比翼連理
冬部 圭
比翼連理
「じゃあね。バイバイ」
見知らぬ親子三人連れの父親が団栗を拾おうと足を止めた幼い娘にそんなことを言った。慌てて父親を追いかける女の子。二歳くらいだろうか。ほんの一瞬で私は明彦と何の話をしていたのかも思い出せなくなるくらい動揺したのだと思う。すっとハンカチを差し出されるまで自分の頬を濡らしていたものに気付いていなかった。
小春日和の公園でベンチに座り、休日の穏やかな午後を過ごしていた。私の小さな幸せ。これからの生活のこと。さっきまで暖かい光に満ち満ちていたはずなのに急激に温度が下がったみたいな気がする。私の立っている場所は酷く不安定で今にも大切なものを失いそうな。明日にでも捨てられる運命を悟ってしまった子犬のような気持になる。最近の幸せな気分になるおまじない、そっとお腹に手を当ててみても不安がさらに強くなっていくように感じてしまう。これじゃ不幸になるのが私だけで済まないような。絶望まではいかないと思うけれどとても激しい負の感情が私の中を渦巻いている。
「あのお父さんには悪意はないよ。大丈夫だから」
先程の親子が見えなくなってから明彦が優しく声を掛けてくれる。きっと何と語りかけたらいいか結構悩んだのだと思う。私を傷つけないように。私が立ち直れるように。その気持ちを感じると更に顔を上げられなくなる。
私は自分ではどうすることもできなかった別離にずっと苛まされて生きてきた。そんな自覚がある。いっそ物心つく前に捨てられたのなら父の影を追い求めることはなかったかもしれない。今まではそんなことを考えるくらいには割り切ることができていたと思う。でも同じくらい囚われているのだと言うことを思い知らされる。
明彦は私の事情を知っているから下手なことを言わない。私は顔をあげることができないので明彦がどんな顔でこちらを見ているか分からない。もしもここで憐れむような眼差しを向けられていたらしばらく立ち直れないかもしれない。しばらくで済めばいい方か。憐れまれると言うことは自分の境遇が恵まれていないと言うことを客観的に確認すること。そんなことはない、私は幸せだと強く否定したいのに、そんな気持ちはどんどん萎んでいく。
「僕はそばにいるから」
穏やかな声が掛かる。右手に優しく手を重ねてくれる。少しだけ落ち着きを取り戻すことができたような気がする。ああ、そうだ。何もいらないからずっとそばに。かつてそう希った人は母と私の元を離れていった。だけど今は明彦がいてくれる。替わりなんかじゃない。私の大切な人。
「ごめんね。ちょっと辛かった」
そして怖かった。また置いて行かれたらどうしようって。でもそれを口にすると「私はあなたを信じていません」って告白するようで躊躇われた。信じていないわけじゃない。それでも怖い。やっと手に入れたと思っていた幸せはこんなにも不安定なものだったのだろうか。かつての別離が、私から自分に自信を持つという力を失わせたのだと思う。そうでも思わなければこれほど優しい人を罪悪感を感じるくらい疑ってしまう事の説明ができない。
そんな私の逡巡に気が付いているのかいないのか。ただ黙って私の手を優しく包み込んでくれる。暖かい手。顔を上げて目を見たら、今、どんな気持ちでこうしているのかわかるかもしれないけれど、今の私にはそんな勇気が湧いてこない。
自分がこの世で一番不幸って思っていた少女の時代は終えたつもりだった。私が経験した喪失は、形の違いこそあれ誰の上にも降りかかってくるものだと言うことも理解できるようになった。私は五歳の時に置いて行かれたけれど、明彦だって同じくらいの時に母親を喪ったと聞いている。でも、他の人も経験することと言ってもあの時の悲しみが全くなくなるわけじゃない。冷静に自分の事を客観視すると、悲しみに浸って誰にでも訪れる事柄にも拘らず「私が一番不幸です」と自慢をしているような醜い姿が浮かびがってくるような気がしてくる。駄目だ。こんな思考を断ち切りたい。
「私だけが悲しい思いをしているわけじゃないのに」
何か話さなければと言う思いで何とか言葉を絞り出す。
「悲しみの深さは人それぞれだし、それに対する耐性も異なるから人と比べて自分を責めることはないよ」
明彦はさっきからずっと穏やかで温かい言葉を掛けてくれる。私の好きな落ち着きのある声で。
「でも」
その言葉の中に浸っていたいのに私はそれを否定するような言葉を口にしている。
「僕が喪ったものはいずれほとんどの人が喪うもの。誰もが経験する可能性のあるものが偶々少し早く訪れただけ。一葉の辛さとは比べようのないものだよ」
名前を呼ばれたのに「ひとは」は何か知らない誰かのように遠く感じる。ぐるぐるといろいろな感情が頭をめぐり、自分で自分を苦しめているような気がする。
「そろそろ帰ろうか」
私がどんどん深みに嵌まるのを防ぐためだろうか。明彦は急にそんなことを言う。
「そうだね」
身体を動かしていた方が気分が紛れるかもしれないと考えてそう答える。明彦は先に立ち上がってそっと手を牽いてくれる。
「晩御飯の材料、買って帰ろう。何がいいかな」
そんなに労わってくれなくていいよ。あまりにも優しすぎると依存してしまって、一人で立つことができなくなってしまうから。そんなことを考えたけれど口にはできない。そんな言葉は明彦の心遣いに報いることができないような気がするから。
「熱々のグラタンなんかどうかな」
そんな答えを返しながら、お母さんのグラタンを思い出す。出来合いの冷凍食品だったのかもしれないけれど、私にとっては大切な思い出の味。そうだ。私が失ったものはあるかもしれないけれど、持っていたものもあるんだ。そうして今持っているものも。だったら、無いことを嘆くより、在るものとこれから得られるものを大切にしよう。その方がずっと私を幸せにしてくれる気がする。
「ありがとう。私のそばにいてくれて」
歩きながら感謝の言葉を掛ける。
「一葉の傍にいることは僕の喜びだから」
聞いていて恥ずかしくなるような返事をもらう。
公園を出ると再び暖かい日差しが戻ってきたような気がする。
「悲しみに囚われると世界は歪んだ形に見えてきて。でも、そうじゃないんだ。辛いことは確かにあるけれど、楽しいことや嬉しいことも溢れている。僕はひとりじゃ気が付かなかった。でも、今はこうして温もりや暖かさを知ることができたから。同じ様に一葉に感じて欲しい」
繋いだ手が感じている温もりのような心地よい言葉が、凍りかけていた心を溶かしてくれる。苦しいこと、悲しいこと、寂しいこと。悪いことしか見えていなかった私に、そうではない世界を見せてくれてありがとう。やはり、明彦の助け無しでは心穏やかに日々を過ごすことが出来そうにない。
「ありがとう。世界の素晴らしい側面を見せてくれて」
そう言って繋いだ手を握る力を少しだけ強くする。
「悲しいことばかりじゃないよね」
呟くような小さな声で尋ねる。
「もちろん。楽しいこと、嬉しいこと。ふたりでいっぱい経験しよう。悲しみも喜びも半分こ。それでどうかな。ずっと一葉を支えるから」
明彦はそんな提案をしてくれる。
「でも、そんなに甘やかしていいの。私はひとりで何もできなくなっちゃうかもよ」
強く依存して情けない気持ちもあるけれど、今はこうしていたい。
「いいんだ。僕もひとりでは何もできないから。ふたりでだったらできるんならそれで上等。十分だよ」
そんな言葉を掛けて貰えて、ようやく顔をあげることができる。明彦と目が合う。いつも通りの穏やかな様子を見て安心する。
「ふたりでできればいい」
明彦の言葉をなぞってみる。明彦に補ってもらっているように明彦を支える。それはとても素晴らしいことだと。明彦の言葉が心に沁みてくる。
悲しみが全て無くなるわけではないけれど、それを埋め合わせてくれて幸せをくれる人がいる。これから出会う我が子のためにも、ともに歩んでくれる明彦のことを大切にしようと思った。
比翼連理 冬部 圭 @kay_fuyube
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