すっごい好きだった元カレと結婚式の二次会で再会した話

シソとあん肝

第1話

日が落ちると、夜気にほんの少し冬の匂いが混じった。

窓の外では、ライトアップされた紅葉が静かに揺れている。

この季節の結婚式も、素敵だなあとしみじみ思う。


 友人の結婚式。

その二次会の受付を任され、名簿を確認していた指が、そこで止まった。


 ペンの先が、"元彼"の名前をなぞる。

——須々木 颯 すずき   かえで


(……え?  颯?)


 一瞬で体の中の血がざわついた。


(ちょっと待って。まさかの元彼。今どんな顔して会えばいいの!?)


「どしたの?」

隣で名簿を覗き込んだ友人が首をかしげる。

「い、いや、なんでもない……っ!」


 会場の扉が開く音とともに、背の高い影がライトの向こうに見えた。

スーツの襟を整えながら、誰かに軽く会釈している。


(……来た。え、ちょっと、まさか、今!?)


心臓が跳ね上がり、友人が怪訝そうに私の顔を覗き込んだ。

「……どうしたの? 顔真っ青だよ」

「め、め、名簿落としたかも! 下に!!!」

「え、どこに?」

言いながら、私は受付机の下に半分潜り込んだ。


「……どうも」

低くて、落ち着いた声。懐かしくて、呼吸が一瞬止まる。


 顔を上げると、そこに立っていたのはスーツ姿の颯だった。

立ち方も、手の動かし方も、何一つ変わっていない。

でも、昔より少し大人の色気を纏っていて……。


「……あ」

変な声が出た。


「久しぶり!」と言うべきか、「元気だった?」と軽くいくべきか。

どっちも喉の奥でぐるぐるして、結局、口から出たのは——


「こ、こちらにご記名をお願いしますっ!」


 颯が小さく笑って、ペンを取った。

その左手を、私は無意識に目で追っていた。


薬指に、何もない。


——それを確認した瞬間、体の力が抜ける。

安堵と、自己嫌悪と、懐かしさがぐちゃぐちゃに混ざって、胸の奥が忙しい。


***


 二次会の会場は、ほどよく明るくて、グラスの音と笑い声が、波みたいに途切れず流れていた。

ホテルのラウンジを貸し切ったフロアの中心には、ドレス姿の新婦がいて、ライトの粒が彼女の髪を照らしている。


 私はその端っこで、ほっと息を吐いた。


「ねぇ、志帆、受付ありがとね〜。助かった〜」

新婦が笑って手を振ってくる。

「ううん、こちらこそ! おめでとう~!」

グラスを持ち上げると、気持ちだけはすでに祝福モード。


——の、はずだった。


 視線の先。

人の輪の向こうで、グラスを傾ける背の高い影。

スーツの肩越しに見える横顔。手の動き。笑い方。

ぜんぶが三年前の記憶と重なる。


(やばいやばいやばい!)


 乾杯の音が鳴る。クラッカーが弾ける。

拍手、笑い声、それからカメラのフラッシュ。

会場中が祝福の熱気に包まれているのに、私の心臓だけが不安で波打っていた。


 ほんの一瞬、目が合った。

空気が止まる。


(はっ、見てたことがバレちゃう……)


 慌ててシャンパングラスをあおって、冷静を装う。

それから二次会が終わるまでの間、私は必死に新婦の友人たちと談笑し、

颯のいる方向を一度も見ないように気を付けた。


 でも、彼の声だけは、どうしても耳に入ってきた。

低く笑う声。誰かと話している声。

すべてが懐かしくて、胸が痛かった。


 三年前の恋のかさぶたは、剥がれたらまだ生傷のままだった。

……未練がましくて、意気地なしで、やっぱり、好きなんだなぁ。


***


 “飲み足りない”わけじゃない。

ただ、このまま帰るとモヤモヤが居座りそうだった。

一人で家にいると、ぐるぐると後悔のループに入りそうで、どっちにしろ飲むならと

駅前の角の、いつものクラフトビアバーの扉を開けた。

優しい照明と、琥珀色の泡。小さなガラス越しに、街の灯りが滲んで見える。


「いつもの、ハーフでいいですか?」

 カウンターの向こうから、店員が笑って声をかけてくれる。

「はい、それで」


 サーバーから立ち上がる泡の音、そのリズムを聞くだけで、少し落ち着く。

受け取ったグラスを唇に運び、ひと口。

泡が喉を抜けて、胸の奥にひんやり落ちていく。


「……今日は、変な日だったんだよね」

つい、独り言みたいに漏らす。


「何かありました?」

店員が、グラスを磨きながら声をかけてくれる。

この店の良いところは、適度な距離感で話を聞いてくれることだ。


「結婚式の二次会の受付、頼まれてさ」

もう一口飲んで、少し間を置く。

「そこに、すっごい好きだった元カレが来たの!!」


思いのほか大きい声が出てしまった。


「おぉ……ドラマみたいっすね」


「ね。でも、話しかけられなかった」

言葉が、グラスの泡に混じって消えていく。


「目が合ったのに、何も言えなくて。

受付でも“知らない人のふり”しちゃった」


店員が「ああ……」と相槌を打つ。


「もう何年も前の話なのに、まだあんなに胸が痛くなるとは思わなかったな……」

グラスを見つめながら、小さく笑う。

「私が振ったくせに、未練たらたらで、ほんと情けない」


なんだか泣きそうになって、もう一口、勢いで飲んだ。


 そのときだった。

カウンターの端で「同じの、頼む」と低い声がした。


 その声を聞いた瞬間、口に含んでいたビールが変なところに入りそうだった。

振り向かなくても分かる。

あの声の低さも、少し掠れた語尾も、体が覚えていた。


心臓が跳ね上がって、視界が揺れた。

(……嘘、でしょ)


さっきまで話していた自分の言葉が、一気に脳内で再生される。

 “すっごい好きだった元カレが二次会に来たの”

 “話しかけられなかった”


……え、聞かれてた、よね?

三年も経つのに、未練たらたらの元カノのたわごとを——

思わず目をつぶって天を仰ぐ。


「……志帆」


その声で呼ばれると、胸がきゅっと締め付けられる。


「た、たまたま!?ここに!? え、うそでしょ!?」

「俺も、驚いてる」


一瞬で顔が熱くなって、グラスの残りを一気に飲み干し、

立ち上がって、鞄を取ろうとした瞬間。


「頼むから…… 逃げないでくれ」

颯の声が、笑いの奥で少しだけ真剣になる。


つかまれた手を振り解くのは簡単だった。

ほんの少し触れているだけの力加減だったから。

それでも、声を聞いた瞬間、背中のどこかがじんわり熱くなる。


「……な、なんで……」

かろうじて出た声が、情けないほど小さかった。


 カウンターの向こうで、店員が少し困ったように、でも楽しそうに肩をすくめる。

「もう一杯、同じのでいいですよね?」

「……あ、はい……」


 店員が「了解」と笑ってグラスを並べる。

そのあいだ、誰も何も言わなかった。


(き、気まずい……けど)

 恥ずかしさと、ほんの少しの期待が胸の奥でくしゃくしゃに混ざった。


「……悪いなー、驚かせて」

颯が隣の席に腰を下ろした。

その動作がやけに落ち着いて見えて、余計に心臓が忙しい。


「元気にしてたか?」

「うん。まぁ、そこそこ?」

「そっか」


 短い返事のあと、颯がゆるりと笑った。目尻に皺ができる、あの頃の笑顔のまま。

本当に他愛もない会話なのに、喉の奥に何かが詰まってるみたいだった。

颯が、グラスのビールをごくり一口飲んで、少し間が空いた。


「……奇遇なことにな」

グラスの縁を指でなぞりながら言う。

「俺も今日、結婚式の二次会で“すっごい好きだった元カノ”に会ったんだよ」


「……え?」

心臓の音が一拍、早くなる。

「……ちょっと、やめてよ。そういう冗談、今さら」


颯は、唇の端だけで笑った。

「冗談に聞こえたか?」

「……わ、わかんない」


目を逸らして言った瞬間、彼が小さく息を吐いたのが分かった。


「……正直、俺のことなんて忘れてると思ってた」


 それだけで、心臓がまた跳ねる。

そこで意を決した。目の前に置かれた琥珀色をゴッゴッと、一気に飲み干す。


「ほんとは、ずっと会いたかったの」

言葉が勝手に出た。

「でも……私から連絡する資格なんて、ないって」


「そりゃ、ひどい振り方だったもんな」

颯が苦笑する。

「ある日、"別れて"って一通メッセージが来て、以降、音信不通。

あのときは……」

言葉を切って、グラスを傾ける。

「死ぬほど凹んだぞ」


「ごめんなさい……」


 それしか言えなかった。

グラスを見つめたまま、俯く。


「もういいよ。

ただ、今日、会場で見たときに“あ、まだ終わってねぇな”って思った」

彼の指が、テーブルの上の私の手にそっと重なる。

その温度に、心臓が跳ねた。


「お前は?」


 顔を上げると、至近距離に颯の顔があった。

笑っているのに、目だけは本気だった。


 夢じゃないだろうか。

今、大好きだった元カレに口説かれている。

あまりにも都合が良すぎて、頬の内側を軽く噛んで確かめる。


……痛い。

(現実だ……)


 グラスの中の泡が、音もなく消えていく。

店内のBGMはいつの間にか、野球中継からジャズピアノへと変わっていた。


***


「少し、外に出て歩こうか」

それをどちらが先に言ったのかは、もう覚えていない。


 イチョウ並木をヒールで歩くと、金色のじゅうたんがザク、サクと音を立てた。

週末の大通りは賑わっていて、楽しそうな顔をした人たちが行き来する。


「志帆は、今はどこで働いてんの?」


「今は大学の研究室に戻ったよ。研究補助とか、データ整理とか、相変わらず何でも屋さんって感じだけど」


 そのとき、横に並んだ若者の集団と肩がぶつかった。

「わっ……」

 よろめいた体が、すぐに支えられる。

颯の腕が、私の肩を掴んでいた。


「危ねぇな、大丈夫か?」


 咄嗟に肩を支えられた指先が触れ、

すぐに離れたのに、熱だけが残って、顔が一気に火照ってしまう。


だめだ、だめだ。

自分がちょろい自覚はある。


 足を速めて、颯から少し距離を取る。

今日は絶対にこれ以上、触れないし、触れられないぞ。

うっかり"都合のいい女"ポジションになるのだけは、絶対に嫌。


 三年経って妙に大人の色気をまとった颯は、今や誰かを惑わすタイプの男になってるかもしれない。

一度でも本気で落ちたら、もう立ち直れる気がしない。


……と、言い聞かせたのに。


──気づけば、裏路地の街灯の下、

颯の指が髪をすくって、私の耳にかけていた。

その指先は、ガラス細工に触れるみたいにやさしかった。


目が合った瞬間、息が止まる。

ほんの数秒のはずなのに、心臓が反復横跳びを始める。


(こ、この雰囲気って……! )


逃げ場を探すように下唇を噛んで、視線が泳いでしまう。

颯はふはっと笑い、閉じた私の唇をゆっくりとなぞった。


「確かめていいか?」


 何を、と言うよりも先に、唇が触れた。

懐かしいだけのキスじゃなかった。

一度離れて、もう一度。上唇を確かめるみたいに、また重ねられた。


 息が、できない。


 そして、触れたあとで、自分がそれを望んでいたことを、

心よりも早く、身体で理解した。


 あの頃と変わらない颯の香り。

でも、記憶の中よりずっと近い。

香りの粒子が記憶を次々と蘇らせる。何度も名前を呼ばれた夜も、泣いた夜も。


——懐かしい感覚。

それでも、またもう一度、始まってしまった。

「あーあ……」と思いながらも、どうしようもなく嬉しくて、笑ってしまった。


きっと自分にしっぽが生えていたら、

ぶんぶん振っているのがバレたと思う。


***


 何でそんなに好きだったのに別れたの?

友人にそう聞かれたとき、答えようとしたのに、うまく言葉にならなかった。

あの質問は、今でもときどき胸にひっかかる。


いろいろな感情がまぜこぜで、自分の中で処理できなくて、

このまま一緒にいたら、もっと苦しくなる気がした。

だから——別れを選んだんだ。


 颯の仕事は、国際医療支援団体の医師。

紛争地域や災害地域に派遣されるから、"どこで"、"いつまで"が選べるものではない。

彼が遠くに行くとき、「頑張ってね」と笑顔で送り出すけれど、

本当は寂しくて、不安で、心の中では泣いていた。

「寂しい」「行かないで」なんて、もちろん言えない。

気持ちが袋小路に閉じ込められて、どうにもならなくなった。

だから、別れよう、と伝えたのも私だ。


それでも、ずっと好きだったから再会が嬉しくて、気づいたら、舞い上がっていた。

彼の家で飲み直そうって話になって——


──そこまでは、覚えてる。


 でも、そのあとどうしたんだっけ。

ワインを飲んで、話して、それから……?

記憶が途中でぷつりと切れている。


 ……あれ?

まぶたの裏に、光が差してくる。見慣れない明るさだった。


 素肌越しのシーツはひんやりしているのに、体の後ろに、あたたかい感触。

ゆっくりとした呼吸が、背中越しに伝わってくる。

胸のあたりを包むように、腕。


(なんだか、あたたかくて、安心する……)


 日曜日だったよね、まだ二度寝してもいいかも。

なんて思いかけて──


「…………はっ!!」


 一瞬で、昨夜の断片が蘇る。

 颯の手。

 街灯の光。

 確かめるみたいなキス。

 ソファで飲んだワイン。

 寝室に運ばれて——


(うそ、うそ、うそ)


シーツの中をちらりと覗くと、

な、何も着てない!!!


(あーーーーーー!!)

思考が爆発音みたいになった。

心臓の音が高速8ビートでバスドラを刻む。

それに合わせて、記憶の断片がフラッシュバックする。


背中にかかっていた腕が動いた。すぐあとに、首筋に温かい息。


「ん……」

颯が、寝ぼけた声で小さく唸る。


「……おはよ」


そのまま、額に軽くキスをされた。


「な、なななっ……なんで!」

体が固まる。心臓のバスドラが一気にツーバスに増えた。


「……まさかって思うけど、

ひょっとして覚えてないのかよ?」

少し不安そうな目で覗き込まれる。


(……え? 覚えてないって何!?

いや、覚えてないわけじゃないけど、記憶が断片的というか……)


「んなわけねぇか……」

考える間も与えず、まだ少し眠そうな顔で、やわらかく笑いながら私の唇を啄んだ。


(あ……)


唇の表面の感触を味わうだけの行為に、胸が震える。


「……ん...っ」


 優しく唇を食まれて、時折ぺろっと舐められる。

そして、その感触で一気に昨日のベッドに入ってからの記憶を思い出した。

彼の舌が、歯列の裏側まで這い回って、息もできないくらい深く絡みついてきたことを。


 一瞬で熱が呼び戻された。

思い出すだけで甘い熱が口いっぱいに広がって、舌の根元がじんじん疼いた。

ふっと意識が遠のいた瞬間、一度、ちゅっと唇を吸われ、顔が離れる。


(そうだ、昨日の夜……。

"久しぶりだから、手加減して"って言って……)


 最初は優しかった指先が、途中から"もう我慢できない"って、首筋に歯を立てて。

恥ずかしい格好にされて、「ここ、誰にも触らせてないんだよな」って囁かれて。

奥を突かれるたび、頭が真っ白になって、でも快感だけが波みたいに押し寄せて——。

——だめ……!

思い出した瞬間、体の芯がじわっと熱くなる。

顔から火が出そうだった。


「ち、ちがっ……違うの!!」

「何が?」

「全部!! この状況が! 

たいへん!!帰らなきゃ! 宅配便!!午前指定にしたの!!」


 訳の分からないことを叫びながら、服を探して右往左往。

床に落ちたワンピースを拾い上げ、コートのボタンを1個ずらしでつける。


「おい、待てって」

「ムリムリムリ!!」


 玄関へ駆け出す。

颯の慌てる声が背中を追いかけてくる。

靴を履きながら、顔も見ずに言った。


「ごめん!ほんとにごめん!!!」


 ドアが閉まる直前、「また逃げんのかよ!」っていう声が聞こえた。


朝の風が頬を刺した。

 (……こんなの、現実じゃない)

三年間も勝手に逃げた私が、こんな簡単に幸せになっていいわけがない。

これはきっと、都合のいい夢だ。


それでも、走るしかなかった。


***



──あの後、俺はベッドで呆然としていた。


 この世に地獄と天国が同時に存在するなら、昨夜の俺は間違いなく天国だった。

少なくとも、そう思えるほどの夜だった。


三年ぶりに、元カノと再会した。


──ある日、"別れて"って一通メッセージが来て、以降、音信不通だぜ?

俺、死ぬほど凹んだぞ。


 あの頃の俺は抜け殻で、仕事も手につかねぇし、飯も喉を通らねぇ。

挙げ句、シャツ裏返しで外に出たことすら気づかねえ。

あのときの俺は、ほんとに壊れてたと思う。


 そんな振られ方をしたのに。

志帆はまだ俺のことが好きだと、ずっと好きだったと、赤くなった目で、震える声で言った。


 天にも登るような気持ちだった。

それで、必死で口説いて、部屋に連れてきた。

こう言っちゃなんだけど、三年分の愛情をぶつけあって、

すごくいい感じだったというのは、絶対に俺の勘違いではない、はずだ。


 にもかかわらず、目を覚ますと、謝罪の言葉とともに、

ものすごい慌てぶりで、逃げるように部屋を出ていった。

冗談だろ? 何でだよ!?


 俺は、シーツの上で半身を起こしたまま固まっていた。

「……えっ、逃げた? 俺のこと、今でも好きだって言ったよな!?」

ひとりごとがやけに響く。


 一瞬で昨夜の記憶がリフレインする。

キス、ベッド、あの“久しぶりの距離感”。


(……俺が何かやらかしたか?)


 シーツに背中を預けて、天井を見上げた。

夜のことが、断片みたいに頭をよぎる。


 まず、家で飲み直そうって話になったところからだ。

ソファに座って、貰い物のワインを飲んでたら、志帆の目がとろんとしてきた。

「わりぃ、そういやお前、ワインだけは弱かったよな」


「ん……。」

小さく唇を尖らせて、グラスをくるくる回してた。

その仕草が、昔と何も変わってなくて、胸の奥が少し熱くなった。


(……可愛いな、相変わらず)


 三年間、どうしてたんだろう。

誰かと付き合ったのか?

俺以外の誰かと、こうやって飲んだのか?

そう考えただけで、胸がざわついた。


「なあ、聞いてもいいか?」

彼女が顔を上げる前に、言葉が先に出た。

「三年前、“別れて”って言った理由。」


志帆の顔が、一瞬強ばった。すぐに俯いて、小さく謝る。

「ごめんね……。私が……弱かっただけ」

声が小さくて、ワインの泡に溶けていった。


「ほかに、好きなやつがいた、とか?」

聞きたくはなかった。

でも、聞かずにはいられなかった。


「……いないよ、そんなの」


「じゃあ、何でだよ」


「好きだったから、だよ。

好きすぎて、どうしていいか分かんなくなったの。」

——胸が締めつけられた。

その言葉が、三年間の沈黙をぜんぶ溶かしていくみたいだった。


「いつ帰ってくるかも分からなくて、"そっち"はずっと遠くにいて。

……私の誕生日も、大事な記念日も、颯はいつも電話の向こうだった。

さみしくて、困らせることしか言えなくなりそうで……。

いっそ嫌われちゃう前にって……ごめん。……ごめんね……勝手だった」


 最後のほうは、もう言葉が続かなくて、息の合間に小さなしゃくり声が混じった。

志帆の小さく鼻をすする音だけが、部屋に残った。


 泣き止ませようとした手を、そのまま頬に添える。

瞳に溜まった涙が、また一つ、大きな粒になり落ちた。


(……俺のせいだ)


しばらく、何も言えずに、ただ、落ちた涙の跡を親指でなぞることしかできなかった。


──俺は三年前のことを思い出していた。

いつ、どこに行くか分からない仕事をしてる男が、志帆を幸せにできるのか。

正直、自信がなかった。

だから……別れを切り出されたとき、心のどこかでは「仕方ない」と諦めていた。


引き止める権利なんて、俺にはないって思ってた。


あの頃の息苦しさが、今になって胸の奥でゆっくり疼く。


「なぁ……」


少しだけ間を置いて言う。


「なんで、名前、呼んでくれねぇんだよ。今日ずっと」


涙の跡を指で拭いながら、志帆が半分泣いたまま笑う。

「……あふれちゃいそうで、いろいろ」


「呼んで」


しばらくの沈黙。赤くなった目で、彼女が顔を上げる。


「……………颯。」


その声を聞いた瞬間——

 何かが堰を切った。

もう、我慢ができなかった。


そのまま奪うように唇を重ねて、ソファから抱き上げる。

寝室には月明かりだけがカーテンの隙間から差し込んでいた。


 見慣れた寝室で、見上げてくるその顔を見たのは三年ぶりだった。

ベッドに下ろすと、志帆が視線をそらして、そっと体を丸める。

恥ずかしがってる、その反応が、愛おしくてたまらない。


「待って……」

ためらいがちに志帆が口を開いた。

「……私ね、この三年、誰ともしてないの」

「……まじか」


(……俺もだけど)

言おうとして、やめた。

今は志帆の話を聞きたい。


「ほかの誰かとなんて、考えられなかったから」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。

同時に「俺以外に触らせてない」って事実が、胸に響く。

独占欲が、どうしようもなく膨れ上がる。


(……やべぇな、嬉しすぎる)


「だから……その……」

もじもじしながら、小さな声で続ける。

「手加減、して……?」


(……それ、そんな言い方したら逆に煽ってるだろ……!)


 理性がきしむ音がした。

けど、深呼吸して自分を落ち着かせる。


 三年ぶりなんだ。

怖がらせたくないし、痛い思いもさせたくない。

でも、独占欲が暴れてる。

「俺のもの」って、体に刻み込みたい。


(……落ち着け、落ち着け)


 深呼吸。

大丈夫だ。優しくする。絶対に、怖がらせない。


「わかった。」


そう約束するように言って、ゆっくりと指先でメガネのフレームを外す。

サイドテーブルの上に置いた瞬間、カチ、と小さく音がした。


瞼に、頬に、濡れたキスを落とす。

「ふふっ……」

くすぐったそうに笑うその顔は、昔と何も変わっていなかった。


 ワンピースのボタンに指をかけ、一つずつ外していく。

肌があらわになるたびに、息が浅くなるのが分かった。


「…………っ…颯……」


俺の名前を呼ぶ声が、胸を締め付ける。


 最後のボタンを外して、ワンピースを肩から滑らせる。

布が床に落ちる音がした。

下着だけになった志帆は、恥ずかしそうに体を縮こませた。

でも、その仕草がまた愛おしい。


(……もう二度と、離さねぇ)


 別れようって言われたとき、志帆が他のやつと幸せになれるのならって、思った。

でも今はそんなの、ぜってぇに嫌だ。


 シャツのボタンを外しながら、志帆の反応を見る。

ベルトを外す音が、静かな部屋に響いた。

志帆が、俺の体をちらりと見て、すぐに目を逸らす。

頬が、赤い。


つぶさないように、彼女の体に覆いかぶさって、首筋にキスを落とす。

「ん……っ」

小さな声が漏れる。


首筋から、鎖骨へ。

舌先で、汗の味を確かめるように舐める。


「ひゃっ……」

体が小さく跳ねた。


胸元に手を滑らせて、ブラのホックを外す。

柔らかい膨らみが、俺の手のひらに収まった。


鎖骨、胸、やわらかいお腹。

かつて志帆が感じやすかった場所を、ゆっくりと唇で辿っていく。


「恥ずかしい……」

顔を両手で覆っている。


「ん? 何が」

「もう全部だよ……」

そう言いながら、体をぎゅっと縮めた。


笑いそうになるのを堪えて、優しく手を引き剥がす。


「隠すなって」


 もう一度キスをした。今度は深く、舌を絡めながら。

志帆の口の中は、ワインの甘い味がした。

舌を吸って、唇を啄む。

何度も、何度も。


「ん……んっ……ふあ……っ」


胸の先端が、すでに硬く尖っている。

指先でそっと触れると、「んっ」と小さく声が漏れた。


「……敏感になってるな」


親指と人差し指で軽く摘むと、小さな悲鳴が上がる。

コリコリと硬くなったそれを、指先で転がす。


「あ……んっ……」


もう片方の手で、もう一方の胸を包み込む。

柔らかい感触が、手のひらいっぱいに広がった。


舌先で、硬くなった先端をぺろりと舐める。

塩味と、ほんの少し甘い味がした。


ちゅ、ちゅぷ、と水音を立てて吸うと、志帆の背中が弓なりに反った。


そっと歯を立てる。

「あ…ん……ッ……」

抑え切れない甘い吐息が、部屋に響いた。


「腰、浮かせて」


 目を潤ませながら、従順に従う姿がいじらしい。

少し持ち上げられた腰からショーツを抜き取ると、最後の布が、床に落ちた。

もう何も隠すものは、何一つなかった。


太ももに手を滑らせる。

すべすべした肌が、俺の手のひらの下で震えている。


「ひゃっ……あぁ……」

体が小さく跳ねた。


太ももの内側は、触れただけで震える。

ここも、昔から敏感だった。


ゆっくりと、内側から上へ撫でていく。

志帆の呼吸が、荒くなっていく。

指を下に滑らせて蜜口に触れると、蜜がしとどに溢れているのが分かった。


「ここも、触れたやつ、いなかったんだな」

耳元で囁くと、志帆は頰を赤らめて、小さくうなずいた。


俺だけだ。

その事実が、嬉しくてたまらない。

独占欲が、静かに燃え上がる。


指先で、そっと割れ目をなぞる。

ぬるりと濡れた感触が、指に伝わってくる。


「んっ……」


小さく開いた入り口に、中指の先端を当てる。

濡れてはいるが、三年分の空白がきつく内壁を締めつけている。

優しく、ゆっくりと、志帆の体に俺の形を思い出させるように浅い部分で慣らしていく。


第一関節まで、ゆっくりと沈めていくと、

熱くて、柔らかくて、きゅっと指に吸い付いてくる。


「んっ……あ……」

 小さな声が漏れる。

その声を聞くたびに、下半身が熱くなる。


(……やべぇ、早く入れたい)


指を少しずつ深く入れていく。

第二関節、そして指の根元まで。

内側の柔らかい壁が、指に吸い付く。


「…ぁっ……はぁっ……ッ…ああ…んんっ…」


ゆっくりと指を動かすと、とろりとした蜜が溢れて、

俺の手のひらまで伝ってきた。


「なぁ、今、どの指が入ってるか分かるか?」

少し意地悪な質問。付き合ってた頃の、ちょっとした遊び。


「……あっ……ん……っ、なっ……なか、ゆび……」


「正解」

心の中で笑う。


「じゃあ……」

小さく笑って、もう一本、人差し指を追加する。

入り口が、じわりと広がった。


「んっ……あ……」


内側のざらついた部分を二本の指で擦ると、

とろとろに蕩けた彼女の内側から、甘い蜜が溢れた。


「……はぁっ……あ…っ……颯……っ

き、もち……いいッ♡」


「……ッ」


俺の名前を呼ぶ声が、たまらない。

しかも「気持ちいい」なんて言われたら、もう……。


指を深く入れて、内側をゆっくりと擦る。

すると、志帆の体が震えた。


太ももが震えて、つま先がぴんと伸びている。


 ……"丁寧に"と自分に言い聞かせるが、

志帆の反応を見るたびに、理性が削れていく。


指を動かしながら陰核も同時に擦る。


「あっ……! だめ……っ」


 ここを触ると、敏感に反応するのだって変わってない。

小さく硬くなった突起を、二本の指で挟み、軽く上下に動かす。


「んっ……あ、あぁっ……そこ……っ」


指を抜いて、また入れ、角度を変えて、奥を擦る。

志帆の声が、だんだん高くなっていく。


「はぁっ……颯……っ、も、もう……っ」


内側がきゅうきゅうと指を締め付けてくる。


「イキそうだよな?」

こくんと志帆は頷く。


「まだ、ダメ」

囁くと、志帆が潤んだ目で俺を見上げる。


「……いじわる……」

涙目で見上げてくるその顔が、エロすぎる。

その表情を見てるだけで、もう我慢できなくなりそうだ。


指を抜いて、志帆の唇にキスをする。

深く、舌を絡めながら。

濡れた指で、志帆の太ももをそっと撫でる。


「ん……んっ……」


志帆の体が、小刻みに震えている。


「なぁ……もう、いいか?」

一度、確認するように唇を寄せると、志帆はうっとりとした顔で頷いた。


「うん……いれて」


その目が潤んでて、頬が赤くて。

汗で濡れた髪が、額に張り付いている。

無防備な可愛らしさに、俺の理性の箍が緩む。


(……もう、限界だ)


すっかり柔らかくなったそこに、ゆっくりと自身の先端を当てる。

熱くて、濡れた入り口が、俺を迎え入れようとしている。


(……っ)


腰を進めて、ゆっくりと沈み込ませていく。

先端が、ぬるりと入り口を押し広げた。


志帆が小さく息を呑む。


「……ッ…ぁ……っ!」


(……っ、きつい)


三年ぶりのそこは、信じられないくらい熱くて、

柔らかく、きゅうっと俺を吸い付かせるように締め付ける。

入り口だけで、この締め付けかよ。


(……ヤバい、このままじゃ)


少しずつ、少しずつ、腰を進める。

志帆の内壁が、ゆっくりと俺の形に広がっていく。


「んっ……」


志帆の眉が、苦しそうに歪む。


「痛いか?」

「……だいじょぶ……」

でも、その顔は少し強ばっている。


(……無理すんな)


動きを止めて、志帆の頬にキスを落とす。

額、瞼、鼻の頭、唇。


「焦らなくていいから」


優しく囁くと、志帆の体から少し力が抜けた。


「……うん」


もう一度、ゆっくりと腰を進める。

半分ほど入ったところで、一度止まる。

内側がきゅうきゅうと俺を締め付けてきて、熱が奥へ奥へと伝わっていく。


(……っ、やべぇ)


このまま動いたら、すぐにイッちまいそうだ。

深呼吸して、自分を落ち着かせる。

そして、最後まで、ゆっくりと腰を沈めた。


「んんっ……!」


奥まで、全部入った。

腰を密着させたまま、しばらく動かずに志帆の体が、俺に慣れるまで待つ。


「……んぅ……はぁ……」


志帆の荒い息が、俺の頬にかかる。

その熱が、直接肌に染み込んでくるみたいだった。


(……愛してる)

心の中で、何度も繰り返す。


少ししてから、ごく浅く腰を動かす。

抜くのは、ほんの数センチだが、ちゅぷ、と小さな水音が響いた。


「ん…っ、あぁッ……んぁ………あっ…ん…」


志帆の吐息が、だんだん甘く、切羽詰まったものに変わっていく。


内壁が、とろりと俺を包み込む。

蜜が溢れて、結合部から垂れていく。


志帆の体が、俺を受け入れ始めてるのが分かった。

それでもゆっくりと、浅く、浅く。

奥まで入れないように、我慢する。


志帆の顔を見る。

目を閉じて、唇を噛んで、必死に声を堪えている。

頬が紅潮して、首筋にうっすらと汗が浮いている。


「……はぁ…っ、あっ………」


上目遣いで物言いたげに俺を見つめて、喘ぎ混じりに

「おね…が、い……っ……もっと……あんっ……

お…く…っ…奥に…ッ、きて…」


その言葉が、俺に残っていた最後の理性を焼き切った。


(……ごめんな、もう無理だ)


問答無用で彼女の両足をグイと持ち上げ、肩に担がせる。


「えっ、ちょっ……!」

慌てる声が、可愛い。


この体勢なら、もっと深く入る。

志帆の一番奥まで、届く。


浅いところを刻んでいた動きが、一気に奥を抉る。


「あっ……! そこ、だめぇっ!」

志帆の体が大きく仰け反った。


「っ、はぁ……!」


(……ここ、気持ちいいんだよな)


覚えてる。

ここを突くと、志帆は声が出せなくなるくらい感じることを。


腰を引いて、また奥を突く。

角度を変えながら、何度も深く突き上げる。


熱くて、狭くて、気持ちよすぎる。

腰を掴んで、引き寄せ、奥の奥まで何度も突き上げた。


ぱん、ぱん、と肌と肌がぶつかる音が響く。

シーツが揺れて、ベッドがきしむ。


「すきだ……すきだ、志帆……!」


……言いたかった

三年間、ずっと言いたかった。


呼ぶたびに腰を強く打ち付け、掻き回し、彼女の最奥を抉った。


「んんっ、あぁっ……もう、だめ……っ、イッちゃう……っ」


志帆の体が痙攣している。

つま先が丸まって、背中が弓なりに反っている。

その喘ぎと締め付けに、俺ももう制御が利かなくなっていた。


内壁が俺を締め付けて、先端が、きゅっきゅっと吸い付かれる。

志帆の内側が、俺のものを離さないように、必死に絡みついてくる。


(……っ、ダメだ)


「……ッ、はぁ……!」


深い呼気とともに彼女の首筋に顔を寄せる。

汗で濡れた肌は熱くて、甘い香りがした。

衝動が抑えきれず、首筋に唇を押し当てる。

軽く歯を立て、吸い上げると、志帆が「んっ……!」と喘いだ。


「颯……すき……っ…颯っ…」


俺の名前を叫ぶその声が、引き金だった。

内壁が、一気にきゅううっと収縮する。

波打つように、何度も何度も締め付けてくる。


「……っ、志帆……!」


限界だった。


「出る……ッ」


奥の奥で、どくん、どくんと脈打つ。

志帆の一番奥に、熱いものを吐き出す。


一度、二度、三度。

びくん、びくんと脈打つたびに、彼女の奥を満たしていく。

溢れそうなほど注ぎ込んでも、まだ止まらない。


彼女の内側が、ビクンと痙攣しながら、

俺のものを絞り取るように、きゅうきゅうと締め付けてくる。

その締め付けで、また奥から熱いものが溢れ出した。


志帆は俺の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめてくる。

その力が、だんだん弱くなっていく。


 荒い息が、部屋で二重に重なる。

俺は、彼女に覆いかぶさったまま、しばらく動けなかった。


「……ん、おもい……」


 くぐもった小さな声が聞こえて、我に返る。

「わりぃ」

慌てて体を横にずらす。

抜く瞬間、ぬるりと濡れた感触があった。

俺のと志帆のが混ざったものが、とろりと溢れ出てくる。


汗で額に張り付いた髪を、指で優しくかき分けると

俺の熱が、まだ彼女の肌に残っているみたいだった。


志帆は耳まで真っ赤にして、慌ててシーツを引き寄せて、

とろとろに蕩けた顔を隠そうとする。

首筋には赤い痕が残っている。


「……ひどい」

「何が?」

「……優しく、するって言ったのに」

快感の余韻で、まだ声が震えてる。


「……悪かった。でも、お前が可愛すぎてさ……」


口では謝りながらも、胸の奥では、どうしようもない満足感が広がっていた。


 三年間誰ともしてない。その言葉に、正直、舞い上がった。

気を遣ったし、優しくした。……最初は。

途中から? 我慢が利かなくなった自覚はある。

志帆の反応が良すぎて、声が可愛すぎて……。


首筋につけた痕を、指でそっとなぞる。

志帆が、体を小さく震わせた。


(……俺の)


彼女の肩に顔をうずめて、深い息を吐く。

三年分の何かが、やっと満たされた気がした。


……いや、全然足りない。

シーツの下で、体が反応し始める。

まだ熱が引かない。


「なぁ」

「……なに?」


「もう一回……」

「えっ……むりむりむり!」

シーツごと、慌ててベッドの端へ逃げられた。


でも、その動きがぎこちない。

腰が、痛いらしい。


「冗談だよ」

「……うそ。本気でしょ」

「……バレたか」


俺は笑って、シーツごと彼女をもう一度組み敷いた。

「ちょっ、まっ……! ん……っ!」

もう一度、今度は逃がさないとでも言うように、深く唇を塞ぐ。

志帆の唇は、まだ熱かった。


 結局、三年分の飢えを満たすように、何度、彼女を求めたか覚えていない。

気がつけば、夜が白み始めていた。

疲れ果てて、腕の中ですうすうと寝息を立て始めた志帆の髪をそっと撫でる。


(……本当に、俺のものになったんだよな)

信じられなくて、髪の匂いをもう一度確かめた。


 無防備な寝顔に、もう一度軽くキスを落とす。

もう二度と、この手は離さねぇ。

そう誓って、俺も目を閉じた。


***


───そう、それが昨夜の出来事だった。


頭を抱えて、ため息を吐いた。


シーツの端に、小さな銀の光。

指でつまむと、昨日志帆がしてたピアスだった。


「……はぁ……置き土産、かよ」

笑いながらも、胸の奥がちくりと痛む。

よく見れば、これは付き合っていたころに俺が渡したプレゼントだ。


(……まだ、つけてくれてたんだな)


 ベッドから立ち上がって、窓辺に寄る。

カーテンを開けると、朝の光がまぶしかった。

街路樹のイチョウが風に揺れている。


金色の葉が、ひとひら、ベランダの縁をかすめて落ちた。


「今度は、ちゃんと捕まえにいくからな」


 声に出したら、少しだけ胸が軽くなった。



***



 家に着いてからも、ずっと心臓の鼓動が早いままだ。

シャワーの水音が止まると、世界が静かになった。


 髪をタオルで押さえながら、鏡の中の自分と目が合う。

鏡の中の自分は、少し知らない人みたいに見えた。

頬がほんのり赤い。これはお湯のせいじゃない。


「……あーーーーもう」

声が漏れた。


 ソファに座って、すう、はあと、深呼吸する。

冷えた指先を見つめていると、昨夜のことが波のように押し寄せてきた。

颯の手の温度。酔った声。抱きすくめられた体温。熱っぽい目。

……全部、現実。


 胸の奥が、どうしようもなく温かい。

けど、そのすぐ隣で、不安がじっと息を潜めていた。


(一夜のノリだったら、どうしよう)

そう思った瞬間、胃のあたりがずしんと重くなった。


 結局、何かを確かめるのが怖くて逃げてしまった。

——それを知った瞬間、また全部が壊れる気がしたから。


 でも……この逃げ方って、三年前と同じだよね。

自分で壊して、後悔して、泣いて、ぐるぐる回って。

少しも進歩してない。


***


 三日、過ぎてしまった。

駅前を通るたび、あのビアバーの前で足が止まる。


(……もしかして、颯、また来てたりして)


そんな淡い期待を抱いて、ガラス越しに店内を覗いてしまう。


(……いるわけないよね)


分かってる。分かってるのに、足が勝手に向かってしまう。

でも、彼の姿はない。


 仕事中も、颯のことばかり考えてしまう。

書類に目を通していても、文字が頭に入ってこない。


(会いたい……)


でも、どうやって?

連絡先は三年前に消しちゃった。

友達に聞く? でも何て言えばいいの?


"元カレと一晩過ごして逃げちゃったから連絡先教えて"?

あまりにも恥ずかしすぎる。


(っていうか、颯は私のこと、どう思ってるんだろう)


また逃げた女。

……もう、愛想尽かされたかな。


 考えれば考えるほど、胃のあたりが重くなる。

夜、一人でベッドに入ると、あの夜のことが蘇って、胸が苦しくなる。


(………ばか。私、ほんとに最低で最悪のクズ)


……三年前も、私はこうだった。

自分の不安だけを押し付けて、彼がどんな思いかを考えようともしなかった。

また同じことを繰り返すの?


 でも、あの日、颯は私の身勝手な理由を、怒りもせずに聞いてくれた。

「まだ終わってねぇな」って、言ってくれた。

信じて、みてもいいのかな。ううん、私から、信じなきゃ!


 そんなとき、二次会の友達から通知が届いた。

『志帆ちゃん、颯が連絡先聞いてきたよ

教えていい? てか何があった!?』


(……颯が、私の連絡先を?)


 指が震える。返事を打とうとして、消して、打って、また消す。

その間にもう一通。


『ピアス、預かってるって。渡したいって言ってたよ。』


(……あのピアス)


 逃げ場がない。……のに、胸が少し軽くなった。

友達に『颯の連絡先、教えて』と送ると、三十秒で返信が来た。


 颯には、ごく短い文章を打つ。

『友達から連絡先、聞いたの。志帆です。

駅前のクラフトビアバー、覚えてる?そこで待ち合わせできるかな』


送信。

——送っちゃった。

でも、もう逃げるのはやめよう


返信が来るまでの三分が、三時間みたいに長い。

スマホを持つ指先が、じわりと冷えていく。


『わかった。明日の19時でいいか?』


「……うん」

誰もいない部屋で、小さく返事をした。


***


 待ち合わせの日。三十分も早く着いてしまった。

扉を開けると、優しい照明と琥珀色の光。

カウンターの向こうで店員が「あ」と目を丸くする。


「いらっしゃい」

「……こんばんは」


顔が熱い。絶対、この間のことも覚えられてるよね。


「今日は……その、待ち合わせなんです」

照れ隠しに笑うと、店員が「おお!」と嬉しそうに笑った。

「じゃあ、席、空けときますね」

「あ、ありがとうございます……」


 カウンターの端の席に座って、グラスの水を一口。

喉が渇いてる。緊張してる。

時計を見る。あと十分。


(……来るよね)


 そのとき、扉が開く音がした。

振り向くと、コートを羽織った颯が立っていた。

少し息を切らしている。急いで来てくれたんだ。


「……悪い、待たせた」

「ううん、私もいま、来たところ」

嘘だけど、そう言う。


店員が笑って声をかけた。

「いつものでいいですか?」

「あ、はい」 「はい」


 同時に答えて、間が落ちる。すぐ、二人とも小さく笑った。

サーバーの泡が立ち上がる音だけは、店内で規則正しく響いていた。


「どうぞ」

目の前に、琥珀色のグラスが二つ並んだ。

「……乾杯、する?」

颯が、少し照れたように言った。

「うん」


 グラスを軽く合わせると、小さな音が、店内に響いた。

ひと口飲んで、泡が喉を抜けていく。少しだけ苦い。


「……この間は、ごめん」

先に口を開いたのは、私だった。


「……怖かったの」

言葉が、勝手に出た。

「一晩のノリだったらって思って。だって、お酒も入ってたし。

勝手に期待して、その後に傷つくのが……怖くて」


颯が、グラスを置いた。

そして、まっすぐこちらを見る。


「ノリなわけ、ねぇよ」

低い声。でも、叱るような優しさがあった。

「俺が三年もの間、誰とも付き合わなかった理由を考えろ」

「……そんなの、聞いてない」

「言ってねぇもん」

「ずるい」

「お互い様だろ」


 彼がポケットから小さな袋を取り出した。

その袋を開けると、銀色の光がのぞく。

——私のピアス。


胸が、きゅっと締め付けられた。


「……まだ使ってくれていたんだな」

「うん……。」


受け取ろうとした手を、そっと包まれた。温かい。


「なぁ」

かすかに震えた声。

「俺、やり直したい。今度こそ、ちゃんと向き合いたい」


目の奥が熱くなる。涙が出そうで、下唇を噛んだ。


「……私も」

かろうじて出た声が、情けないほど小さかった。

「もう、逃げないから」

「ほんとか?」

「……うん」

颯が、ふっと笑った。


 カウンターの向こうで、店員がこちらを見て親指を立てた。

それから、小皿におつまみを盛って、そっと置く。

「お店からのサービスです」

「……ありがとうございます」

二人で笑って、もう一度グラスを傾けた。


 店を出ると、夜気は冷たくて、少し冬の匂いが混じっている。

金色の木々が、街灯の光を受けて揺れている。

二人で並んで歩く。

ヒールがザク、サクと音を立てた。


「なぁ」

「ん?」

「次の休み、空いてるか?」

「……たぶん」

「じゃあ、ちゃんとデートしよう」

「……ちゃんと」


そのとき、颯の手が、そっと私の手に触れた。

指が絡まって、ぎゅっと握られる。


「もう離さねぇからな」

「……うん」

もう一度、小さく返事をした。


 今度こそ、ちゃんと前を向ける気がした。

イチョウ並木を抜けると、街のイルミネーションが静かに光っていた。

冬の匂いを含んだ風が、二人の間を通り抜けていく。


——これが、本当の始まり。

手を繋いだまま、夜の街を歩いた。

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すっごい好きだった元カレと結婚式の二次会で再会した話 シソとあん肝 @shiso_to_ankimo

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