここ”**を指さしている。
鏡の縁に、今朝の写真を立てた。
鏡の中の私の後ろで、男がこちらを見ている。
その男の輪郭に指を重ねる。
ガラスは冷たく、私の指は温かい。
温度の差でしか、現実と鏡を見分けられない瞬間がある。
「疲れた?」
背後から声。
鏡の中で、男が私の背に近づく。
私は振り向かない。
鏡に映っていることが、安心の理由になる夜もある。
「少し」
「マッサージする」
指が肩に置かれ、ゆっくりと押される。
目を閉じる。
——この手は、いつか拳になる。
でも今は、優しさだ。
優しさの重みが、肩に沈む。
私は目を開け、鏡の中の男を見た。
彼は穏やかな顔をしていた。
鏡が一瞬、柔らかい水面みたいに揺らいだ気がした。
◇
眠りにつく前、テーブルの上で輪たちを並べた。
指の輪、喉の輪、手首の輪、耳の輪。
四つの円が、一定の距離を保って光る。
私はポケットから、輪にならない紙——封筒の切れ端——を取り出し、輪たちの真ん中に置いた。
紙は四角い。
四角は、閉じない。
四角は、角で立ち止まれる。
私はその角に指を置き、息を吐いた。
消灯。
暗闇は、すべてを丸くする。
輪の気配だけが、肌に残った。
◇
——夢を見た。
白い部屋。
壁一面が鏡で、私は四方に増えている。
それぞれの私が、違う長さの髪をして、違う位置に輪をつけている。
私の後ろに、男が立つ。
私の横にも、前にも、斜めにも。
「どれが、あなた?」
私が問うと、鏡の中の男たちが、同時に首を傾げた。
「どれでも、あなたが選んだものになる」
私は目を覚ました。
喉が渇いていた。
◇
キッチンで水を飲み、寝室へ戻ろうとしたとき、
玄関の電子ロックがピッ、カチャと鳴った。
足が止まる。
今は、誰も外にいないはず。
廊下の先、玄関のドアの隙間に、薄い光。
私はゆっくりと近づき、覗き穴に目を当てた。
誰もいない。
背後で、低い振動音。
振り返ると、テーブルの上のスマホが光っている。
画面に、動画の受信。
差出人不明。
再生すると、洗面所の鏡越しの私が映っていた。
今と同じパジャマ。今と同じ髪。今と同じ耳の輪。
鏡の中の私の背後で、男が立っている。
——今の私の後ろに。
私は振り返った。
誰もいない。
動画の中で、男が私の肩に手を置いた。
今、私の肩には何も触れていない。
鏡は、いくつ前の時間を映している?
鏡の中の男は、いくつ先の時間を歩いている?
玄関のセンサーライトが、ふっと消えた。
私はスマホを握りしめ、寝室のドアを開けた。
ベッドの端に、悠真が座っていた。
暗がりの中で、顔はよく見えない。
「どうした」
声はいつもと同じ温度。
私はスマホを差し出し、動画のサムネイルを見せた。
「……これ、見て」
彼は少しだけ間を置いて、首を振った。
「明日でいい。眠い」
「今、見て」
「明日でいい」
同じ言葉が、二度、三度。
私は静かに息を吸い、吐いた。
謝らない。
引き延ばされない。
「分かった。じゃあ、私が見る」
私は自分で再生した。
音はない。
鏡の中の私が、ゆっくりと振り向く。
その瞬間、動画の男の顔が画面いっぱいに近づいた。
隙間のない黒。
私のスマホのカメラレンズを覗き込むように。
動画はそこで途切れた。
再生時間は、0:13。
十三秒の“見られる”が、胸の底に粘つく。
寝室の窓ガラスに、薄く映る二人分の影。
私と、悠真。
——鏡は、二人しか映していない。
私はやっと、息を吸った。
「ねぇ」
声が小さくなる。
「私、誰に見られてるの?」
返事は、なかった。
沈黙だけが、部屋いっぱいに広がった。
◇
朝。
ポストには、また白い封筒。
中には、鍵穴の写真が一枚。
我が家の玄関。
鍵穴の縁に、小さな丸い反射。
目のように見える。
封筒の底に、小さな紙片が落ちた。
そこには、たった四文字——
> 「中を見て」
私は玄関の床に膝をつき、鍵穴に目を寄せた。
金属の向こう、極小の黒い点が、こちらを覗いている。
瞬きを、したように見えた。
息を飲む音だけが、廊下に転がった。
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