5
到着ロビーを抜けると、ガラスの向こうに母がいた。
小さく手を振っていた。
昔と同じ姿だった。
背中が少し丸くなったように見えたが、
笑った顔は変わっていなかった。
「あ、陸」
声を聞いた瞬間、喉の奥がきゅっと固くなった。
久しぶりだった。
でも「久しぶり」という言葉は出なかった。
「ただいま」
それだけ言った。
それだけで十分だった。
母の車は前と同じ軽自動車だった。
薄い雪がフロントガラスに積もっていて、
エンジンをかけるとワイパーがゆっくり動いた。
乗り込むと、車の中は暖かかった。
暖房の風が足元に流れてきて、
靴の中の指先が少し溶けていく感じがした。
「荷物、それだけかい?」 「うん」
母はそれ以上何も聞かなかった。
聞かれなくてよかった。
空港を出て、車は国道に入った。
外は曇っていて、空の色が薄かった。
雪は道路の端に少し残っている。
ワイパーが細かい雪を弾きながら動いていた。
実家は由仁町にある。
新千歳から車で一時間半ほど。
都会でも、ど田舎でもない。
コンビニもスーパーも学校もある。
だけど夜は静かで、人が少ない。
そんな場所だ。
母は、ほとんど喋らなかった。
俺も喋らなかった。
それでいい気がした。
沈黙が気まずくないのは、家族だけだ。
道路の景色が少しずつ変わっていく。
店が減り、畑と林が増える。
まっすぐな道が続いた。
信号が少なくて、
そのたびに空の広さがよく見えた。
一時間ほど走ると、
「由仁町」の看板が見えた。
車がそのまま町の中に入る。
右手にコンビニがあった。
看板の色は新しくなった気がしたけど、
場所は昔のままだった。
その横にある郵便局も、変わっていなかった。
スーパーの駐車場に車が数台停まっていた。
買い物袋を下げた老人が歩いていた。
生活のある町だとわかる光景だった。
それだけで少し安心した。
信号待ちになる。
ガラス越しに、向かいの八百屋のシャッターが見えた。
「白菜1/2 98円」と、手書きの紙が貼ってある。
昔、冬になると母に頼まれて、
そこの白菜を買いに行ったことを思い出した。
少し進むと、公園が見えた。
ブランコが雪に半分埋まっていた。
小学生のとき、寒くても外で遊んで、
指先が痛くなって泣きそうになった日があった。
家に帰ってストーブの前で手を温めたことまで思い出した。
「変わってないな」
思ったまま口にした。
母は笑った。
「こんな町、変わるわけないっしょ」
町の中心を抜けると、
家が増え、電柱の数も増えた。
それでも静かだった。
東京は人が多いのに、
誰も“そこにいる”感じがしなかった。
この町は人が少ないのに、
ちゃんと生きている気配があった。
「ここ通学路だったよな」
母が言った。
「うん」
それだけ返した。
返した声が、昔より小さく聞こえた。
しばらく走って、道が細くなった。
街灯が少なくなり、家がまばらに並んでいた。
空が大きく見えた。
家の明かりが見えた。
二階建ての古い家。
屋根に雪が積もっていて、
玄関の前に除雪の跡があった。
車が止まり、エンジンが静かになった。
外に出て息を吸った。
白くなった。
帰ってきた。
その一言だけが、胸の中にまっすぐ落ちた。
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