太陽と雪

櫻葉きぃ

未練

不穏な予感

……鼻をつく、鉄の匂い。


足元に広がる冷たい感触を見下ろすと、赤い色がじわりと靴底を染めていた。


「……え?」


薄暗い路地の奥で、誰かが倒れている。


季節にそぐわない、黒いスーツ姿。


その胸元にある金のエンブレムは──見間違えようがない。


宝月家の執事の証。


私は駆け寄り、膝をついた。


「ち……ちょっと……藤原ふじわら……?


目を開けなさいよ!


……藤原っ!」


肩を揺さぶる。


けれど、ぐったりとした身体は、もう自分で支えることすらできない。


「藤原!


ねぇ、返事してよ……っ」


返事返ってこない。


手のひらに触れた彼の手は、ひどく冷たい。


温もりが、指の間から抜けていくような錯覚すらする。


「藤原……嫌よ……そんなの……」


どんなに呼んでも応えない。


ただ血の海だけが、じわじわと広がっていく。


──その時。


「……あや……お嬢様……」


確かに耳元で聞こえた。


ありえない。


彼の唇は動いていないのに。


「藤原……?」


「……どうか、ご無事で……」


その瞬間、景色が黒く引き裂かれた。


そして、私は──


また、あの夢か。


何度目だろう。


目を開けると、いつもの朝が広がっていた。


ベッドの天蓋越しに、朝日が強く差し込む。


少しだけ目を細めながらカーテンを開ける。


夢の中で見たあの光景が、まだ頭の中に強く残っている。


藤原が倒れていた場所、血だまりの中で無力に横たわる彼の姿が、どうしても消えなかった。


額に手を当てて息を吐いた刹那、不躾に扉が開く。


「彩お嬢様。


お目覚めですか?」


矢吹の声。


「ちょっと!


着替えてるのよ、この変態執事!」


クッションが矢吹の額に命中した瞬間──

“日常”が強引に戻ってくる。



──この男、矢吹 やぶき りょうには、最初から調子を狂わされっぱなしだ。


年頃の女として恋に憧れていた私は、初めて彼に心臓を乱されたとき、できる限り気付かないふりをした。


それからずっと、一緒にいる。


母に似て辛辣で直球すぎる私の言葉を、矢吹は絶妙なタイミングで軌道修正してくれる。


……まあ、本人もたまに毒を吐くけど。

ほんの、ごくたまに。


今日もその“たまに”が来た。



「お嬢様、シャツのボタン……ひとつ、掛け違えておりますよ」


「は……?」


鏡を見ると、本当にズレていた。


「うるさいわね!


言い方ってものがあるでしょうが!」


「いえ。


事実を申し上げただけですが……?」


完璧に無自覚なこの調子が、逆に腹立つ。


私はわざとゆっくりと、睨むように彼を見る。


「私は……


私なりの言い方で、あなたに“仕返し”をしただけよ」


「……はて。


身に覚えがございませんが?」


「下着を見た件、よ」


矢吹の眉が一瞬だけ動いた。


「……あれは不可抗力で──」


「ノーカンにしてあげるって言ってるでしょ。


感謝しなさい」


「……恐れ入ります、お嬢様」


微妙に噛み合わない。


でも、この距離感が嫌いじゃない自分がいるのが悔しい。



「矢吹!


大至急車を!


何ならヘリでもいいわ!」


「ヘリの発着には国家許可が必要でして──」


「じゃあ車に決まってるじゃない!


早く!」


「かしこまりました。


すぐ玄関へ回します」


矢吹は軽く一礼すると、長い脚を迷いなく車庫へ向けて走り出した。


私は慌ただしく黒いブーティを履き、コートの裾を整えながら玄関ホールへ向かう。


ほどなくして、フェラーリの低いエンジン音が建物に反響した。


矢吹が運転席から降り、ドアを開けてくれる。


「お待たせいたしました。


お乗りくださいませ、お嬢様」


「……ええ。


じゃあ、行ってくるわ」


私が乗り込むと、矢吹は静かにドアを閉め、運転席へ戻る。


すぐに車は滑らかに発進した。


けれど──

出発して数秒で、私は眉をひそめる。


今日の矢吹、なんか変ね。


普段はもっと柔らかい物腰なのに、微妙に緊張が走っている。


運転する肩の線が、いつもより固い。


その"違和感"は、車内に満ちる沈黙を不自然に濃くしていた。


たまらず私は、呼吸を整えて口を開く。


「ねえ、矢吹」


「はい、お嬢様」


「……昨日もね。


藤原の夢を見たの」


矢吹の指が、ハンドルの上でほんの一瞬だけ止まった。


「血だまりの中で倒れてる、あの夢。


覚えてる?」


「……忘れたことはございません」


車内の空気がきしむように張りつめる。


私は言葉を続けた。


「藤原の“事故”。


本当に事故だったの?」


矢吹はバックミラー越しに私を見た。


その瞳の奥に、一瞬だけ“迷い”が宿る。


すぐに、いつもの静謐な声に戻った。


「申し訳ございません。


その件は……まだお伝えできる段階にございません」


「……矢吹」


「はい」


「『まだ』ってことは、核心は別にあるんでしょう?」


矢吹は黙り込んだ。


沈黙が肯定より雄弁に、真実を語っている。


そして小さく、押し殺した声音で告げる。


「お嬢様。


──今日だけは、どうかお気をつけて」


まるで、何かが動き出していると確信している人間の顔だった。


フェラーリが静かに病院前へ滑り込む。


外観を目にした瞬間、思わず息をのんだ。


……無駄に豪華。


そう形容するしかない。


白い大理石をふんだんに使った外壁。


吹き抜けのガラス越しに覗くロビーは、シャンデリアが昼間からギラついている。


動物病院というより、高級ホテルのロビーだ。


「相変わらず、立派な建物ですね、彩お嬢様」


矢吹がドアを開けながら、深々と一礼した。


私は軽く頷き、慌ただしくヒールで地面を踏む。


「……行ってくるわ」


「行ってらっしゃいませ。


お気をつけて、お嬢様」


矢吹のお辞儀を目の端で捉えながら、私は早足でエントランスへ向かった。


扉が開いた瞬間、視線がこちらへ一斉に向けられた。


ああ……やっぱり、遅刻よね。


「すみません。遅くなりました……!


大変失礼しました」


深々と頭を下げる。


さながら謝罪会見だ。


「まあ、いいよ。


私も彼女への連絡が遅くなってしまったからね。


私の責任でもある。


気にしないでいいよ」


院長の穏やかな声が救いだった。


本当に足を向けて寝られない。


会議が始まる。


会議はすぐ本題に入った。


貸借対照表、損益計算表、各病院の決算資料。


過去の監査内容まで、細かく洗い直す。


株主総会に向けて準備すべき項目も多い。


数字は悪くない。


むしろ例年より好調だ。


――このとき私は、まだ気づいていなかった。


ここで語られる“順調さ”が、すべて仕組まれた罠だったことを。


 玄関口を出ると、見慣れたフェラーリが静かに停まっていた。


その傍らで、矢吹が直立不動で待っていた。


「そろそろ終わる頃だと思いまして。


車を、彩お嬢様が今朝降りられた場所へ回してまいりました」


……まさか。


この3時間、ずっと待ってたの?


駐車場から玄関口まで、歩いて2分。


待つ必要なんてほとんどない。



そんなこと、藤原なら絶対にしなかった。


藤原が執事だった頃を思い出す。


会議が終われば、私が電話して迎えに来てもらう。

彼はいつも人気のカフェで待機していて、私はそこでコナコーヒーを飲むのが常だった。


私も人を待たせるのは嫌いなたちだ。


その方が気が楽だった。


……だけど、矢吹は違う。


「彩お嬢様。


執事というものは、常にお嬢様のおそばにいるものなのです。


彩お嬢様にもしものことがあったら……私の食い扶持がなくなります」


「一言余計よ、矢吹」


思わず言うと、矢吹は恭しく一礼した。


「……彩お嬢様にそのように言っていただけるとは。


ありがたく、褒め言葉として頂戴いたします」


──本物のバカだ、この執事。


皮肉を混ぜているのに気づきもしない。


天然なのか、鈍感なのか、判別すら難しい。


藤原とは真逆のタイプ。


戸惑う部分は多い。


何しろ私は、男性経験が極端に少ない。


それでも──


この執事といると、妙に退屈しない。


心の隅でそう思う自分にも気づいていた。

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