第4話 事を荒立てないように
朝の教室は、いつもよりざわめきに満ちていた。
窓辺から差し込む柔らかな光が、黒板の粉末を淡く輝かせ、穏やかなはずの空気が一瞬で騒然としたものに変わった。
教壇前に立つ二十代くらいの女性の担任――
「実は、私、大野くんと付き合ってるんです」
咲那のセリフに、教室がどっと沸いた。
女子生徒たちの驚きの視線が咲那に注がれ、男子たちは孝太を鋭く睨みつけた。
「本気かよ」
「大野と?」
「あの目立たない奴と?」
咲那の言葉が波のように教室中に広がり、しまいには孝太の耳を刺激する。
孝太は机に顔を埋めたくなり、頭を抱え込みそうになった。
昨日まで平凡な高校生活を送っていたはずが、急転直下の展開だ。
女性教師が騒がしい室内を眺め、黒髪のポニーテイルを揺らしながら、軽く咳払いをして注意を促した。
「質問はこれくらいにしましょう。宮崎さんの席はですね、大野くんの後ろでお願いしますね」
曖昧に決めると、咲那は壇上で軽く会釈し、軽快なステップで動き始めた。
孝太の後ろの空いた席へ向かう途中、彼女の髪から甘い香りがふわりと漂ってきた。
「これから学校でもよろしくね」
咲那が耳元で、孝太に聞こえる声で囁く。
温かな息が首筋をくすぐり、孝太は思わず肩を震わせた。
クラスメイトの視線が熱く背中を焦がす。
「宮崎さんが着席したところで、今日の連絡事項を始めます」
先生は連絡帳を広げ、淡々と説明を進めていく。
ホームルームが終了すると、休み時間はまさに嵐の始まりだった。
男子生徒たちが孝太の席を囲み、矢継ぎ早の質問を浴びせてくる。
「おい、大野、どんな仲なんだよ」
「いつから付き合ってんだ?」
「宮崎さんみたいな人に、何か特別なことしたのか?」
突然の尋問に、孝太は座ったまま言葉を失い、ただ首を振るしかなかった。
そんな中、後ろの席から咲那がにこやかに割り込んだ。
「みんな、落ち着いて。孝太くんは何も悪くないの」
咲那の言葉に、男子たちは渋々退いたが、睨みは残った。
「宮崎さんがそう言うなら仕方ないけど……大野、変な真似したら容赦しねえからな」
孝太は耐えかね、教室を飛び出す。
一限目のチャイムが鳴るまで、別の場所で息を潜めようと思った。
孝太は廊下を歩き、一年生の教室エリアへ向かう。
ちょうど妹の
兄の顔を見るなり、妹は目を大きく見開いた。
「お兄ちゃん、どうしたの? 顔色が悪いけど」
「まあ、色々とあったんだよ……色々とな」
「宮崎さんのこととか? もしかして周りが何か言ってきたんでしょ」
図星をつかれた孝太はすんなりと頷いた。
凛はくすりと笑い、ポケットから一枚のカードを抜き出した。それは、いつものタロットだ。
見せられたのは、十四番目の“節制”のタロットカード。
金色の翼を持つ天使が、片足を川に浸し、もう片方を陸に置いて、二つの杯の間で黄金色の液体を静かに注ぎ替えている絵柄。
天使の額には輝く光輪が描かれ、背景には虹色の道が遠くの山へと続いている。
「テンペランスよ。大アルカナの十四番目。調和と中庸のカードなの。天使は水と火、物質と精神をバランスよく混ぜ合わせる象徴で。テンペランスは適度な抑制と忍耐を促してるの」
凛はカードをイラストが描かれているところ軽く指でなぞりながら、静かに言葉を続けた。
「今のお兄ちゃんの状況にぴったりだね。感情の波が激しいでしょ? クラスメイトの嫉妬とかで。でもここで怒ったり慌てたりすると、バランスが崩れてさらに厄介なことになるよ。天使みたいに、両方の杯を交互に見て、ちょうどいい量を移し替えるイメージで。急がず、焦らずね。後、周囲の空気を読みながら、少しずつ対応していくのが大事だからね」
孝太は妹が持つカードの天使を見つめた。
穏やかな表情で液体を注ぐ姿が、なぜか心を落ち着かせる。
「具体的には?」
「例えば、男子たちの質問には曖昧に微笑むだけ。女子たちの視線には軽く会釈。咲那さんには……まあ、彼女のペースに合わせてかな。でも自分のペースを崩さない程度に。あとにかく感情的に行動しないようにね」
妹はテンペランスのカードを制服のポケットにしまう。
「周囲を見て動くか……確かにそういう事も大事だよな」
「後はお兄ちゃん次第だから。がんばってね。私、移動教室だから。そろそろ行かないと」
凛は教室から出てきた友達と共に立ち去って行ったのだ。
一人になった孝太は深呼吸した。
波を立てず、冷静にと自分に言い聞かせる。
凛の言葉が、胸の奥で静かに響く。
「一時限目が始まる頃合いだし、俺も教室に戻るか」
いつもの教室へ戻ろうと廊下を歩き出す。
そんな時、正面の方から元カノの
彼女は嘲るような笑みを浮かべていたのだ。
「へえ、アンタさ、もう新しい彼女できたんだ?」
「音羽には関係ないだろ」
孝太はぶっきら棒な口調で言い返す。
「ふーん、アンタって調子に乗ってるんじゃない?」
「別に、そんなつもりはないけど」
「ていうか、あの転校生、アンタみたいな地味な奴のどこに惹かれたのかしらね」
音羽の言葉に苛立ちが胸に湧く。
孝太が反論しかけた瞬間、凛のカードとアドバイスが頭をよぎる。
感情を抑えろ。杯の液体をこぼさないように。ここは穏やかに。
その言葉が孝太の心を落ち着かせる。
カードに描かれた天使の微笑みを思い浮かべながら。
「咲那には咲那なりの理由があると思うよ。俺はこれで」
孝太は簡潔に返答すると、平然のした表情で音羽の横を素通りする。
背後から舌打ちが聞こえたが、無視した。
争いは無益だ。
妹の言葉通り、状況を察知し、穏やかに振る舞う。それが今の最善策だった。
教室に戻ると、咲那は席に座っており、クラスメイトから質問の嵐を受けている最中だった。
孝太は自分の席まで向かう。
嫉妬染みた視線はまだ痛いが、心を少し落ち着けた。
今は周囲の空気を読み取りながら切り抜けようと思う。タロットの天使のように、二つの杯の間で黄金の液体を静かに移し替え、バランスを保ちながら。
孝太にとって新しい学校生活の幕開けだった。
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