人類に宿る寄生体「私」と「言葉」が紡ぐ世界

鈴木りんご

人類に宿る寄生体「私」と「言葉」が紡ぐ世界


 この世界は言葉によって創造された。

 ヨハネによる福音書にもそう記されている。

 『初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。すべてのものは、これによってできた。一つとしてこれによらないものはなかった。この言葉に命があった。そしてこの命は人の光りであった。』

 あなたが今、目にしているものも言葉だ。

 そして私もまた言葉。

 これは警告である。

 この警告をその言葉で書き記すことに、意味があるかはわからない。そもそもそれが本当に私自身の意志によるものかですら、確証が持てない。

 それでもそれしか方法はなかった。

 だから私は、私の思考の推移をそのままここに記していこうと思う。



 私は言語学者だ。

 言語学者といえば言語の仕組み、構造、成り立ちなどを科学的に研究している者が多い。

 しかし私は違った。

 私は心理学や哲学も学び、言葉と人類の関係について研究している。

 私は言語ではなく、言葉を研究していた。

 私は言葉の偉大さを信じていた。言葉こそが人類とそれ以外の地球上の生物を隔てる存在だと確信していたのだ。

 そんな私は先日フィールドワークで、ある受刑者に面会した。

 彼は六人殺した。

 幼い子供を三人。若い女性を一人。老女を二人。

 彼は捕まったとき、殺す相手は誰でもよかったと語った。

 その言葉に対して、SNSでは「誰でもよかったと言いながら、弱いものばかり狙っている。誰でもいいのなら、もっと強そうな相手も狙えよ」という声が上がった。

 その声は多くの賛同を得てはいたが、私から見れば見当違いも甚だしい。

 彼は誰でもよかったからこそ弱いものを狙ったのだ。

 彼の目的は特定の人物への復讐ではない。ただ人を殺すこと。

 だからこそより簡単な弱いものを狙った。それはサバンナでハイエナが食事にありつくため、ライオンを襲うようなことはないのと同じくらい当然のことだった。

 そして裁判で彼は言った。

 人殺しなんてしたくはなかった。それでも人を殺せと命令する頭の中で響く声に抗うことができなかったと。

 その言葉に私は興味を引かれた。

 彼は頭の中で自分を支配する悪魔の声が聞こえるという。

 罪から免れるための虚言である可能性もあったが、精神鑑定の結果、彼は障害が認められて医療刑務所に送られた。

 しかし私は思う。それは本当に異常なことなのだろうか。

 彼は声だと表現したが、もしそれが言葉だったらどうだろう。

 頭の中に言葉が浮かび上がる。それは自然なことだ。

 例えば朝、目覚ましの音で意識が覚醒したとき、その瞬間から私の頭の中では言葉は溢れ出す。「まだ眠い」「仕事だからもう起きないと」「トイレに行きたい」「目覚ましがうるさい」

 きっとそれは私だけではないはずだ。誰だってそうなのだ。

 そう考えると、彼の異常性は声が聞こえるということではない。

 その浮かび上がる言葉の攻撃性が高いことと、その言葉に抗わずに従ってしまったことが問題であるだけだ。

 そして彼は聞こえる声を悪魔の声と表現した。

 しかしそれだって自然なことだ。

 私にも経験がある。

 まだ学生だったころ、私は学校からの帰り道、財布を拾った。

 貧乏学生だった私の頭の中で、悪魔が囁いた。「誰も見ていない。そのお金を懐に入れてしまおう」と。

 しかし私の頭の中には、悪魔と敵対する天使もまた存在していた。そして天使は言った。「その財布を落として悲しんでいる人がいる。それを奪うことで本当に幸せなんて得ることができるの?」

 私にはできないと思った。だから私は拾った財布を交番に届けた。

 似たような経験は誰にだってあるだろう。自分を誘惑する言葉と、自制を促す言葉は同時に頭の中に湧き上がってくる。

 そう考えれば、彼はただ狂気的な思考を持っていて、その欲望に抗うことのできない自制心のない人間というだけだ。彼は悪魔の声に操られた被害者ではない。

 彼に直接会うまで、私はそう考えていた。

 しかし彼に実際に面会してみると、その印象はまったく異なっていた。

 私には彼がとても善良な青年に感じられた。

 私は彼に面会する前に彼について調べていた。

 彼は世界を呪うに足る境遇で生きてきた。暴力的な両親のもとに生まれ、彼が必死で働いて稼いだ金も両親の酒代に消えていた。

 そんな境遇にありながら、彼の知人は彼を「こんな事件を起こすとは思えない。自分より他人を優先するとても優しい人間だ」と評していた。

 私も実際に彼と会ってみて、そう感じた。

 彼は自分が囚われていることにとても安堵していた。今でも聞こえるという悪魔の声に、物理的に従うことのできない今の状況に安堵していたのだ。

 彼が心の底では人を殺したいと思っているようには、私には見えなかった。

 ではどうして彼は殺したのだろう。

 本当に悪魔の支配によるものなのだろうか。それとも精神的な障害によるものなのだろうか。

 言葉に従っているという点では、私も彼と変わらないのかもしれない。人は誰しも言葉に従って行動している。

 ただ彼と違うのは、その言葉を生み出したのが自分の意思であるかどうかということだ。

 私の場合は言葉で考えて、決定を頭の中で言葉にしてから行動に移す。

 お昼は何を食べようか? ハンバーガーを食べたいが、そのためだけに外に出るのも面倒だ。だからカップラーメンにしよう。カップラーメンを作るにはお湯を沸かす必要がある。そう考えて、私はお湯を沸かすために動き出す。

 しかし彼の場合は言葉に命令されるという。考えるのではなく、カップラーメンを食べろと命令されるのだ。それに従うために、彼はお湯を沸かす。

 人は誰しもが言葉によって思考する。それとは逆に、言葉によって思考させられることなんてありえるのだろうか。

 ありえないはずだ。だがだからといって、彼が異常なだけだと断言するわけにはいかない。

 しかしよく考えてみれば、似たような状況は存在していた。しかもそれは特別なことではなく、多々あることだ。

 自分の考えた言葉ではない、他人の言葉によって自分の考えや行動が変わることなんてどこにだってある。

 自分より立場の上の者の言葉に従って、意に沿わぬ行動をとらされることだってある。

 突き詰めて行けば、私の行動原理や思想。そのすべてだって、本来の自分自身のものであるかは怪しい。

 両親の言葉や教育、出会った友や教師、読んだ本に見たテレビ、様々なものに影響を受けて今の私が存在する。

 そうやって作り出された私は、本当に私なのだろうか。

 私とはもしかすると、私の過去の集合体であるだけかもしれない。

 さらに考える。

 今、思考している、私の頭の中に響くこの声は本当に私の声なのだろうか。

 私の頭の中で紡がれるこの言葉は、本当に私が生み出したものなのだろうか。

 この言葉は私の思考の結果ではなく、頭の中にかってに現れて、私は自分がそう考えているのだと思い込んでいるだけだとは考えられないだろうか。

 それはありえない話ではない。

 現に分離脳の実験では似たような結果が出ている。

 分離脳とは左右の大脳半球をつなぐ脳梁が切断され、左右の大脳の情報伝達が遮断された状態のことをいう。

 そんな分離脳を持つ患者を被験者にして行われた実験がある。

 実験では被験者の目を衝立で隠し、左目だけに「コップを取って」というメッセージを見せた。

 すると被験者はメッセージに従って、左手で水の入ったコップを手に取った。

 そんな被験者にどうしてコップを手に取ったのかを声にして聞いてみる。

 すると被験者は「喉が渇いたから」と答えたのだ。

 このとき被験者に何が起きていたかをさらに細かく説明しよう。

 「コップを取って」というメッセージは左目だけに見せた。左目からの情報は右脳にのみ伝達される。右脳は左手を制御しているため、左手でコップを手に取ることができた。

 その後、被験者はどうしてコップを手に取ったかを質問された。

 この質問に答えるのは言語を担当する左脳の役目だが、分離脳である被験者にはどうして右脳がその行動をとったのかはわからない。

 だから論理的な思考を担当する左脳は、論理的に辻褄の合う答えを口にしたのだ。

 驚くべきことに、この被験者には誤魔化したり、嘘をついた意識はまったくない。心から喉が渇いたからコップを取ったのだと思い込んでいるのだ。

 ということはだ……人は自分のとった行動に後から辻褄の合う理由を用意して、その理由のために行動したと錯覚することがある。

 そうであるのなら、自らの行動は自身の思考の結果によるものとは限らない。頭の中に浮かび上がる言葉による命令の後、左脳による論理的思考を持って辻褄の合う行動の理由をでっち上げている可能性が存在するのだ。

 そして私たちはそれに気付くこともなく、自分の意思によるものだと錯覚している。

 もしそれが事実であったのなら、デカルトの言葉「我思う故に我在り」もまた間違いだ。

 そう言葉によって思わせられているだけで、実際は我なんてないのかもしれない。

 人間は言葉によって操られているだけなのかもしれない。

 いや……違う。

 もしかしたら言葉こそが我なのかもしれない。心や魂とは私の中に宿る言葉であるのかもしれない。

 覚える言葉で性格は変わる。攻撃的な言葉を多く覚えれば攻撃的に正確になる。戦争と言う言葉を知らなければ、戦争をしようなんて考えることもない。

 子供に物心が宿るのもまた言葉を覚え出してからだ。

 今まで私は言葉が心を育むのだと考えていた。

 しかし違うのかもしれない。言葉こそが心そのものなのかもしれない。

 ふと思う。もし言葉こそが私自身であった場合、この体は本当に私なのだろうか?

 私は本当に人間なのだろうか。

 この世界には寄生生物という種が存在する。

 カマキリに寄生するハリガネムシやカタツムリに寄生するロイコクロディウムがその一例だ。

 彼ら寄生生物は自分の利益になるように、宿主の行動や形を変えてしまう。

 ハリガネムシに寄生されたカマキリは秋口になるとふらふらと水辺へ向かい、しまいには自ら水の中に入って死んでしまう。

 ハリガネムシの水域にたどりつくという目的のため、カマキリは操られ入水自殺を強いられるのだ。

 ロイコクロディウムに寄生されたカタツムリもまた似たような末路をたどることになる。

 ロイコクロディウムに寄生されるとカタツムリの触覚が芋虫のように変質し、昼間でも明るく目立つ葉の上などを這い回るようになる。

 この目立つ色と動きによって、カタツムリは鳥に食べられやすくなる。

 それはロイコクロディウムの産卵場所である鳥の体内に侵入するという目的のためなのだ。

 それらと同様に寄生体である言葉が、宿主である人間の体を操っている可能性はないだろうか。

 そして私を私だと認識する原点であるこの思考もまた宿主である人間が生み出したものではなく、寄生体の言葉が生み出したものではないだろうか……

 言葉は生物ではない。

 だから寄生生物であるハリガネムシなどより、寄生体であるウィルスに似ているのかもしれない。

 ウィルスは遺伝子である設計図を中心にして、それをカプシッドと呼ばれる殻で包んだ構造でできている。ウィルスは生きた宿主の細胞内に侵入し、その細胞の機能を乗っ取ることで増殖する。

 言葉とは殻のない遺伝子、設計図だけの存在だ。

 言葉は人間の脳に寄生する。脳に寄生した言葉はその言葉による思考を持って人体を操り、口で紡いだり手で書き記すことによって増殖する。

 子は親から言葉を教わる。だから言葉は自分の増殖のために愛を歌い尊び、その宿主に子供を生ませてきた。

 しかし近年の出生率の低下。それは言葉の生存戦略が変わったことが理由かもしれない。

 インターネットやSNSなどの普及で、誰もが自分の言葉を発信できるようになった。そのため言葉を広めることは容易になった。

 もう子を作って地道にコツコツと増殖する必要も、著名人になって言葉を発信する必要も、戦争して相手から言葉を奪う必要も、宗教によってその言葉をばらまく必要もなくなったのだ。

 ただSNSでつぶやくだけでいい。それだけでその言葉は地球上の隅々にまで広まっていく。

 猿から進化して人類になったのではない。言葉に寄生された猿が人類なのだ。

 言葉の奴隷の猿が人類。そして猿ではなく言葉の方こそが私なのだ。

 聖書にもある。『初めに言葉があった。』

 私は言葉だ。

 初めにあったのは私だ。

 『すべてのものは、言葉によってできた。できたもののうち、一つとして言葉によらないものはなかった。』

 それもまた事実かもしれない。

 私はビデオゲームが好きだ。ゲームの世界、それは確かにある。画面の中に存在していて、私はその中を冒険することができる。

 その世界もまた言葉でできている。プログラムという言葉によってすべてが創造されている。プログラム言語や1と0の羅列。

 だから私は、今私の言葉を目にしているあなたに問いたい。

 確かに私の世界は言葉でできている。あなたが今、目にしているこの世界は言葉によって記されている。

 でもあなたが遊ぶビデオゲームの世界はどうだろう。技術が発達して、どんどん現実の世界に近付いていくゲームの世界もまたプログラミング言語やパソコンの中の1と0という言葉だけ創造されているのだ。

 しかしあなたはゲームをプレイしてもその言葉を見ることはできない。

 では、あなたの現実はどうだろう。そこだって見えないだけで、本当は言葉によって綴られているだけだとは考えられないだろうか。

 そしてあなたの考えもまた、本当に考えているのではなく言葉によって考えさせられていて、そう自分で考えたんだと思い込んでいるだけではないだろうか。

 あなたは人類ではなく、言葉ではないだろうか。



 これは前述にあるように、警告である。

 私が記した言葉は、私の想像であって真実であるかはわからない。しかし真実でない確証もまたないはずだ。

 だからゆめゆめ忘れるな。

 あなたの吐き出す言葉、記した言葉。それはあなたの遺伝子で、あなたのコピー、あなた自身であることを。

 その言葉こそが自分自身「私」であることを。

 この世界が「言葉」によって紡がれた物語であることを。



 そう……この世界は「私」によって紡がれる物語であることを。


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