第7話 鏡の中の男

 ポストの白い封筒から滑り落ちた写真を、私はしばらく床の上で見つめていた。

 昨日の私。美容室の前で、肩までになった髪を指で弾き、笑っている。

 背景のガラスに、男が映っている。

 背の高さ、立ち方、持ち方、視線の角度。

 ——悠真、だった。


 喉がひゅっと狭くなる。

 私は写真を拾い、封筒の口を指で撫でた。糊は綺麗に剥がれている。

 差出人は、やはり書かれていない。


 「おはよう」


 声に顔を上げると、キッチンの入り口に悠真が立っていた。

 私は写真を裏返し、胸の前で押さえた。

 「おはよう」

 「雨、上がったな。……何、見てた?」

 「仕事の資料」


 嘘を吐くと、心臓の鼓動が少しだけ速くなる。

 輪が一つ締まる音がする。

 私は写真をテーブルの奥へ滑らせ、マグカップを手に取った。



 出勤の支度をしながら、私は鏡台に写真を立てた。

 ガラスの中の“彼”は、少しだけピントが甘い。

 ——似ているだけ、かもしれない。

 きっと。

 私は「きっと」を三回唱え、チークを指でぼかした。


 玄関に向かうと、悠真が手首の白い革の輪を指でなぞった。

 「昨日、夜にテストしたやつ。ちゃんと反応してた」

「反応?」

 「玄関の解施錠。アプリのログ」

 ログ、という単語が胸の奥で嫌な響きを立てる。

 記録は、いつだって片側の正義だ。

 私は頷いた。

 「行ってきます」

 「行ってらっしゃい」


 ドアが閉まる瞬間、視線を背中に感じた。

 いつものこと。

 見られていることが、日常になっていく。



 職場に着くと、まずプリンタの前に立った。

 封筒の写真をスマホで撮り直し、A4に出力する。

 紙になった“鏡の中の男”は、より粗く、より現実的だった。

 プリンタの排紙トレイにそれを伏せ、私は給湯室で呼吸を整える。


 昼休み、美沙が紙を手に首を傾げた。

 「彼氏さん?」

 「……ううん。違うと思う」

 「こわ。最近、物騒だし。駅前でも盗撮あるって聞いたよ」

 物騒、という言葉に、輪が一つ増えた気がする。

 私は曖昧に笑って紙を鞄に戻した。



 帰り道、美容室の前で足が止まる。

 店内の照明は暖かく、鏡がいくつも並ぶ。

 ガラス戸を開けると、昨日の美容師が顔を上げた。

 「あ、昨日の。調子どうです?」

 「すごく軽いです。……昨日、外に、誰か、いました?」

 彼は少しだけ目を細め、思い出すように天井を見た。

 「ええと、店の向かいの自販機の前に、黒い傘の人が。写真、撮ってたかは分かりませんけど」

 黒い傘。銀の留め具。

 廊下の角に立てかけられていた、見知らぬ傘。

 私は礼を言って店を出た。

 風が頬の髪を持ち上げる。

 その軽さの中で、胸の奥は重く沈んでいく。



 夜。

 玄関を開けると、リビングのテーブルに白い小箱が増えていた。

 四つ目。

 「おかえり」

 「ただいま」

 「これ、渡したかった」

 悠真は箱を手のひらに乗せ、笑った。

 私は椅子に腰掛け、リボンを引く。

 するり。

 中から出てきたのは、耳の輪。

 小さな白いイヤーカフ。左右で形が違い、光の角度で淡く色が変わる。

 「可愛い」

 素直にそう思った。

 耳たぶに沿わせ、そっと挟む。

 世界の音が、少し柔らかくなる。

 「似合う」

 悠真が、満足げに頷いた。

 輪が増えるたび、彼は微笑む。

 私は鏡の中で、自分の輪郭が少しずつ“整えられていく”のを見た。


 食事を並べ、手を合わせる前に、私は写真をテーブルに置いた。

 鏡の中の男。

 「これ、ポストに入ってた」

 悠真の表情が、ほんの少し止まった。

 すぐに、いつもの柔らかな顔が戻る。

 「……怖いな。誰が」

 「ねぇ、これ——あなた?」

 私の声は震えていない。

 「違う」

 即答。

 「でも、映ってる」

 「似てるやつなんていくらでもいる」

 「美容師さんが、店の向かいに黒い傘の人がいたって」

 「俺じゃない」


 沈黙。

 私は「謝らない」を思い出す。

 そして、問う。

 「昨日の昼、どこにいた?」

 悠真はスマホを取り出し、『LifeLink』のログを開いて見せた。

 青い線が、オフィスの位置で止まり、昼休みの時間帯は食堂の方角にわずか動き、また戻っている。

 「ほら」

 ログは正しい顔をしている。

 私は画面に一瞬だけ光る通知を見逃さなかった。

 『近くの機器から位置情報を補足』

 (近くの機器——“俺のスマホ”以外が、俺の位置を補っている?)

 ぞわり、と背中が波打つ。

 私は視線を上げた。

 「分かった。……気をつけよう」

 それ以上、言葉は続かなかった。

 正しさは、時々、会話を殺す。



 食後の皿を流しに運び、私は静かに息をそろえた。

 「今日、家の中、見回してもいい?」

 「何を?」

 「カメラとか。……気のせいだと思う。でも、確認したい」

 悠真はしばらく黙り、ソファに深く座った。

 「疑ってるのか」

 「私たちを、疑ってる」

 「好きにしろ」


 私は踏み台を持ち出し、天井の白い円を外した。

 火災報知器。

 埃を拭い、裏側に指を這わせる。

 プラスチックの内側に、色の違う小さな丸。

 光を当てると、鋭い点が一瞬、星みたいに返事をした。

 私は手を止める。

 「……何してる」

 振り向くと、悠真が立っていた。

 「埃。掃除」

 「俺がやるよ」

 「平気。——ほら、綺麗」

 白い円を元の位置に戻す。

 確かめたいという衝動は、喉の奥で言葉にならず、輪のように丸まって消えた。



 夜更け。

 洗面所の鏡の前に立つ。

 耳の輪を外すと、世界の音が戻ってくる。

 蛇口の滴る音、冷蔵庫のモーター、遠くの走行音。

 そのすべてが、**“今ここ”**を指さしている。


 鏡の縁に、今朝の写真を立てた。

 鏡の中の私の後ろで、男がこちらを見ている。

 その男の輪郭に指を重ねる。

 ガラスは冷たく、私の指は温かい。

 温度の差でしか、現実と鏡を見分けられない瞬間がある。


 「疲れた?」


 背後から声。

 鏡の中で、男が私の背に近づく。

 私は振り向かない。

 鏡に映っていることが、安心の理由になる夜もある。

 「少し」

 「マッサージする」

 指が肩に置かれ、ゆっくりと押される。

 目を閉じる。

 ——この手は、いつか拳になる。

 でも今は、優しさだ。

 優しさの重みが、肩に沈む。

 私は目を開け、鏡の中の男を見た。

 彼は穏やかな顔をしていた。

 鏡が一瞬、柔らかい水面みたいに揺らいだ気がした。



 眠りにつく前、テーブルの上で輪たちを並べた。

 指の輪、喉の輪、手首の輪、耳の輪。

 四つの円が、一定の距離を保って光る。

 私はポケットから、輪にならない紙——封筒の切れ端——を取り出し、輪たちの真ん中に置いた。

 紙は四角い。

 四角は、閉じない。

 四角は、角で立ち止まれる。

 私はその角に指を置き、息を吐いた。


 消灯。

 暗闇は、すべてを丸くする。

 輪の気配だけが、肌に残った。



 ——夢を見た。

 白い部屋。

 壁一面が鏡で、私は四方に増えている。

 それぞれの私が、違う長さの髪をして、違う位置に輪をつけている。

 私の後ろに、男が立つ。

 私の横にも、前にも、斜めにも。

 「どれが、あなた?」

 私が問うと、鏡の中の男たちが、同時に首を傾げた。

 「どれでも、あなたが選んだものになる」

 私は目を覚ました。

 喉が渇いていた。



 キッチンで水を飲み、寝室へ戻ろうとしたとき、

 玄関の電子ロックがピッ、カチャと鳴った。

 足が止まる。

 今は、誰も外にいないはず。

 廊下の先、玄関のドアの隙間に、薄い光。

 私はゆっくりと近づき、覗き穴に目を当てた。


 誰もいない。


 背後で、低い振動音。

 振り返ると、テーブルの上のスマホが光っている。

 画面に、動画の受信。

 差出人不明。

 再生すると、洗面所の鏡越しの私が映っていた。

 今と同じパジャマ。今と同じ髪。今と同じ耳の輪。

 鏡の中の私の背後で、男が立っている。

 ——今の私の後ろに。


 私は振り返った。

 誰もいない。

 動画の中で、男が私の肩に手を置いた。

 今、私の肩には何も触れていない。

 鏡は、いくつ前の時間を映している?

 鏡の中の男は、いくつ先の時間を歩いている?


 玄関のセンサーライトが、ふっと消えた。

 私はスマホを握りしめ、寝室のドアを開けた。


 ベッドの端に、悠真が座っていた。

 暗がりの中で、顔はよく見えない。

 「どうした」

 声はいつもと同じ温度。

 私はスマホを差し出し、動画のサムネイルを見せた。

 「……これ、見て」

 彼は少しだけ間を置いて、首を振った。

 「明日でいい。眠い」

 「今、見て」

 「明日でいい」

 同じ言葉が、二度、三度。

 私は静かに息を吸い、吐いた。

 謝らない。

 引き延ばされない。


 「分かった。じゃあ、私が見る」


 私は自分で再生した。

 音はない。

 鏡の中の私が、ゆっくりと振り向く。

 その瞬間、動画の男の顔が画面いっぱいに近づいた。

 隙間のない黒。

 私のスマホのカメラレンズを覗き込むように。

 動画はそこで途切れた。

 再生時間は、0:13。

 十三秒の“見られる”が、胸の底に粘つく。


 寝室の窓ガラスに、薄く映る二人分の影。

 私と、悠真。

 ——鏡は、二人しか映していない。

 私はやっと、息を吸った。


 「ねぇ」

 声が小さくなる。

 「私、誰に見られてるの?」


 返事は、なかった。

 沈黙だけが、部屋いっぱいに広がった。



 朝。

 ポストには、また白い封筒。

 中には、鍵穴の写真が一枚。

 我が家の玄関。

 鍵穴の縁に、小さな丸い反射。

 目のように見える。


 封筒の底に、小さな紙片が落ちた。

 そこには、たった四文字——


 > 「中を見て」


 私は玄関の床に膝をつき、鍵穴に目を寄せた。

 金属の向こう、極小の黒い点が、こちらを覗いている。

 瞬きを、したように見えた。


 息を飲む音だけが、廊下に転がった。

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